自分らしくを大切にする人生 その1 ~ゲイとして生まれて小さい頃の悩み。ピアノ、ソフトボール、ゴム飛び、ニックネーム。~
始めまして。きよと言います。
年齢は39歳、東京に住んでいます。
見てのとおり、タンクトップと、坊主で、おにぎりも好きなので、「山下清」と言われますが、本名が竹内清文で、「清」は同じなので勝手に親近感を感じています。
仕事でたくさんの人と会う、特に30代~50代くらいの女性の方と会うことがおおいのですが、みなさんからは「きよちゃん」と呼ばれているので、みなさんもきよちゃんってよんで下さいね。
僕の人生を伝える時、何がキーになるかな?と思うと、「自分らしくある」ということだと思ったので、それをテーマにここで書いていきたいと思います。
僕はゲイで、出身は岡山県の小さな田舎の勝北町ということころです。今は市町村合併で津山市となりましたが、町は人口7000人くらいの小さな町。
家の周りは山と田んぼ。
両親は酪農業をしていて、乳牛を飼っていて、専業農家。おじいちゃんとおばあちゃんも農家で、兄が1人。
近所のお店までは自転車じゃないといけなくて、買い物もめったに小さい頃は行きませんでした、というか、行けませんでした、笑。
母は酪農で忙しいので、祖母がごはんを作ってくれていたのですが、それも典型的な田舎ごはんで、小さい頃は近所のさおりちゃんとかよっちゃん(女の子達)はレストランとか街につれて行ってもらっていて本当にうらやましかったです。おばあちゃんは「スパゲッティ」も発音できなくて、「すーぱー^げてー???」って言っていましたから、笑、とにかく出される料理は畑で取れた野菜中心。
今思うととても贅沢な食事だったと思うのですが(畑で取れた新鮮な食材を毎日食べていたわけですから)、当時は嫌でいやでしょうがなかったです。
そんな田舎で生まれた僕は、ゲイでした。というか、今もゲイですが。
近所の同級生は女の子ばかりで、さおりちゃんがいちばんのお友だち。保育園でも(保育園も遠くて片道2キロ!でもほぼ毎日歩いて通っていました。)遊ぶのが好きなのは女の子。
別に女の子になりたいとか、そんな気持ちはなかったように記憶していますが、とにかく女のこと一緒にいるのが自然で、楽しかったんです。
でも、まず一つ目のハードルがやってきたのが、ピアノ教室でした。
保育園では、土曜日の午後ピアノ教室があって、さおりちゃんも、よっちゃんも、りょうこちゃんも、みゆきちゃんも(だったかな?って言っても、だれかわかんないですよね、笑)、みんなピアノを習っていました。
僕も習いたくて、両親に習いたいと言ったのですが、答えはNOでした。
理由は確認していないんですが、たぶん、その保育園のピアノ教室はみんな女の子だけで、男の子は独りもいませんでした。だから両親も抵抗があったのではないか、と想像します。
土曜日の午後、女の子たちはピアノを習っているのに、僕1人、ピアノが習えなくて、さびしく家に帰ったのを覚えています。
それでも負けなかった僕は、ねばって、小学校に入ってから何とか両親からYESをもらったのですが、なんと通わされたのは、近所の酪農家の女性のところ。その方はピアノの先生もされていて、自宅にピアノがあったので、そこでレッスンを受けました。
僕は女のことたちと一緒に大手のピアノ教室でピアノが習える!って期待していたのですが、気付くと、僕1人、周りには牛たち。ピアノを聴いてくれるのは女のことたちではなく、牛でした、笑。
でもそれでもピアノが習えることは本当にうれしくて、とっても楽しかったです。
先生が妊娠されて、レッスンが中断されてそこでやる気も落ちてしまって続かなかったのですが、30歳のころもう一度ピアノを習おうと一大決心した僕は、当時住んでいた沖縄でピアノ教室にかようようになって、3月に習い始めて、なんと5月の僕の誕生日(5月12日)には友だちたちをあつめてピアノリサイタルをしました。戦場のメリークリスマス、カノン、主よ人の望みの喜びよの3曲を弾きました。先生はまさか2ヶ月でこの3曲を弾けるとは思っていなかったみたいで、リサイタルでは涙を流して喜んでくださったのが印象的でした。
(ちなみにその先生、僕の生まれた勝北町のとなりの奈義町で育ちその後引っ越されたのですが、同い年で共通の知り合いもいてお互いビックリでした)
そのくらいピアノが好きでした。
次のハードルは、ソフトボールチームでした。
僕の地元では、ソフトボールチームが活発で、子ども達はほぼ全員ソフトボールチームに入って練習をしていました。父兄も熱心で試合にも応援に来たり、もう地域をあげてがんばっているような感じでした。
ちなみに、小学校は1学年1クラス。30名弱でした。1年生から6年生までずっとクラスは変わらず、クラスメートも一緒。そんな小さな小学校でした。
でも僕はソフトボールが嫌いでした。
というか、男の子のチームでソフトボールをやるのが嫌で嫌でしょうがなかったんです。
今でもその傾向はありますが、男っぽい、ガッツでがんばる!みたいなものが本当に苦手で、「男は黙ってサッポロビール!」なんてCMもありましたが、柔道とか剣道といった武道も本当に窮屈だし、どちらかというと、おしゃべりしたり、きゃっきゃきゃっきゃするのが好きなのです。
でも、男子のチームがいやでも、女子のチームは嫌ではなかったんです。
ソフトボールの練習は女子もしていて、確か父親がそのコーチか何かをしていた時に見に行ったのですが、「ふぁーいとふぁいっとーーー☆」「なぁいすぴっちゃー☆」みたいな、女のこの声でやっている掛け声とか、今でも覚えていますから、とっても見ていて楽しかったのでしょうね。(と書きながらちょっと恥ずかしい、笑)
女子のチームだったら楽しかったのですが、男子のあのマッチョな(精神的に)、おっす!みたいな、雰囲気は本当にあわなくて、とにかく嫌でいやでしょうがありませんでした。
でも地域のこどもたちはみんなやっているので、無理やり入らされることになり、嫌々練習に行っていました。でもやっぱり嫌で、ボールを胸であてて取れとか、コーチの男っぽい指導とか、もう無理でした、笑。(と今は笑えますが、当時は本当にきつかったです。)
本当にきつくて仕方なかったので、父親に辞めたいと相談したこともあったのですが、
「なんでだ?周りの男の子はみんなやっている。おまえだけやらないっていうのはだめ。みんなやっているんだからやりなさい」
という返事でした。
でも本当にきつくて、たぶん何回も父親に訴えたのですが、聞いてもらえず、「周りの男の子がやっているんだからやりなさい」という言葉が印籠のように、僕はひれふすしかありませんでした。
でもある日仮病を使って休んだことがあるんです。
休んで近所のゆみこちゃんと近所の川原でままごとをしました。それは本当に楽しかったのですが、
なんとその日に限ってソフトボールチームがランニングでその川原の近くを通ったんですね。
そして、見事にばれました。
「あいつ、ソフトボール休んで、女のことままごとしているぞ」
って言う声が聞こえてきて、もう、恥ずかしさと、罪の気持ちで、消えてしまいたい気持ちになったのを覚えています。
一学年一クラスの学校ですから、そのことは翌日学校に行ってもからかわれるわけですし。
当時の僕としては、父親に言ってもだめ、でも努力してもやっぱりあの男子のチームはいや、だれもわかってくれなくて、その最終手段で、仮病を使って近所の女の子と遊んだわけです。
僕が安心して、自分らしくいられるのは、そのゆみこちゃんとの川原でのままごとだったのですが、それすらばれて、笑われて、僕にとって、本当に自分らしくいる場所がなくなっていったのでした。
これは本当にきつかったです。
小さな子どもにとって、逃げ場がない。
最近いじめの問題で「本当にしんどかったら逃げなさい」と声をかけてあげようという意見を聞いたことがありますが、本当に、当事者は逃げたいのだと思います。
僕も本当に逃げたくて仕方なくて、だれもわかってくれなくて、それで逃げたのにばれた。
安心安全な場所がない、親に相談しても門前払い、というのは小さな小学生の僕にとっては本当にきついことでした。
ちなみに、その川原とはここです。湧き水がでるきれいな水のところです。
また、もう一つよく覚えているのは、小学校高学年の頃のこと。
女の子とたちは学校の休み時間ゴム飛びをして遊ぶのですが、僕もそれに一緒に参加して遊んでいました。(って、今の若い人たちはゴム飛びをしらないって聞いたのですが)
女の子たちはスカートのしたのパンツが見えないように、スカートを手で押さえながらやっていて、いいなーあんなふうにやりたいなあと思っていました。(といっても、当時スカートがはきたかったかと言われると、NOではきたいとは思わなかったんですが。)
男の子たちは校庭でサッカーをしたりとかするのが人気でしたが、僕にとってはこのゴム飛びが大好きな遊び。
ゴムもいろんないろのゴムを購入して、きれいなゴム飛びようのゴムを作って、女の子たちときゃっきゃきゃっきゃ遊んでいました。
また女の子たちはおたがいにニックネームで呼んでいて、りょうこちゃんは「りょう」、みゆきちゃんは「みゆ」、さおりちゃんは「さお」とか呼び合っていて、僕も普通にそうやって彼女たちを呼んでいました。
そうしたところ、ある日、同級生の男の子がやってきて僕にこういいました。
「きよちゃんて、変なの。まわりの男子はゴムとびも、ニックネームで呼んだりもしないのに。あれは女子がやっていることなのに、変だね。」
って。
これは今でも覚えています。「変」っていう音の響き。
そしてその時の同級生の冷たい目。馬鹿にしたような顔。
これは本当にショックでした。
つまり、僕としては本当に自然に、別にきをてらっているとか、他の人と違うことをしようとか思っているわけではなく、本当に自然に、女のことたちとゴムとびをしていたし、ニックネームでよびあっていたんです。
そんな自然なことを「変」といわれるのは、どううけとめていいのか、正直分かりませんでした。
でも、「変ってことはもうやらないほうがいいんだ。僕は変わっているんだ。」って悩み始めたのは事実でした。
子どもにとって自然な気持ちでやっていることを変と言われて、それは翼をもぎとられるような、そんな感じでした。
もうゴムとびはしないほうがいいんだ、
ニックネームで呼び合わないほうがいいんだ、
それは本当にきついことでした。
自然な自分の気持ちを抑え始める、それが人生で始まった時のようにも思います。
ピアノも、ソフトボールも、ゴムとびも、ニックネームで呼び合うことも。
僕にとっては自分らしくいられることが本当に難しかった、そんな小学校時代。
そしてそれを誰にも相談できなかったというのが、本当にしんどかったです。もしタイムスリップして当時の僕に声が掛けられるなら、「大丈夫よ!全然変じゃないよ!やりたいようにやっていいんだから!」って言ってあげたいです。(未だにそれを思うとうるっときます。)
子どもにとって自己肯定感は本当に大切ですよね。
それがなかったことで、僕は本当に悩んだし、自分を受け入れられませんでした。
今39歳で、ゲイだということもカミングアウトして仕事をしていますが、ここまでたどり着くのはそんなに簡単ではありませんでした。その話をこの場でもシェアしていきたいと思っています。
長い文章、読んでくださってありがとうございます。
ps 大人になって、フェイスブックでゲイだとカミングアウトして、地元の同級生たちも僕がゲイだって言うことを知って、ありがたいことに、みんな受け入れてくれています。
同級生達の女のこと再会して、こんな写真も取れました。
大好きな写真の一つです。
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