僕が骨髄提供した時の話 〜いきさつ〜

後編: 僕が骨髄提供した時の話 〜提供時の制約〜
僕は、2005年4月に骨髄提供しました。
4月何日なのかを公表すると、患者さんがこっちを特定できてしまう可能性があるので、公表してはいけません。
お互いの連絡先等は絶対に分からないシステムになっています。

手術やその後について、当時の日記が残っていたので、順次アップします。
当時のままなので、古い情報や間違った情報もあるかもしれませんが、ご容赦下さい。


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2005年4月
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[ いきさつ ]

まず、骨髄ドナーになったきっかけを良く聞かれます。
千羽鶴で有名な原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子さんの小学校の後輩だから・・・。

佐々木禎子さんは原爆の影響で白血病になり、折鶴を1000羽折ったら病気が治るという話を聞き、必死に折り続けたけど、12歳という若さで亡くなりました。

毎年、全校生徒が5~6人くらいのグループを作り、それぞれが原爆・白血病・佐々木禎子などについて調査し、発表会をしてました。
この発表会を通じて、佐々木禎子さんの時代にはなかったが、現代医学では、正常な骨髄を移植してもらえば治る可能性があることを知りました。

しかし、当時の日本には骨髄ドナーの財団がなく、患者さんはアメリカなどで手術を受ける必要がありました。
(当然、せかちゅーみたいに、テレビなどで取り上げられることもありませんでした)

小学生ながらに、日本に存在しないことに憤りを感じていました。
日本にもバンクができたって聞いたときは、すごく嬉しかった。

ちなみに、発表会は今でもやってるみたいです。

続きのストーリーはこちら!

僕が骨髄提供した時の話 〜提供時の制約〜

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