伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】
Appleの創業者スティーブ・ジョブズが19歳だった頃、
そう言って、オフィスに居座った会社があったのをご存知だろうか?
社名は「アタリ」、ビデオゲーム*の開発会社だ。アタリ全盛期の企業成長スピードは、Apple、Google、Facebookをも凌ぎ、アメリカ史上最速だったと言われている。
(*ビデオゲーム: モニター画面に表示される内容に従って進めるタイプのゲーム。ゲームセンターなどのアミューズメント施設でプレイするゲームから、テレビに接続して家庭でプレイするゲームまでを指す。)
1970年代前半、この「アタリ」社のビデオゲームが世界を席巻していた。その頃の日本はかなりのゲーム後進国。今でこそ、プレイステーションやWiiなど、日本は世界一のビデオゲーム立国と言っても過言ではないが、当時はアメリカにずいぶんと劣り、ビデオゲームにおける開発技術力は、ほぼ皆無だった。アメリカが開発したものを輸入し、外観だけを差し替えるというローカライズ販売をしていたくらいだ。
しかし、1978年、そんな状況をうち破り、アメリカを始め世界中にメイドインJAPANの名を轟かせたビデオゲームが誕生した。「SPACE INVADERS」━ 通称、インベーダーゲーム。生みの親は、パシフィック工業株式会社(当時)の開発技術者、西角友宏だ。
彼が約40年前に創り上げたこのゲームは、日本ゲーム業界に技術革新をもたらし、
2016年の今までにおよぶ、ビデオゲーム立国ジャパンの地位を築くきっかけとなった。
さらには、今ではお馴染みとなった、ゲームの設定や方程式も創り上げてきた。
・ゲームスコアを他プレイヤーと競い合う
・敵の攻撃に当たると負けてゲームが終了する
・コンピューターが自分を"狙って"攻撃してくる
スマホゲームでもよく見られるこれらの設定は、実はスペースインベーダーによって根付いたものだ。
名だたる大御所ゲームクリエイターの中には、
スペースインベーダーにハマったことがきっかけで、ゲーム業界に入ったという者も多い。
「ゲームクリエイターの育成」から「技術革新」、さらには「100円玉の消費量爆上げによる、日銀100円玉緊急増産」まで引き起こしたと噂される伝説のゲーム「スペースインベーダー」。
今回は、その生みの親である西角友宏氏にインタビューすることができた。
彼はどのような人生を歩み、このゲームを生み出すことができたのか。
裏には、どんな苦悩があったのか。
当時のブームの様子は?
インベーダーブームが去ってから、彼が辿った道とは。
「コンピューター」「ビデオゲーム」「テクノロジー」
全世界が新しい時代の幕開けに向かう中、
戦後復興中の日本から世界を舞台に一時代を築き、ゲーム開発に人生を捧げたこの男に、尋ねてみたいことはたくさんあった。
ゲームクリエイターへの取材やインタビューをよく行っています。
今回インタビューしたのは、スペースインベーダーの生みの親、西角友宏氏。
これまで語られてこなかった彼の半生をSTORYS.JPに綴ります。
父親の作業場で工作遊びに明け暮れた幼少期
「だんじり祭り」で有名な大阪府は岸和田市、
職人の父と教師だった母の間に、西角友宏は生まれた。
「おい、友宏!どこへ行くんだ。遊びに行く前にちゃんと勉強しろ」
父親は大工道具を修理する職人。作業場は自宅にあったため、いつも自宅にいる。学校から帰ると決まって、
と言葉が飛んできた。
父親の学歴は小学校中退。学歴で苦労したことがあったためか、勉強、勉強と口すっぱく言っていたのは、息子にはちゃんと教育を受けて欲しかったからなのだろうと、西角は語る。
しかし、当時小学生だった西角少年は、大の勉強嫌いであった。
ごまかしながら、よく友達と遊びにでかけた。
そんな彼の遊びアイテムは、父の仕事道具。
西角は、父親の作業場から見つけた廃材や空き地で拾ったものなどを使い、父のトンカチで木に釘をうちつけて木製パチンコを作るなどしていた。
当時は戦後10年たらずで、日本には何にもない時代。
「あるものを使って、ないものを創って遊ぶ。」というのが、当時の日本の子供にとって、当たり前の価値観だった。
一方、西角の家には、当時としては珍しいレコード・プレーヤーなどがあり、高校に上がった西角は音楽にハマっていく。アメリカ音楽の日本語カバー、いわゆる和製ポップスがヒットしていた1960年代の初頭の話だ。
戦後復興の真っ最中、日本を占領していたアメリカ進駐軍が持ちこんだものから、アメリカをはじめとした西洋文化が日本へ浸透した時代。今では、マクドナルドやiPhoneなど、海外発の商品を目にするのは当たり前だが、当時はとても珍しかった。
人々にとって、アメリカを始めとした西洋のものは、
“ハイカラ”であり、すごく新鮮で先端的なものであったのだ。
大阪の田舎町にもアメリカ色に少しずつ染まり始めた時代に、彼は生まれ育った。
さて、時は1962年。西角友宏 高校3年、受験シーズンである。この時は特に、両親からの期待が大きかった。
しかし、小さい頃から工作が好きだった西角は、機械・電気系の大学へ進学を希望。
母親が勧めていた学科は一応受験し合格はしていたものの、両親には「落ちた」と伝え、故郷を離れて上京し、予備校に1年通ったうえで東京電機大学に進学。
両親はとても残念そうにしていたが、自分の意思を貫いたその決断には、まあ満足していた。
ただひとつだけ、
と母に晩年言われたことがあり、それが唯一の心残りだった。
道ばたでの再会がきっかけでゲームクリエイターに
当時は朝鮮戦争の特需によって、日本が好景気に湧いていた頃。遊んでいてもそれほど就職には困らない。そのため、麻雀に明け暮れる学生も多かったが、西角はその群れた雰囲気が好きでなく、麻雀はやらなかった。大学は、退屈な授業はありつつも、自分が望めば世界の知に触れられる価値ある場所。大学生活は、研究、それから高校から好きだった音楽にのめり込む毎日で、ギター演奏で日銭を稼ぐこともあった。
大学の4年間を終えて無事卒業した西角は、オーディオの設計がしたいと想い、オーディオレコード・プレーヤーを製造していた会社で働くことになる。しかし、希望であった設計の部署に行くことはできず、1年足らずで退職。転職活動を始める。
そんなある日、転機が訪れる。
エントリーしていた会社の面接の帰り道に、前職の先輩・荒井に偶然出会った。
何してるんですか?
西角くん、今どんな仕事してるの?
荒井と喫茶店で話をはじめて、2時間くらいたった。
アイスコーヒーの氷が溶けて、コロンと音を立てた。
そうだ、よかったらうちの会社の仕事が面白いから、一緒に働かないか?
ああいうものを作ってるんだよ。
高校生の時に、大阪・高島屋の屋上にあったドライブゲーム(※関西精機製作所 1959年「ミニドライブ」)をやりこんだことがあった。完全クリアできるかどうかという所まで、夢中になってお金をかけて遊んでいたゲームだったので、荒井の会社の仕事に興味が湧いた。
その旨を荒井に伝えると、ほどなくして会社に連れていってくれ、人事部長に会った。
こうして、簡単な会話で面接や入社試験もないまま、タイトーの子会社であるパシフィック工業に入社することになった。
パートさんに混じっての現場仕事が始まり、開発はできず。
面接時に希望部署は伝えていたので、入社すればすぐ技術部に入れるかと思っていたものの、蓋を開けてみれば、パートさんに交じってのメカユニットの組み立てが始まった。
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