伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【後編】

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前話: 伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】
西角
これを使えば、もっと面白いゲームが作れるはずだ

その想いで技術研究に励んでいた矢先に、『スペースインベーダー』の基板在庫を活用したゲームの依頼が営業部からあった。


基板ごと、マシンごと作り変え、新しく進化した面白いゲームを作らせてくれとお願いしたが、

営業の上層部
西角君、なんとか今あるものマシンを活用して新作を頼むよ。


と何回も頼まれた。困っている様子だった。


西角はそれまで好きなようにゲームを作らせてもらったことを考え、


西角
……わかりました。


と言った。


こうして、若手の技術者たちとチームを組み、いくつかの新しいタイトルを作ったが、

やはり一時代前のゲーム基板、開発できるゲームに限界があり、お客さんをアッと言わすようなものはできなかった。新作開発で苦心している最中、他社はどんどん技術研究を行い、クオリティが高く、プレイ評価のいいビデオゲームを発表し始めていた。

そして、あのゲームが現れた。


ある日、いつものようにゲームセンターへ足を運び、アイディアの種を探していると、ひときわ盛り上がっているゲームがあった。プレイ画面を覗いてみると、鮮やかで細かな配色が施されている。




     1979年10月発売「ギャラクシアン」 (C)ナムコ




ゲームの名前は、「ギャラクシアン」



コーガン社長とアメリカのアタリ本社を訪れた頃、アタリと事業提携することになった中村製作所

改め、ナムコが作成したものだった。


彼らは、アタリと事業提携していたことから、アーケード業界に進出、社名をナムコと改め、世に送り出してきたゲームがギャラクシアンだった。


西角
やられた!


驚く先にそう思った。グラフィックの美しさや、キャラクターの動きは西角がやりたかったそのものだった。ギャラクシアンを自社にも取り寄せ、回路を詳しく調べてみると、誰よりも先にずっと構想を図っていたあの方式だった。


あぁ…スプライト動画方式じゃないか…



西角は大きく肩を落とした。

スプライト動画方式を使ったことにより、ドット単位で色が変化でき、目玉は目玉の色があるという風に、よりキャラクターの見た目を多彩に表現できた。

「ギャラクシアン」で勢いに乗ったナムコは、後に「パックマン」を生み出し、パックマンは世界的な大ヒットとなった。



他社からヒット作品が出た時も、自分たちは指をくわえて、成すすべもなくROM改造をしていた。情けなく思ったことも少なくなかった。



開発室に黄昏が迫る中、西角は焦り、そして悩んでいた。

ただ、現状を打破するには時間がかかり過ぎた。






そんな中、工場長に呼ばれた。



アーケードゲーム開発の第一線から身を引いた


工場長
これからのタイトーは、ゲームだけでなく未来に向かって新しい分野の商品開発をしないといけないと思うので西角君にやってもらいたい

要するに、ビデオゲームではないものを作ってくれということだった。



この人は何を言っているのか?いったい何が起こっているのか?



その昔、パシフィックに入社したての頃に「スカイファイター」をヒットさせたにも関わらず、開発技術職から事務職に異動させられたことを思いだした。まだ手がけているビデオゲーム開発には色々とやり残したこともある。


しかし、この頃には、西角が育ててきた若い技術者たちの能力も上がっており、彼らに活躍の機会を与えることも必要だった。


西角は、提案を引き受けることにした。



「スペースインベーダー」のヒットの喧騒が終わり、時代が変わる潮目だったのかもしれない。

こうして、西角はアーケードゲーム開発の第一線から身を引くことになった。




タイトーへの愛着から、ヘッドハンティングのオファーは断っていた


西角をチームリーダーに未来商品開発チームが発足。アーケードゲームに限らないあらゆる商品の開発を行った。任天堂の「ファミリー・コンピュータ(通称:ファミコン)※」がまだ生まれる前、家庭用ゲーム機の原型を作り、そのゲームソフトを電話回線を用いて転送する仕組みを作ったこともある。まだ、1980年代初頭の話だ。

※1983年(昭和58年)7月15日に任天堂より発売された家庭用ゲーム専用機。

 

このチームは、ある意味先見性がありすぎたため、彼らの製品は当時すぐに実用化されることは少なかったが、西角の技術力は業界に知られ、ビデオゲームの開発の仕事をしないかというヘッドハンティングが後を絶たなかった。しかし、タイトーへの愛着があり、西角はそれらを全て断っていた。


しかし、そんな西角にもタイトーを離れる時が来る


年号が平成に変わってから、ファミコン向けのゲームを中心に開発する部署の責任者になったが、ゲームセンターに置かれるアーケードゲームの仕事をずっとしてきた西角にとって、お客さんの顔や反応が見えないビジネスはあまり得意ではなかった。ファミコンのソフトは、開発して売れたとしても、家でプレイするお客さんが本当に楽しんでくれているのかが分からなかった。アーケードゲームなら、表情も見えるし、使用されたコインの枚数でどれだけ楽しんでくれているかが分かる。


お客さんに面白い!と思ってもらえるために、ゲームを創ること。それが西角の全てであり、ファミコン向けゲームではその点をあまり感じられずにいた。




また、人を管理する仕事も好きになれなかった。

開発プログラマーに「この部分をこうしてほしい」という改善点を指摘しても「この部分は技術的に出来ません」などという答えが返ってくることがあった。



それが出来るか出来ないかは、考えてやってみなければわからないし、食い込んで調べないと分からないはず。「出来るんじゃないか?」って思って提案しても「出来ない」と言われたら、それで終わりになってしまうような感じが、肌に合わなかった。


西角
もう、辞め時かも知れない

西角は、あれだけ愛着のあったタイトーに別れを告げることにした。

彼はもう一度、ゲーム開発の現場に立ちたかった。



もう一度、現場にたちたい



タイトーを辞めた年の1996年(平成8年)に、株式会社ドリームスを一人、創業した。


自分でゲームの企画を考えて、外部の会社に提案したり、持ち込んだりして、いくつかの商品化も実現することができた。ゲーム創りは、やはり楽しかった。



しかしながら、会社が成長するにつれて、人を雇い、創業者である西角は必然的に管理する立場に回らざる負えなくなった。

タイトーのときと同じような現実的な問題になり、自分と現場との間に、また距離が出来てしまった。

後ろを振り返れば、後継者もおらず、自分の年齢のことも考え、西角は2008年にドリームスを加賀電子の関連会社に売却した。

34歳でインベーダーで一世を風靡してから30年、西角は64歳になっていた。


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