伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【後編】

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前話: 伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】


再び、古巣タイトーへ


時は経ち、2016年。都内某所でインタビューに答えてくれていた西角はこう言った。


西角
大したことはしていませんが、今はこの名刺の肩書をもらってとてもハッピーな気持ちです。

今はまた個人的には、いろいろな物を考えたり創ったりして楽しんでいます

名刺交換で彼から受け取った名刺には、

株式会社タイトー アドバイザー」とあった。


西角は、再び古巣タイトーでゲーム開発のアドバイザーに就任していた。


現在、72歳。西角の表情はとても明るかった。


最後に、インタビューの締めくくりとして、西角にいろいろな質問を投げかけた。

昨今話題になっているVR技術、これまで創り上げた思い出のゲーム、そして、未来のゲームクリエイターへの一言をもらった。


西角友宏が今思うこと




今年(2016年)は、VR技術が話題になっていますね。西角さんは、どのように見ていますか?


西角
バーチャルリアリティに関して、その展開方法に注目しています。私が考えたのは、やるからにはアーケードとかで、自分の視覚と感覚が合うような、体感的に楽しいものを再現できる仕掛けを作ってみたいです。
西角
例えば、バーチャルリアリティ空間にドアノブがあって、そのドアノブをつかむことができ、順番にドアを開けて行くアトラクションとか、作ってみたいです。

実際には進まないけれど、ドアを開けながら歩いている感覚になるような仕組みですね。あくまでゲームセンターでやれるレベルで、楽しいものをやってみたいです。

でも、バーチャルリアリティも、やり続けると、また、どこかで飽きが来るのかもしれませんね(笑)


社会人になって、一番楽しかった時代はいつでしょう?


西角
社会人になって、一番楽しかった時代は、エレメカゲームの『スカイファイター』を開発していた頃だったかもしれません。

とにかく誰もやっていないことを、自分の感覚や知識を得ていくことで創り上げるという、ゼロをイチにするような仕事が楽しかったことをよく覚えています。
西角
最初に開発したゲームということもあって一番愛着のあるゲームです。


スカイファイター以外の作品で、印象に残っているものはありますか?
西角
ビデオゲームでは『サッカー』が国産初のビデオゲーム作品だったことと、『スペースインベーダー』は、日本で初めてCPUが使われた作品だったということは特に印象に残っています。

『サッカー』以降の7年間で、ビデオゲームを12機種余り開発しました。

それらが全て商品化されたことも、当時だから出来たことだと思っています。
西角
楽しい時代でしたが、その分休みも返上してよく働きました。欲を言えば『スペースインベーダー』の後、もう何年間かゲームの開発がしたかったと思うところです。

また私が開発した作品が商品になったのは、試作の開発だけでなく、生産する部署や販売する部署のお陰で商品になったと思っています。改めて、パシフィック工業やタイトーと、関連した人たちに感謝したいと思っています。


ありがとうございます。最後に、未来のクリエイターにぜひアドバイスをお願いします。
1980年代のゲームクリエイターで友人の、岩谷さん※が作られた『リブルラブル』(1983年 ナムコ)というのがあります。シンプルだけど奥が深いゲームでした。彼曰く、子供の頃に遊んでいた『地面に釘を打って陣地を囲ぶ遊び』を参考にしたんだそうです。

※岩谷 徹 氏。パックマンなどのヒット作品を開発したナムコのクリエイター

子供の遊びというのは、原始的でシンプル。人間にとって根本的な面白さが詰まっていて、ゲーム作りに非常に参考になります。

しかし、時代の移り変わりもあり、今のクリエイターの人たちは、そのような子供遊びの経験をしていないように思うんです。極論すると、ビデオゲームを見て、ビデオゲームを創ってるんじゃないかと思います。

だから、行き詰まる事があると、根本的な面白さが出てこないという気がします。
西角
(最近のゲームをプレイしていると)もちろん映像のクオリティは素晴らしいのですが、面白みのロジックに欠けるなと思う時があるので、昔の日本の遊びなどを研究されると、役立つものもあるんじゃないかと思っています。

例えば、メンコ。メンコ一つにしても、地域によってルールが違うんです。町ごとに独自のルールがありました。子供達が遊ぶ中で、他の町の違うルールに出会う中で、もっとゲームが面白くなるように工夫されていきます。こういう風に、ルールは時に改良され、面白くなって行くことがあります。


そう語る西角は実に楽しそうだった。


戦後モノがない中、父の仕事道具と身の回りにあるものを使って、工作遊びを楽しんでいた少年時代。インタビューでゲームの話を実に楽しそうにしてくれる西角には、今も自分自身で何かを考え、何かを作りたいと思っている岸和田の西角少年の面影があった。



関西の母へ、東京から届けたもの


進学を機に故郷・大阪を離れてから、西角が東京で働きはじめ「スペースインベーダー」などのヒット作を連発していた30代の半ばごろ、職人だった父親は、80歳を過ぎて亡くなった。

残された母親は岸和田市堺町の実家の玄関先で駄菓子屋を開業した。玄関先にあった亡き父親の作業スペースを改築したものだった。


教育者だった母親が晩年、子供たちとの交流の場として選んだのが、駄菓子屋であった。

西角は会社に頼み、安価な業者価格で、母親の駄菓子屋に「スペースインベーダー」を納入してもらうことにした。

西角
タイトー関西営業所の人は、東京にいた私(西角)の事を知らないから、インベーダーブームの最中で「スペースインベーダー」の在庫が無い時に「駄菓子屋に一台入れてくれ」と頼まれたもんだから、「なんで駄菓子屋なんかに入れなきゃいけないんだ?」って言っていたらしいです。

さらに設置の手数料も多少安くしてもらったら、関西営業所の所長が「なんでオペレーターと同じ値段で売らなきゃいけないんだ!」と後でブツブツ文句を言ってたと聞きました。


そうして、西角自身が支払いを済ませ、何とかスペースインベーダーのマシンを母の駄菓子屋に導入することができた。西角にしてみれば親孝行をしたはずだったが、


母親からは

あんた、タダでくれるような力は無かったのか?


と言われた。



西角
まあ、関西人ですからね






西角は嬉しそうに笑った。









 







ご精読ありがとうございました。

以下、西角さんの半生を投稿するに当たって、今回参考にした資料と、協力してくださった皆さんのお名前を記します。


参考資料・文献 )  

それは「ポン」から始まった  /  赤木真澄   アミューズメント通信社

20世紀 雑誌アーケードTVゲームリスト/ アミューズメント通信社

セガ  ゲームの王国 / 大下英治 新潮社



協力 ) *敬称略  

タイトー  石原正巳 / 熊島真理 /  佐藤直哉

株式会社イード 土本学

株式会社ムーンライト 三田秀雄

インタビュアー 黒川文雄

協力 宮本博一

文・編集構成 清瀬 史



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タイトー(パシフィック工業)は戦後日本の復興とともに誕生し、日本の産業、工業の成長とともに発展を求められた企業だ。おそらくそれは他のゲーム関連企業も同じだろう。何もなかった焦土の日本にゲームという娯楽を提供し、人々に余暇の楽しい過ごし方と笑顔を届けたことは大きなライフスタイルの変化に貢献したと言ってもいい。

高度成長、日本列島改造論、などの時代背景を経て、それらを求められた企業のひとつであり、モーレツを社是としたような企業人の在るべき姿が、西角のような「無いものは創る、切り開く」という姿勢だったのかもしれない。


今から20年ほど前の(確認)西角の出演したテレビ番組を観たことがある。自分の創って来た作品、機器への自信を強く感じさせる。


成長を求められた時代とそれを託された人の人生の、重なりがあった。



取材者・黒川文雄 西角友宏 近影




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