24歳ニートの僕が、謎にインドネシアに行って社長になるまでの話。前編
お客さんが来なかったことにショックを受けていた僕は、清水さんに弱音を吐いた。
すると水野さんは
と言って、
カメラマンとして来ていた女性に「試してみないと良い記事は書けないだろ?」と、5000円を渡し、脱毛の体験をさせてくれて、売り上げを立ててくれたのだ。
初日、来店人数1名、売り上げ5,000円。
この5,000円が嬉しくてひたすら頑張った結果、初月は49万円の売り上げをあげることができた。
これが売り上げとして良いのか悪いのかすら分からなかったけど、
毎日必死になって、来ていただいたお客様に満足して帰ってもらえるよう努力した。
努力の甲斐あって、3ヶ月後には2店舗目を出店することができた。
2店舗目の初月の売り上げは98万円で、初月から黒字達成。
3店舗目の出店場所もすぐ決まり、順調そのものだった。
■RE:スタート!メンターとの決別、そして日本へ帰国
軌道に乗るにつれて、メンターのTさんと意見の食い違いが目立つようになってきた。
どんどん出資者を集めてくるから配当を出して出店していけ、と主張するTさんと、もっと顧客満足度を上げ、新人教育を徹底し、現場を大事にしたい僕。
Tさんが知人に怪しい話を持ち掛けて開業資金を集めていたことが発覚したり、
2年しか物件契約をしていないのに10年契約をしていると言ったり、
投資家への配当支払いを免れるために売上げ報告をごまかしたり、
一緒にいる時間が長くなれば長くなる程、Tさんへの疑問と不信感は強くなっていった。
Tさんがジャカルタに滞在している間は、ベットメイキングから服の洗濯、食器洗い、掃除などは全部僕がしていた。深夜にかかってくる電話に出ないと怒鳴られ、お酒を飲むと嫌味を言われ、遊びに行くと
と怒られた。
自分の航空券やバリ島で雇っているメイドの給料もサロンの売り上げから出していたし、私物化した会社は、もはや利益をあげる気も、僕に渡す気もないように感じられた。
僕の給料は月給制ではなく歩合で、貰えるのは毎月の利益の配当約4万円。
朝方まで仕事を課せられており、時給に換算すると100円/1時間にも満たない生活だった。
Tさんに言われた言葉に忘れられないものがある。
僕はもう限界だった。もともと細身だった身体はさらに痩せこけていった。
税金を払わないといけないからビザは取得するな、と言われ「就労ビザがないと保険に入れない」と言うと「病院代は俺が出すから保険は入らなくて大丈夫。」と言っていたのに、いざ病院に行くとそんなこと忘れている。
信じていた人だったのに、何かあればすぐ
と怒鳴られた。
それでも、その厳しさはTさんなりの愛情なのかもしれないと思っていた。
ある日、5年以上給料も貰わず、インドネシアについて来てくれていた人が日本に帰ってしまった。ずっと一緒に仕事をしてきた人なのに、
2秒だけ落ち込んだわ
と笑っているTさんを見て、この人とはもう一緒に働かない、そう決めた。
今までお世話になった人や投資をしてくれた人に現状を報告し、僕はTさんの元から去った。
今でこそ、最後はしっかり終わらないといけない、申し訳ないことをしたと思えるけど、当時はそんなことを考える余裕もなく、ただただ逃げ出したかったんだ。
ちょっとの成功と、やっとここまで築き上げたものもあったけど、
何もかも置いて僕はその場からいなくなった。
2013年、26歳と1カ月だった。
サロンのパートナーであったアントンくんに、初めて会ったカフェで震えるような声で聞いてみた。Tさんに「アントンに相手にされていない」と言われたことがずっと気になっていたのだ。
アントンの頭に?が浮かんでいるのがわかった。
という返事をくれた。
僕はサロンから離れるという話をすると、アントンくんも一緒に辞めるという。
順調に売り上げも上がりそうだし、アントンくんには毎月それなりの不労収入が見込める。
それなのに、辞めるというのだ。
そんなことを言ってくれた。
僕の財産は10万円を切り、家もなくなってしまった。
という僕に、アントンは
とまで言ってくれた。
周りにたくさん人がいるにもかかわらず大粒の涙を流したのは、この時が生まれて初めてだった。
この人に必ず恩返しをする、そう誓って僕は一旦、日本へ帰国した。
少しでも僕の経験がためになればということで、
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