第3章 軌跡~600gの我が子×2と歩んだ道 1

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~鉄砲玉放浪記続編

人生にこんな大きな挫折や苦難があるんなんて思ってもみなかった。憎しみという感情をこんなにまで受けたことも。心が凍りそうで折れそうで壊れそうで、いつも薄い氷の上を恐怖を感じながら歩いているかのようで、明日私は生きているだろうかと何度も思った。私にも弟と同じ血が流れている。弟が越えられなかったように私もいつか...だからここに私が生きた証としてこれまでのことを遺書にしようと思った。人間なんていつどうなるか分からない。私がここまで転びながら何度も立ち上がった思いをせめて子ども達に残したい。「死ね。キモイ。」心無い言葉は全身を鋭いナイフで刺されたような気持ちになる。私が産んだの。この苦しい人生の選択ばかり強いられる人生を背負った子ども達を。どんなに自分を責めても全てのことは何も変わらないし、時も戻らない。私はいつも死を求めながら、死を選択できずにここまできたのだと思う。二人へ。ここへ私達がどれほど大切に思って育ててきたのかを書き残します。

いつか私の想いが届きますようにと祈りを込めて。



結婚してからの数年は思えばこんな幸せな日々もあったのかと思うほど幸せな日々だった。ここから暫らくは二人が生まれる前のお父さんとお母さんとぴょん吉とジャンボのお話だよ。犬を飼えない君たちは、ジャンボの話を教えて教えてとよくねだったね。短い間だけど、一緒に暮らしたんだよ。ジャンボに会ってみたいなと言う君達。でも天国にいったらもう二度と会えないんだ。


1999年

私とTは結婚した。おんぼろアパートでの新婚生活も「家を建てる」という二人の夢があれば気にならなかった。おんぼろの部屋で、新しい家の空想に浸り私達の生活は夢でいっぱいだった。

結婚してすぐ土地探しを始めた。部屋の中は不動産の土地情報で溢れ、毎週候補地を見付けては見に行くのが楽しみだった。


私の実家は結婚ラッシュだった。私の結婚の時季とさほど変わらず弟が結婚した。弟は唯一兄弟の中で地元に残った一人だ。自宅から通勤し、消防士をしていた。結婚相手は高校からずっと付き合っている人。生まれた時から母一人子一人で育ったお嫁さんだった。弟は社交的で大勢の仲間と遊ぶのが好き。しかし反対にお嫁さんは人と関わるのはあまり積極的ではなく、大勢と遊ぶよりは弟とだけ一緒に居たいというようなタイプ。でこぼこだからうまくいくのかな?と私は思っていた。こんな弟のことを好きだと言ってくれる人がいるなんてありがたいと両親は喜んだ。弟夫婦も結婚式は挙げないからと、結婚の報告だけをもらった。しかし、結婚を決めるにいたっては弟が結婚してくれないなら私は死にますとお嫁さんに言われての結婚の決意と聞き、人はそれぞれあるけれどこんなぞっとするような結婚もあるのかと私は正直驚いた。しかし、人生を選択するのは自分自身。きっと弟夫婦は束縛しあう関係でいいのかもしれない。そう思った。


更には一番下の妹も結婚をすることになった。妹は昔から動物、植物が大好きだった。高校からその先の進路で酪農の勉強をして、牧場で働きたいというのが夢だった。しかし、酪農を営み経営出来なくなって仕事の転向を余儀なくされた父は、酪農での苦労を嫌と言うほど味わっている。自分が苦労した道を、苦労するであろうとわかり切っている道を妹に歩ませるわけにはいかないと猛反対した。そこで妹は考え直し植木職人を目指し、植木屋さんへ職人見習いとして就職した。そこで出会った同じ植木職人を目指す男性と結婚することになったのだ。アプローチは全て男性から。妹の事をとても好きになってくれ、口説いて口説いて口説き落とした結婚だった。妹は本当に純真な人で恋愛経験もゼロ。彼は初めて出会った人。強引にぐいぐい心に入ってくる彼に恋に落ちないほうがおかしい状況だった。彼は一人っ子。とても大切に育てられた人で、食事の偏食はひどく、殆ど野菜は口にしない人だった。それでも妹はその彼に合わせて食事を作り尽くしていた。そんな妹達もまた、盛大な結婚式ではなく、ドレスの写真を撮った位の簡単な結婚だった。

私は高校でぐれたため殆ど家にいなかったし社会人になるとすぐ家を出て行ったから、弟、一番下の妹とは過ごす時間が短かったけど、やっぱり兄弟は兄弟。皆幸せになっていくことは嬉しいことだった。


探す事半年。やっと自分達が気に入った土地を見付けた。ログハウスに憧れていた私達だったが、ログハウスの事を知れば知る程、広大な土地が必要だったり、中は以外に狭く実用性に欠けていたり、クリアできそうにない問題が山積みで、私達はログハウスをあきらめ、な~んちゃってログハウスに見えるような木のぬくもり溢れる家を作ろうと意見がまとまった。見学会に行くことも趣味のようになり、その頃の私達に空いている土日が無いほど夢中だった。

そしてある日、運命の家に出会った。モデルハウスで建っていた家を二人ともひどく気に入り、「この家にしよう!」と即決。土地も建てたい家も必要な要素はすべて揃い、私達は迷いなく家を建てることを決めた。


2000年

少しずつ工事が進み、形作られる家を見に行くのが私達の週末の恒例行事になった。そんな時、職場の後輩から「姉の家で犬の赤ちゃんが生まれたんです。見に行きません?昨日生まれたてなんですよ。可愛いですよ~。」と誘いを受けた。

動物は好きだけど、飼う予定などは全くない。でも生まれたての赤ちゃん犬なんか見たことがないし、見に行くのも悪くないか...という軽い気持ちで仕事帰り、後輩のお姉さんの家に一緒にお邪魔した。

家の中にいたのは、ゴールデンレトリバーと5匹の赤ちゃん。ころころとまん丸で、まだ目も開いていない。何て可愛いの!!!一目ぼれだった。小さい頃雑種を飼っていたが、その犬が死んでしまってからは犬は飼ったことがなかった。ゴールデンレトリバーを傍で見たのも初めて。優しい顔立ち。大きいのに全く吠えず、人懐こい。美しい毛色。

「家で1匹飼う予定なんだけどね、5匹も生まれたから後は可愛がってくれる人に引き取ってもらうと思っているの。家は娘がまだ1歳にもならないから、飼うのは親犬ともう一匹位が限度かな。もし飼う予定があるんだったら1匹どう?」

「飼います!今日どの犬を引き取るのか決めてもいいんですか?」

「勿論!いいよ。第一号だよ。好きな子を選んで!ありがとうね。」

Tへの相談などしている暇はなかった。だってこれは運命の出会いだから。

「え!?こんな即決で先輩大丈夫ですか?」と一番驚いたのは、連れて来た後輩だった。

「大丈夫!あと2ケ月で家が完成だから、そしたら引き取ることにする。それまではここでお母さんと兄弟と一緒に暮らしてていいですか?今は借家だから連れて帰れないし。それで、この毛色が一番白いこの子がいいです。」

一番毛色の白い犬は、ちょっぴり要領が良くいつでもおかあさんのおっぱいに一番乗り。そして一番最後まで飲んでいる食いしん坊。私はすっかりこの白い毛色の犬が気に入ってしまった。

「わかった。いいよ。暫らくは犬が社会性を勉強するためにお母さん犬と兄弟と一緒に暮らすのがいいので、そこまで預かるよ。時々、様子を見においでよ。」

「はい。わかりました!ありがとうございます。」

私は浮足立って家に帰った。仕事から帰ってきたTに、様子を伺いながらさらりとごく自然に

「今日、犬を飼うことに決めてきたから。」

「あ、そう。ええぇ???犬を飼うの?どこで?決めたってどういうこと?」

「そういうこと。今日生まれたての犬を見に行ってその場で決めて来た。運命の出会いだったから。」

「そんな話聞いてないよ。どこで飼うの?外で?室内で?まだ家も建ってないし、まさか新築最初から犬が家にいるの?まじかよ。それに俺犬飼ったことなし。嫌だな。」

「じゃあ、一緒に見に行こうよ。そうすれば考えが変わるから。」

するとTはしぶしぶ了解した。Tなら喜ぶかと思ったのに意外な反応だった。


私は早速Tを連れて犬を見にいった。Tが飼うのを反対しても、私は気持ちを一切変える気はないので、何とかTに気持ちを決めてもらうしかない。

Tは部屋にいるゴールデンレトリバーのお母さんを見てその大きさにびっくり。

「ええ!こんなに大きい犬なの?これを室内で.....」すっかりびびってしまったT。

ところが、赤ちゃん犬を見てTも運命を感じた。

「か、可愛い。」

そっと触れてみる。柔らかくて、小さくて、ミルクの匂い。

「これが、家の犬だよ。一番毛の色が白くて、一番食いしん坊。」

「飼おう。」やっぱり!そう言ってくれると思った!

「名前はジャンボに決めた。」

「え?ジャンボ?何で?」

「だって、お母さん犬のように大きく立派に成長して欲しいじゃん。大きくなぁれの願いを込めてジャンボ。」

「それいいね!ジャンボに決定。」

こうして私達は運命的な出会いのジャンボを新築前に飼うことに決めた。


家が完成すると職場の皆が休日にも関わらず引越しを手伝いに来てくれた。私達は、この新しい家に職場でお世話になった人を招きながら、結婚パーティーの恩返しをしていきたいという夢が新たに出来た。飲んで、食べて泊まっていってもらおうと、布団だけは大量購入した。

引越しが終わって間もなく、ジャンボを引き取る日がやってきた。ジャンボは車に一度しか乗ったことがない。「もしかしたら車酔いをして吐くかもしれない。」という言葉に、助手席でジャンボを抱っこして、吐いたらどうしようと口元ばかりを気にしてみていた。

「何かさ、さっきから匂わない?」言われてみれば、車の中に異臭が.....

吐くと言われそればかりを気にしていたのに、気づくとサイドブレーキのところに、こんもり、う○こが!!!それが、私達とジャンボの最初の出来事。何とも神経の強いやつ。きっとこれからジャンボとの生活は面白くなるぞ。車の中で私達は大笑いだった。


それからは犬の育児書を読みながら、ジャンボの犬育て奮闘記だった。まだまだ一日3回に分けての食事が必要と育児書に書いてあれば、毎日会社の昼休み1時間の間に会社から自宅に戻りジャンボに餌を与え、また会社に戻る生活。耳掃除に爪切り。慣れないことばかり。

先輩のぴょん吉は、突然現れたジャンボに容赦ない。怖いものだから近くにくるとパンチをくらわそうとする。ところが好奇心旺盛な子犬はめげない。しつこくぴょん吉のゲージの中に入ろうとする。なんだかんだいいながら、二匹は近くで眠るような関係になっていった。

新築の家は、毎日家の中をぐるぐると走り回るジャンボのお蔭でコーナーの床が削れて彫れている。朝起きてみると、ダンイングテーブルが不自然に傾いている。下に目線を降ろすと、ジャンボがかみかみして、足が中ほどから折れていた。日中は一人で、庭に出しておくと植木屋の妹から新築祝いにともらった3本の植えたばかりの白樺の木が、根こそぎなくなっている。よく見ると見るも無残な姿にかじり切られていたり、そこら中が穴ぼこだらけになっている。静かだと思えば、玄関の小上がりをかじりまくっていたり。とにかく毎日がハプニングの連続。ところが帰ってくると狂ったかのように喜び、片時も傍を離れない。お風呂に入るとストーカーのようにすりガラスから中の様子をじっと見てクンクンと寂しそうな声を出す。この憎めないジャンボは次第に我が家の中心的存在になっていった。


ある時、ジャンボの実家のKさんから「一緒に警察犬学校に入学させない?」と誘いがあった。

ジャンボのお母さんは驚くほどお利口で、私達はそのイメージで物事を考え進んでいたのだが、ジャンボと暮らしてみるととんでもないことばかり起こる。犬のしつけなどしたことのない私達はすぐさま行くことを決めた。これからもっともっと体が大きくなる犬。制御できなければ大変だと思った。

ジャンボのお母さんと同じ埼玉の警察犬学校に3ケ月入学させることに決めた。ジャンボの兄弟3匹で同時入学。3軒で同じ日に行き、入学式をしようと企画した。

犬舎には沢山の犬が入っていて、ワンワンと吠えまくっている。明日からここでの生活。果たしてジャンボは馴染めるだろうかと不安になり、置いて帰る時には涙が出た。

私達は1ケ月に一度ずつジャンボに会いに行った。会いに行くと物影に隠れてまずは授業参観。成果の確認をする。それからジャンボに会って触れあう。行く度見違えるように変わっていて、それだけで頑張っているジャンボに涙が出てくる。私達は全くの親ばかならぬ犬馬鹿になっていた。


夜、家はしんと静まり返っていた。いつもあんなに大変だと思っていたジャンボがいないと火が消えたかのように静まり返る。寂しくて、ジャンボの事ばかり心配で考えてしまう。

ジャンボが頑張っているのに私達が寂しがってばかりはいられない。共働きも私達。日中家の中にジャンボを置いていくのも心配。そこで私達はジャンボが居ない間に庭作りを開始することを決めた。庭にフェンスをぐるりと建て、その中をノーリードでジャンボが自由に過ごせるようにしようと考えた。一面のヨモギ畑と化してしまった私達の庭。家は建てたけれどそれ以上のお金はもうない。庭は全て二人でデザインし、二人で材料を調達し、二人で作り上げようと決めた。

「家庭という字は家と庭で家庭になるんだよ。だから俺たちも少しずつ家に庭を作り上げていくように一歩一歩コツコツと良い家庭を作っていこうな。」Tがおんぼろアパートで言ったあの言葉通り。

それからの私達は、毎週つるはしとスコップを持ち、ヨモギの根を一つ一つ取り除き、一から庭作りが始まった。何でも夢中になって楽しめるのが私達の良い所。安い材料を方々に探していると、灯台元くらし。車で2~3分のところに木材屋を発見した。陽気で気前の良い社長が経営しており、家の近くな

上に軽トラックも貸してくれる。至れり尽くせり。木材は全て社長に相談し、その都度手配してもらいながら必要な時に必要な材料のみを調達できる最高の条件が整った。社長は気前の良さで時々私達に寿司などを御馳走してくれた。そのお礼にと社長の娘さんが、材木店の二階にパン屋さんをオープンするというので、入り口に花を植えパン屋さんのアプローチ作りを手伝った。その上、ジャンボを見て犬の可愛さに気づいた社長は黒いパグを突然飼い出し、犬馬鹿仲間になった。こうして私達は強固な関係になっていった。

ジャンボは大型犬。手作りとはいえ崩壊しない丈夫な強度を確保しなければならない。枕木を柱にフェンスを作る事に決めた。しかし穴を掘る、何本も枕木を立てて入れるという作業は、思っていたより重労働。私達二人の力では到底終わりそうもない。そこで私達は考えた。美味しい夕飯を飲み放題ビールを用意して、釣りクラブ、スキークラブの若い独身の男の子達に手伝いに来てもらおう大作成!食べ物でつると喜んで大勢手伝いに来てくれる。昼は一生懸命汗を流して働き、夜は皆で大宴会。帰れなければ泊まる。こうしてコンクリート作業やミニログ作りなども会社の若い力を借りながら作り続け、庭はみるみるうちに姿を変えて行った。

そして、ジャンボは3ケ月後待てもお座りもトイレも出来るようになり、お利口さんに大変身で帰ってきた。


突然犬を飼うことにして全ては順調だったが、たった一つ問題が。それはTの実家の両親が動物を飼うのが嫌いなこと。それなのにこの図体。帰省だけが気を使いまくり大変だった。Tの両親は呆れ果て、見えないところでご近所へは愚痴っていたのだろうけど、私が望んだ通り同居はしていないので、そんなことも殆ど気にならずに済んだ。

2001年


私達の生活はジャンボ一色になった。全てがジャンボ中心。

私達は、ジャンボに色んなことを教えた。海で泳ぐこと。川で泳ぐこと。雪の中で遊ぶこと。キャンプに行くこと。Tの実家には海ありスキー場あり。遊ぶのには最高の条件が揃っている。ジャンボがいると実家に帰っても気を使って居にくかったけれど、それからは実家を拠点に海に通い、雪山に通い私達は遊び呆けた。初めての海を見たジャンボ。怖がって近寄っては一目散に逃げていた。一緒に抱っこして海に入り、泳ぎをサポートしてやるとあっと言う間に泳ぎをマスターした。ライフジャケットを買い与えると、ますます海遊びに夢中になるジャンボ。流木を拾ってきては投げて欲しいとおねだりを延々と繰り返す。もう帰ろうと思うのに、おねだりは延々と終わらない。ところが、車に乗った途端、どんなに揺り起こしても起きない位爆睡する。海に行った日は帰ってからが大変なのだ。全く車から降りなくなる。車イコール楽しい場所に連れて行ってもらえるの図がジャンボの中に出来上がり、車に乗っている限り良いことが起こると信じている。押しても引っ張っても餌でつっても降りてこない。片づけも沢山あるというのに。私達は長い時間格闘を続けなければならなかった。

さすがに長野からは海が遠く、毎日というわけにはいかず川での遊びも楽しんだ。雪が降ると雪やこんこの歌のごとく、ジャンボは喜び庭駆け回る。スキー場へも一緒に連れて行き、お昼はいつも車に戻って外でお湯を沸かしカップラーメンを食べながらジャンボと過ごす。スキー場脇の雪で遊ぶ。特に新雪の中にダイビングするのがジャンボは大好きだった。そこら中を大喜びで走り回る。スキー仲間とのスキーにも一緒についてくる。家を建ててからはここが仲間の拠点。スキーシーズンが始まると、合宿所と化す。宴会もスキーも仲間と一緒に楽しむジャンボ。

私の故郷への帰省もジャンボがいるとそれだけで楽しい旅になる。テントを持って、所々でキャンプをしながら気ままに帰省する。海に寄り泳ぎ、川に寄り泳ぎ、高原があれば走り回り。台風の夜、河川敷に張ったテントで二人+ジャンボとぴょん吉で恐怖で怯えながら眠った夜の事は今では笑える思い出だ。

兄弟全員結婚してしまった今では、唯一お盆だけが兄弟が揃える日。私達は、集まれば海に出掛け釣りや海水浴を楽しんだ。しかし、その場所に弟のお嫁さんがくることは一度もなかった。弟のお嫁さんにとっては、私達が居ればそうとう遠慮なのだろうとあえてそこには触れなかった。弟はそんな時でもいつも顔を出してくれた。

犬のくせに臆病で、夜散歩をしているとき風でビニール袋が舞ったのを見ると、飼い主を置いて一目散に逃げようとする。私の実家では沢山猫を飼っていたのだが、猫を見て怖がり前を見ずに全速力で走り、サッシの窓をぶち破り壊してしまったり。近所の子供達が花火をしていると、それだけで怖くて家に近づけず、私達は花火が終わるまで家には入れなかった。空に打ち上げる花火大会がある日は地獄の一日だ。しっぽを丸めテーブルの下にもぐり震えている。なんとも間抜けでストーカーのようにしつこいけど、あの巨体で座っている私達の膝に入ってきたり、つぶらな瞳で顔を覗かれると全てを許してしまう。犬との生活にもすっかり慣れ、犬との生活を心から楽しめるようになっていた。全てのことで一緒に遊べる、私達の生活スタイルにピッタリの犬だった。

ジャンボの実家のKさんが、一年に数回「兄弟会」をやろうと提案した。全員賛成だった。ジャンボの兄弟はKさんの知り合いや市内の人にもらわれていき、皆近くで暮らしていた。お母さん犬と五匹の子供達は年に数回公園で全員で会う様になった。一匹は老夫婦にもらわれ、なかなか会に参加できなかったが、こうして兄弟が揃えるなんて、本当に幸せなことだ。犬達は大喜びでじゃれ合って遊ぶ。その様子を見ていると、私達も楽しい気持ちになってくる。お互いの近況や面白エピソードを聞くのもまた楽しかった。全く知らない人同士だったのに、こうしてジャンボは大勢の出会いを私達にもたらしてくれた。

ここは私達にとって地元ではない。もともと知り合いも一人もいない。家を建てたのは、市内でも田舎の方。近所との付き合いは当然多い。私達は共働きだし、なかなか地域の行事にも顔を出さなければ近所さえ余り知らない。ところが、ジャンボを飼い始めてから犬繋がりでの知り合いが増え、声をかけてもらえるようになり、行事も参加しやすくなった。


悲しい出来事が起こった。朝起きるとぴょん吉が寝たきり動かない。こんなことなど一度もなかった。変に思い触ってみると体が固くて冷たかった。何の前触れもなくぴょん吉は突然逝ってしまった。2~3年前から黒い毛の中に白髪のように何本も白い毛が目立つようになってきていた。でも後は老化を感じることもなく元気に暮らしていたのに。Tにとっては初めて体験する動物の死。二人で泣いた。海にもキャンプにもスキー場にも一緒に出掛けたウサギなどめったにいないかも。私達は火葬をして、ぴょん吉の死を弔った。動物はいつか先に死ぬ。ジャンボにもそんな時がいつか来るのかなんて考えたくもなかった。


こうして、ジャンボで始まりジャンボで終わる一日の中で幸せを感じながら一年は過ぎていった。


2002年

私の両親は、夫婦二人で旅行をしたことがない。酪農にシイタケ農家と生き物を扱う仕事に一年中休みはない。記憶の中にも長い間家を空けることなど全くなかったし、一年中365日働いているという記憶しかない。ずっと反抗して随分親に苦労をかけてしまった。結婚して家を建て借金生活をしてみると、家計を守るということの意味も分かってきた。自営は稼いで何ぼ。休めばそれだけ収入も減る。私達4人を育てるため、父と母は働き続けてきたのだ。当たり前のように感じて来たけど、今更ながら両親に感謝を感じずにはいられなかった。そんな両親に旅行をプレゼントしようとTと私達兄弟での大作戦話が持ち上がった。行先は長野。宿泊に我が家を使えば交通費だけで良い。私達も多分一生ここには来れないと思っていた両親が来てくれるとあれば本当に嬉しい。冬の農家は仕事が無いように見えるが、シイタケ農家は冬でも温度管理をしながら収穫、出荷をする。それを休むわけにはいかないと両親は最初申し出を断った。そこを兄弟たちがフォローしてくれた。交代で実家に泊まり込みシイタケの温度管理をすると言ってくれ、両親もそれならと長野行を決心した。

出発の日、両親は妹達にいざという時連絡しなさいと携帯電話を持たされたが、使い方が分からない。初めての二人の旅行はわくわくどきどき。私達も両親の初めてのおつかい状態でわくわくどきどき。新幹線の乗り換えも心配だったが、二人は無事長野に到着した。父と母に自分達の家を見てもらえて本当に嬉しかった。ずっと働きづくめの両親のために、ここにいる間は家事も全て休んでもらって、くつろいでもらおうとTと二人で計画していた。Tは普段からよく家事を手伝ってくれる。料理も掃除も洗濯も出来る。洗濯は団子状態に固まったまま干しているときもあるけど、ずっと長くやってもらうためにはあまり文句を言わない。料理は作るのは好きだけど、作りながら流しの中は山盛りになって崩れそうにボールや鍋が積みあがる。でも感謝の言葉のみを口にしていれば、家事をすると私が喜ぶのイコールが出来、またやりたくなる。プラスの連鎖だ。今からは共稼ぎの時代。男だろうと家事をしてもらわなければ困る。もしも私が先に死んだとき、一人で生きていけないようでは困る。どちらが先に死ぬかなんてわからないのだから。ご飯が盛られ、箸をおかれるまで待つ田舎産まれで昔の何より大切にされた長男の父とは違う。そんな私とTの様子を見て父と母は驚いていた。「二人で家事を協力するのはいい考えだ。」と言って、帰ったら父が実践するようになったと母から聞いた。


夕食の後は全員で明日からの旅行のスケジュールを考えた。せっかくこっちに来たんだからTの実家に寄らない手はない。オリンピック道路が出来てから随分道が良くなり、Tの実家までは昔のような苦労をせずに行けるようになった。行きは大町周りで実家を目指し、大王わさび農場を見に行った。真冬だったがこれはこれでなかなか風情がある。新潟の両親は大喜びで迎えてくれ、一緒に夕飯を食べ、東北に行った時の思い出話などで盛り上がった。

次の日、起きてみると1メートルもの積雪。ここは豪雪地帯。そんなことは日常茶飯事で驚かない。しかし、北国でも雪は多くない私の故郷の感覚からすると、一晩に1メートルなんてありえない。朝から全員で雪かきだ。ジャンボは大喜びでそこら中駆け回った。せっかくだからと帰りは白馬周りで帰り、オリンピックのジャンプ台を見に行った。上までリフトにのり、ジャンプ台の上まで登ってみようということになったのだが、両親はリフトに乗ったことがない。ド緊張の母の様子を見て笑いをこらえるのに必死だった。白馬からは長野周りで帰り、せっかくここまで来たら善光寺を参拝しなくちゃと立ち寄った。

残り二日。一体強烈に心に残る思い出を作るとしたら何がいいんだろう....Tと私は考えた挙句、早朝出発し東京ディズニーシーに連れて行くことを決めた。父と母は田舎産まれ、田舎育ち。母は東京にさえ行ったことがない。長野からなら車で行っても驚くほど遠くはない。両親には行先を言わず秘密で出発した。母は足が痛い痛いとよく言っていたので、車いすを借りて移動をすることにした。車いすの母がいたので、待ち時間を記入してもらい待たずに乗れるゲストアシストカードを使って待ち時間も散策や買い物をして短い時間だけど思う存分楽しんだ。思いのほか大喜びの両親だった。こうして両親の4泊5日の旅は終わった。両親の喜んだ顔を見て、ほんの少し親孝行が出来たような気持ちになり、Tと兄弟の協力のお蔭でこのミッションは大成功を収めた。


Tは余り旅行はしない人だったが、旅好きの私につられいつしか旅を自ら楽しむようになった。私は、今まで一か所にとどまって仕事をしたことが無かったし、今までの全てがずっと旅を続けているような状態だった。それは毎日が刺激的で未知に溢れ好奇心を掻き立てられる。私は、長野での暮らしには十分満足していたのだが、どこか心の中では刺激を求めているようなところもあり、私にとって長野を拠点に旅を続けることで、それを少し満足させてくれるものだった。

私は、Tが出張で中国に行くと、夜一人でいてもつまらないし、思い切って休みを取って、一人+一匹旅に出掛けた。車の後ろがベッドになるランクルアクティブバケーション。私は体が小さいから、ベッドを作りつけて行っても十分に運転席に座って運転することが出来る。最初からベッドを作っていつでも休める体制を作ると、簡単な荷物とジャンボを乗せ出発だ。目指すは東北の実家。高速を使わずに新潟周りで海沿いを気ままに走り、疲れたら寝ながら、寄りたい場所を散策しながらのぶらり旅だ。Tと一緒の旅は最高に楽しいし楽だけど、こういう冒険はたまらなくわくわくする。夜、走りに走って着いた道の駅。今日の宿はここにしようと決め、途中で温泉に寄った私はコンビニで弁当を買い、ジャンボと夕食を食べ散歩をする。疲れたしやることもないし、早く寝ようと車のベッドで眠りに落ちた。どの位寝たのだろう。車の外が賑やかで、その声に目が覚めてしまった。最初は状況の把握が出来なかったが、どうやら私の車の周りで若者の喧嘩が始まってしまっていた。どなりあい、どつきあい、だんだんエスカレートしてくる。布団の中で寝たふりをしながら、ジャンボにしがみついた。喧嘩はなかなか終わらない。私はすっかり怖くなってしまい、外に出ることも出来ないし遂に警察に電話してしまった。しかし、あまり警察からは本気に取り扱ってもらえなかった。警察に電話したことがばれるんじゃないかってびびりながら、小声で必死に電話したのに!終わるのをじっと待つしかなかった。こんな時、ジャンボが居てくれるのは心強かった。暫らくすると若者はどこかに消えるようにいなくなり、私は胸をなでおろした。

両親は、私の予測の出来ない行動にはもう慣れっこだ。「帰ってきたの?」といたって普通な対応だ。

旅の帰り道はもっと最悪だった。天気予報など気にしない私は、台風が近づいていることさえ知らなかった。帰り道も一日中の運転は辛く寄り道をしたせいで、家にたどり着けなかった。適当に道の脇にあるトラック休憩所のような場所で眠ることにした。周りは大型トラックだらけ。ここなら人もいるし、寂しくもない。私は日中の運転ですっかり疲れてしまい、次の日まで爆睡してしまった。目が覚めた時にはもう周りに1台もトラックは泊まっておらず、その上滝のような雨と暴風雨で運転などできないような状況だった。しかたなく、車の中にいるしかない。何ともハプニングの連続。でも旅はそれがいいのだ。予測できない出来事が起こるから楽しいのだ。こんな旅をしてしまうと昔の生活を思い出す。また、どこか知らないところで働いてみたいという思いが頭の中に浮かんできたりする。北海道や新潟に出会った仲間は、まだ方々で放浪の旅を続けてりる人もいて、旅先からハガキや手紙が届いた。


私とTはジャンボと一緒に全泊キャンプの九州一周旅行を計画した。九州にはまだ一度も行ったことがなかった。大阪南港まで高速で行き、そこからフェリーで北九州まで行く。福岡の町や海沿いを走り佐賀県で唐津焼の町をジャンボと一緒に歩いた。犬と一緒にこんなに遠くて何泊もするような旅をしたことはなかった。私達は来たことのない町にわくわくした。

佐賀をを寄り道しながら走り抜け長崎へ。(後で編集)


ジャンボのための庭作りをきっかけに、私達の庭作りは本格化し、ハーブに夢中だった私は庭をハーブガーデンにするべく毎日庭のデザインと花図鑑を眺めるのが日常になり、Tと二人で週末は庭作りに励んだ。そんな時もジャンボは片時も傍を離れず、庭仕事が終わるまで、庭の草取りが終わるまで傍で寝ていたり、木っ端をかじりまくっていたりして傍にいるのだった。ずっとこんな幸せで平和な毎日が続く思っていた。


結婚してからというもの、二人+一匹の生活を楽しんできたが、ふと気が付くと私の周りはいつのまにか妊婦さんだらけになっていた。ジャンボがまるで子供のような存在だったから、私達は全くと言っていいほど子供についてを考えてはいなかった。会社で一緒に休憩をとっても、話題は赤ちゃんのことばかり。私は顔で笑っても、話を合わせるのは結構苦痛だと感じていた。私の両親は私の事に関して今や殆ど色々言わず好きにさせてくれる。子供は?なんて聞かれたこともなかった。Tの両親も、お母さんの兄弟の中に子供が出来ずずっと二人で暮らしている妹夫婦がいて、だから私達にも早く早くとも、まだなの?とも一度も行ったことが無い。はっと気が付いて、周りをよく見まわしてみると、結婚すると皆こぞって子供を産み、すぐに子育てに入っている。焦りなどは全くなかった。結婚すれば自然に子どもは出来るものだと思っていたから、さほど困りもしなかった。何故みんなすぐに子どもが欲しいなんて思うんだろう。もっともっと生活を楽しみたいと思わないのかな。そんな風にも思っていた。でもTはひそかに、子どもが欲しいと思っていることを知った。Tの両親も口にこそ出さないがそう感じているのだと思った。少し真剣に考えてみようと思い始めた。

ところが、この私の甘い考えはすぐに打ち砕かれた。私達が結婚してもう既に4年。私はとうに30歳を超えているし、本を読んで調べれば調べるほど不妊治療が必要なのではと思えてならない。初めて産婦人科を受診した。そんな私にとっては突然の流れのような状態で不妊治療に突入していった。不妊治療とは終わりの見えない真暗なトンネルに入ってしまうようなことだ。確実なものなど何もない。それなのにお金はかかる。体への負担も多々ある。何より続けているうち一番心が折れていく。まだ気持ちはしっかり子どもに向かっているわけではなかったが、不妊治療を続けていくことにした。薬を飲みながらのタイミング療法。しかし何か月たっても一向に効果などない。周りの皆は出産ラッシュ、産休ラッシュを迎えようとしていた。

地域の行事に参加した時の事。近所の人から言われたことが胸に刺さった。「Tさん夫婦は、二人でお金を稼いで好きに暮らしてて子どももいないし自由気ままでいいね~。お金なんか余ってしょうがないでしょう?子どもがいないんならもっと地域の仕事でもしてくれればいいのに。」完全なる嫌味。子供がいないということは世間から普通に付き合ってもらえないことなのか...と思った。

余り効果の出ない治療に本当にこの病院で大丈夫かと少々不信感も持っていた。地元ではこぞって妊婦さんが通い出産する人気の病院だったのだが、不妊治療という点では、(私の気持ちがふさぎだからそう感じるのか)

診察はいつも機械的で余り良い印象を受けなかった。ある日先生に薬の事を詳しく知りたいと説明を求めると、「あなたは言われたことをきちんとやって言われた薬きちんと飲んでいればそれでいいの。」と厳しい口調で回答をされた。薬を入れるのは私の身体なのに、どんな薬なのかと聞くことも許されないことなのか。この病院でこれ以上不妊治療を続けたくない。不妊治療をするようになってから、初めて心が砕けた。「もうあの病院には行きたくない。」家に帰って号泣した。暫らく不妊治療は辞めようと思った。楽しいことだけを考えて生きよう。ところが一旦足を踏み入れた不妊治療に抜け道はない。子供が出来ないことを申し訳なく思い始めた。

不妊治療が始まってから、通院のために仕事時間もやりくりしなければならないし、何だか気ぜわしくてTの実家にも暫らく帰っていなかったため、久しぶりに帰ることにした。私はTの両親に聞いてみたいことがあった。

「お母さんは何で孫孫って色々言わないの?」

「そうは言ってもこればっかりは授かりものだからねぇ。色々言ったところでどうなることでもないしね。正直言えばそりゃぁまだかと言いたい気持ちもあるよ。近所の人にも色々聞かれたりするしね。」

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