【スマホ人間】無くしてはじめて知る依存

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大阪の中企業の広報室で正社員として銀行員のような制服で働いたり、

行きつけのBarのオーナーと付き合ったり、

でも父が末期の肝臓がんだと分かって、別れたり、

父の本格的な介護をしたり、

喪主をしたり、

遺品整理や実家の引き払い、

仕上げに手伝ってくれたたくさんの方々にお礼をしたりした。


その間、私はずっとスマホと一緒だった。


ただ、具体的なiPhoneとの思い出をいますぐに浮かべることができない。


スマホなしではほとんど乗り越えることができないことばかりだったような…気がする。


スマホとの別れ(2016-2017)





そして2016年の11月。

この頃になると私は生活の多くの面において、スマホを最大限活用できるようになっていた。


広告代理店に新卒で入社したときにはまだ知らなかった、「インターネット検索」という機能を最大限に活かし、わからないことや面白そうなことを発見すればすぐに調べた。

地図の読めない女で苦労していたが、初めていく場所でもGoogleマップの位置情報アプリを使って、約束の時間内に簡単に目的地にアクセスできるようになった。

たまにではあるが、手に入りにくい商品があればネットで調べ、スマホ注文もした。

日記はメモ機能を用いたり、気軽かつ頻繁にSNSにアップした。

特に私のTwitterのフォロワー数は1000人を超えている。

実際に会ったことのある人のみ友達にしているFacebookでも200人以上の友達がいる。


おそらく同じアナログ生まれな人間の中でも、うまく使いこなせている部類だと自負するまでになっていた。

影響されやすい人は適応も早いのかもしれない。

私の周りでは上記のことすらままならない人も多く、その代わりに私がその場で調べたりしてフォローする場面もあった。


なにより最も、使いやすいと感じていたのはLINEである。

それまでのメールよりも格段にコミュニケーションをとりやすく、心理的な壁がない。

グループで通話することも可能で仕事上の会議をすることもできる。

人との通信手段として最大限に利用していた。


しかしあるとき、私はあるLINEグループ、それもとても近しい関係性のグループから抜けたい、

と思いはじめた。

それは抜けたい、というようなやわなものではなく、

「縁を切りたい」というような強い嫌悪の感情だった。

ダンスチームにも所属していたし、グループ活動は苦手ではない私が、である。

しかも父の看取り介護をしていた直近の2年間、心理的に多大なるお世話になった、

中学からの友人Aとその彼氏を中心にした会だった。


父が亡くなってからも仲良くしていたが、そのカップルの破局をきっかけとして、

私はなぜだかものすごくうんざりしてしまっていた。

とにかく、わずらわしかった。

無視をすれば良いのだが、なかなか毎日、スマホは鳴り止まない。

濃すぎた関係性と、仕事や恋愛がからまっていた。

父の他界、という人生の大きな節目でお世話されたために、自分の中で日々生まれる黒い感情を

我慢し、無視していた。

結局、適当に理由をつけて脱退した。

が、とくに1人ひとりに著しく問題があるわけではなかったので、グループを抜けたあとも、一人ひとりと連絡を交わしたりしていた。


そんな折、私はまた突然、壊れてしまった。

こんどは入院。

その際にどこかにスマホを捨ててきてしまった。


私はまたしてもすぐに正気をとりもどした。

入院するということで通信会社に緊急停止してもらい、1ヵ月、考える時間ができた。


なにもかもを無くしてしまった。


気分はそれほど悪くなかった。


この状態から、何を手にいれよう。

これから手に入れるものは、自分が「ほんとうに必要としているもの」のはすだから。



スマホ断ち後、すぐ欲しいもの





入院中、久しぶりに公衆電話を使った。


会社の事務の女性に必要なものを持ってきてもらうためである。


紙とペンと読むもの。


寝食と日用品が保証されていれば、入院中はこれだけで十分だった。


同じ病棟の人たちもすこし変わっていたが、いい人ばかりで、癒された。


外出の許可が下りると辺りを散策し、家にも帰った。


誰もいなかったが、両親の遺骨とノートパソコンが待っていた。


会社にはMACのデスクトップパソコンがあった。


スマホを捨てたとはいえ、スマホの痕跡はほぼすべてデスクトップパソコンに残されていた。


LINE、Facebook、TwitterなどのSNSが変わらず使用できるため、私がアクセスしたい人と、連絡することができるのだった。


あの世の両親とはもちろん連絡はとれず、

直近で入れ込んでいた友人には連絡する気も起こらない状態だった私だが、

連絡を取りたい人が1人だけ、いた。


それがQだった。



Qと初めて出会ったのは2014年の年末。


環状線の駅からすぐのバルで、彼はピアノを弾いていた。


父の病気が発覚した年の年末だった。


彼は4歳年下で同じ業界で働いていたこともあり、話が合った。


もっと話がしたかったが、父のこともあり、早々に私は帰った。


LINE交換はしていたが、その後、ほぼ2年間、連絡しないままだった。


私が入院する前の月に、私から再度、連絡するまでは。


入院する前の月、私はそのバルのイベントに参加する準備をしていた。

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