毒親両親に育成された私の本当の志命 1

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同級生は推薦状欲しさに、ある時期になると一斉に聖書と讃美歌を持参して、

まるで聖人のように毎週教会に集うようになった。

推薦状の為に、洗礼を受ける者までいた。

私はそういう腹黒い生き方がどうしても好きになれず、相容れなかった。

この考えが私を教会から遠ざけ、信仰の道からも遠ざけた。

姉とは別居生活となり、母と二人の母娘生活は更なる苦痛でしかなかった。

母は私を常に操縦しようとした。それだけでなく、母は自分は自分という女性の性を

追い求める生き方も決して失い忘れはしなかった。

母には毎年夏休みには長年付き合う、私が一度も会ったことがない、なんとなく親戚から

風の便りで得た情報で知る限りの男がいた。

宝石商の交際相手との1か月に及ぶ海外旅行も、祖父母も公認するようになっていった。

厳格な祖父母がなぜ、母の自由勝手をここまで許していたのかは、未だに定かではない。

私はふしだらな母という概念を拭うっことは出来なかった。

それは自分に異性との交際がないだけでなく、きちんと交際を宣言しない、コソコソとした付き合いが

不純で不潔でどうしても私には理解ができなかったのだ。

そんなこともあり、私は何が何でも家から出て、県外遠くに進学する夢を叶えた。

母は時に女で、時に母親でいたい、そういう我儘な女性なのだ。

今の時代なら、そんな生き方は当たり前かもしれないが、当時は断固として私は母を許せなかった。

母は、自分が相手と再婚して相手親の面倒を看るのが嫌だと思えば、私達娘を利用し、私はあの子たちの母親だから再婚はできない!!と幾つもの言い訳を常に用意していた。

母は美味しいところだけを、いつも味わっていたかったに違いない。

私は晴れて県外の短大に進学し、遠隔地の姉の監視のもと、寮生活を送ることになった。


これまで家族としか暮らしたことのない、人間関係人付き合いが苦手な私が、

寮生活を送るのは正直キツかった。

皆が当たり前に楽しんできた遊びを私は一切してこなかったのもある。

家族や姉妹、家庭環境を聞かれることも、嫌で溜まらなかった。

いろいろ心配はしていたが、中部出身の私は関西の人から見ると、比較的標準語で

都会人に聞こえたらしい。

キャラクターの濃い人が多い関西でも、幸いにも東京人扱いをされ、

敬意的に扱われた。これが唯一の不幸中の幸いであった。

寮生活は、共同冷蔵庫に、共同風呂で、食べ物でも洋服でもなんでもすべてに名前を書くという

一種独特な規則の厳しい生活だった。門限は夜9時だが、破るとすぐに夜7時になってしまう。

私は2年間という短い期間で、単位を取るのも忙しく、就活もあり、遊んでいる暇はなかった。

1年目に狭い部屋で共有二階建てベッドでの二人共同生活、二年目に晴れて一人部屋を与えられた。

実家にもなかった初の一人部屋、母からも姉からも離れ、一人部屋でお茶を飲むときに、小さな自由を得た事に、心底幸せを実感したことを今でも忘れない。

ここで憧れの一人生活、一人空間というちょっぴり窮屈ながらに、安全地帯にいることが実感できた。

二人部屋の時は、相方が早く寝ると言えば、電気を消して勉強も出来ず、明日提出のレポートも

電源落とされ、保存し損ねてすべてやり直すという失態も経験したが、一人部屋なら安心して

好きなように時間割もでき集中できるから、本当に解放感を実感した。

大学の先輩は皆優しく、勉強もメンタルもサポートし支えてくれた。

会えなくなった今でも、心から感謝の念を忘れたくはない。


大学生だもの。周りはサークルに合コンにデートにと学生生活をエンジョイしていた。

私は奨学金返済もあるから、慣れない土地でバイトにも精を出した。

酒屋のバイト先のお兄さん先輩が、寮のモデル並みに美人な先輩を紹介してくれたら、

大阪一番美味しいたこ焼きをご馳走してくれると言われ、私は本気で寮に戻り電子鳩の

大役を果たし、本場大阪でたこやきを頬張ったのが本当に自分にご褒美だと感じたのだった。

私は昔から、自分よりも、他人の幸せを見るのが大好きなのだ。

その為に自分ができることは、できる限りしようという思いが自然と湧いてくるのだ。

これが後の自己犠牲に繋がるとは、当時の私は露知らずのほほんと生きていたのだ。

二年目には喫茶店でのアルバイトもした。

ここでも私は遊んでいない初心な19歳女子大生という風にからかわれ、

異性に興味を全く抱かない私は好奇な目にさらされた。

天然キャラということで、いい加減に扱われ、私は同い年の女性を先輩と慕った。

売れ残ったケーキは寮に持ち帰りたいぐらい美味しそうなのに、衛生管理の為

割引販売しないというオーナー主義で足で踏み潰すのは心痛かった。

この時期は学業にバイトに就活とフルに動き回った。


就職はかねてから憧れの証券会社を第一志望に掲げていた。

理由はただ一つ・・・稼げるからだ。

経済に関心があることも動機の一つではあったが、必ずしもそれが一番ではなかった。


バブル絶頂期の先輩の言葉は、『父親よりも給料が良くて申し訳なくて言えない』だった。

一日も早く奨学金借金を返済し、自立し祖父母・建前親孝行するのが私の夢だった。

当時、縁故コネなし採用は、金融機関ではあり得なかった。

私は当然縁故コネなし、人脈なしだったが、あらゆる金融機関を受け、中でも第一志望の

証券会社は絶対に入ると決めていた。

二歳違いの姉とも就職時期が同時だった為、私はこれまでにない本気モードで必死に

来る日も来る日もエントリー応募をし、絶対に私は受かると心に誓ったのだ。

ただ男女雇用均等法はあれど、女性は自宅通勤が必須条件ではあった。

私は大嫌いな実家で母と暮らすのは苦痛ほかならなかったが、就職の為に我慢をしようと決めた。

結果、念願叶って第一志望の証券会社に入社することができた。

これまで馬鹿にしてきた親戚一同、私を褒めたたえてくれた。

母子家庭でコネなし入社など、前例がなかったからだ。

姉は姉で、先に就職先を決めた私に闘志を燃やし、総合職としてメーカー就職を決めたのだった。

一番喜んだのは、母だったにちがいない。

母子家庭でお金を掛け、私学一貫校に通わせ、一流企業に娘二人を就職させることができたのだから。

親孝行の自慢の娘だと言いたかったに違いない。

世間体は良かったかもしれない。でもそこには本来の幸せの欠片は一つも落ちてはいなかった。

就職は夢叶える人生の目標だったから、次の目標を掲げ奮闘するのは至難の業だった。

・・・2へ続く


















































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