(6):ついに高校を中退する事に(;_;).../パニック障害の音楽家

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 私の通っていたサレジオ高校は、現在では非常に偏差値の高い有名校になっているそうですが、当時はそれほどのレベルの学校でもありませんでした。なので、ろくに授業にも出ていないのに、試験の時には教科書を読んで行きさえすれば学年10位程度の成績を取れてしまっていたのです。おかげで先生たちには「おまえは家で勉強ばっかりしてるんじゃないか?」と、心配されるのですが、これが不安症の私には「余計なおせっかい」と思えてしまい、逆に心の重にとなっていきました。

そんなわけで、高校1年の後半には数えるほどしか学校に行かなかったにも関わらず、成績が上位にいた私は1〜2個の追加レポートを書くだけで2年に進級できてしまいました。しかし無事2年に進級できたにも関わらず、私は相変わらず学校に行かない、今で言う所の”引きこもり症候群”となってしまったのです。この頃から何となく発作的な不安感に襲われるようになりはじめていたような気がします。例えば電車に乗って行くのが苦手となり毎朝学校までの道程を父親に車で送ってもらうようになっていました。しかしこれも「それってただの怠け者じゃん!」と指摘されたら「そうではない」と言い切れるほど自信はありません。

いずれにしても私は不安な心を抱えながらろくに学校にも行かない自分が嫌になり始めていました。精神科でもらった薬は明らかに方向性の違った物のようで、朝、目が覚めているのに体が起きられず、夕方まで布団の中で過ごしたり、起きてはみたものの足元がフラつき、階段から転げ落ちた事もありました。また、訳もなく悲しくなりいきなり母親の前で泣きだしたりという情緒不安定の状態が次第に強くなっていきました。潔癖症であった私には行きもしない学校が進級などのための配慮をしてくれる事にも苦痛を感じるという、完全にノイローゼ状態となっていきました。

それでもバンドをやっていると定期的にバンド練習をしようという話になり、元町にある友人の楽器店に集まってはリハーサルをやっていました。今ではこの楽器店はなくなってしまいましたが、当時は地下1階にはピアノ個人練習室と売り場、1階、中2階、2階に売り場、お店の奥にはピアノ工場、その上が20畳近くある練習室があり、休日にはこの練習室に行き、時には下の店鋪から展示品の楽器を持ち出しては練習に使っていました。これらの楽器は当時としては高級なイタリア製の楽器や日本でもプロしか使えないような上位機種が中心で、一介のアマチュア高校生が使うにはあまりにも勿体ないセットでした。結局このお店最終的には潰れてしまったのですが、これってもしかしたら私達が勝手に楽器を使って練習してたのも原因の一つなのでは?と思いちょっと申し訳なく思っている次第です。

バンドの練習というと元町まで通っていたわけですが、不安症状を抱える私も「横浜市内ならなんとか...」という事で不安な心を抑えつつも現地まで行っていたました。また行き先が友人の家、という事もあり「もし何か起こっても友人の家なら大丈夫だろう」という安心感があったのだと思います。

そんな状態が数カ月続き、高校2年の夏休みに大きなコンサートに参加する事になってしまいました。当時やっていたバンドはキーボードである私が中心になった曲を演奏する形態だったため、私が抜けてしまったが最後バンドは成立しなくなってしまいます。これは私にとっては大きなプレッシャーだったのですが、コンサート会場が目黒区民センターという昔通っていたサレジオ中学のそばという事もあり、なんとか緊張の連続を切り抜ける事ができました。

しかし不安感は増すばかりで、同じ夏休みの終わり頃に参加予定だったコンサートでは、会場がお茶の水の日仏会館という行った事の無い場所だった事もあり、ついに恐くて会場まで行く事ができず、当日になってコンサートのすっぽかしをやってしまいました。これも不思議な事にコンサートに出なければならない、と思っていると実際に微熱が出て具合が悪くなるのです。しかし、会場に行かず、物理的に見て絶対にコンサート参加は不可能という時間になると体温は平熱に戻ってしまい具合は良くなって来るのです。

こんな事が起こり、かつ学校に通う事ができない、という状態が続き出すと増々「自分はどこかオカシイのではないか?」という考えに取りつかれるようになり始め不安な心がドンドンと増大して行きました。

こうした情況が数カ月間続き、不安症状は更に昂進し、学校に行くのもどんどん苦痛になり始めていき、ついに耐えられなくなって、高校2年の学園祭をもって学校中退を決意しました。これは半分は苦痛からの解放と感じられましたが、それまで比較的順調に人生をこなしていた私にとっては大きな屈辱でした。しかし、情況はこの屈辱に屈しなければならない程に切迫していたのです。

だから高校の学園祭が終わり、車で自宅に帰る途中、私は心の中で「これは人生における第1章が終わったに過ぎない。これからは第2章をスタートするんだ」と強く思うようにしました。そうしなければ自分は負けた、という気持ちに支配されそうだったからです。今でも学園祭帰りに車で出店用に使った機材を返しに行きながら自宅に向かった記憶は鮮明に残っています。次第に暗くなりはじめる車外を見つめながら「これは自分の第1章の日暮れで、夜が明ければ第2章を始める事ができるんだ」と、辛さであまり焦点の合わない眼で流れる風景を眺めていました。

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