(9):救いの道はシンセサイザー?/パニック障害の音楽家

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著者: 安西 史孝

ただ、そういった生活の中で唯一救いの方向が見えていました。それは音楽、特にシンセサイザーによる音楽でした。1976年頃シンセサイザーは未来の楽器として大きく注目を集め、特に国産の大型シンセサイザーが開発され色々な雑誌やTVで取り上げられて話題になっていました。とはいえこれらは当時の価格で200万円以上するものであり、とても一介の高校中退者の自由になるようなものではありませんでした。



日本が誇るローランドの大型シンセサイザー System-700:



さらにそういった音楽や楽器に引かれつつも「こんなに複雑な楽器で音楽を作っていたら神経をすり減らし、ノイローゼ症状がますます亢進して行くのではなかろうか?」という逆の不安も持っていました(当時はパニック障害だの広場恐怖だのという言葉は知らなかったのでノイローゼという言葉で自分をみていた)。つまり私の心の中ではシンセサイザーに対する興味と、それを利用したらノイローゼが進むのではないか?という2つの心がせめぎあっていたのです。


1〜2ヵ月の間、そういった心の葛藤がありました。あいかわらず外出に対する恐怖は続き、部屋に閉じこもる生活が続いていました。とはいえ「閉じこもったままでは駄目だ!」という感じも漠然とあったのは事実で、その間、なんとか少しでも普通の人に近付こうと音楽の勉強だけはするようにしていました。わからないながらも音楽理論書を読んで勉強するようにしていたのです(もちろん恐怖心がない時間に...)。


そうこうするうちに、最新のシンセサイザーで最先端の音楽を作ってみたい!という欲求は日増しに強くなっていきました。今ではそんな事をやりたいと言うと「オタク」という言葉でくくられてしまうでしょうが、当時はそれらが最先端で、テレビや雑誌のコマーシャルでも大型のシンセサイザーを背景にした音楽家が商品と共に科学者のごとくこちらを見ている、なんていう写真が若い世代の憧れの的だったのです。


そういうわけで、4月中旬ついに意を決して大型シンセサイザーを開発していたメーカーのローランドに行ってみる事にしました。当時ローランドでは「ワウワウ」という名前の季刊誌を発行しており、それによると京王線の下高井戸という所にショールームがあると書かれていました。また、まだこういった症状が出る前の中学生の頃、横浜/元町の友人の楽器屋で、偶然ローランドの開発部長に紹介された事があり、そのツテも使ってショールームで色々と見せてもらおうと、思ったのです。実はその時、部長が「うちのショールームには楽器と録音機材もあるから、それも一緒にいじりにいらっしゃい」と口をすべらせたのです。私はその言葉をずっと覚えていました。



ローランドの機関紙「ワウワウ」:




ところで当時はパニック障害などという病名は世の中には全くなく、私の症状は不安神経症・ノイローゼという事になっていました。また時々襲って来るいわれのない恐怖心は低血糖症による不安症状だと信じ込んでいたのです。実際、不安になった時、何か食べると症状が緩和していました。しかし今になって考えてみれば、これは単にパニック発作が起こり、それを低血糖症だと思い、あわてて何か食べに行っている間に発作が治まっていた、というのが真相のようです。事実、それまでにも、またその後にも血液検査や精密検査を受けたが低血糖症等の診断が出た事はありません。検査の結果は常に良好で問題無しでした。また、パニック障害の治療を始める以前に起こった発作(1999年の1月)では、昼食直後に発作が起こっているので、やはり低血糖症というのは考えられないのではないかと思います。


とまあそんなわけで、最初にローランドに行った時には低血糖症になった時用にカバンにはチョコレートを入れ、できるだけラフなスタイルで体を締め付けるような服を着ないようにして電車に乗りました。少しでも体が締め付けられるような状態だと血行が悪くなり、おかしな症状になるような気がしていたからです。おかげで腕時計はしない、靴下ははかない、靴ははかずにサンダルをつっかけて出かける、ズボンのベルトはしない(なので、しょっちゅうズボンが下がる)、という中々情けないスタイルが当時の私の格好でした。それでも込み上げてくる不安症状(広場恐怖)を必死で抑えながら電車を乗り継いで行きました。電車を待つ間にも「自分が突然我を失って線路に飛び込んでしまうのではないか?」という恐怖心と戦いながら...



☆小さな挑戦・私にとっては大きな挑戦:

ローランドに行くまでには渋谷で東横線から井の頭線に乗り換え、さらに明大前で京王線に乗り換える必要があり、当時の私にとっては世紀の大冒険でした。しかし「どうしてもシンセサイザーを見てみたい!!!」という欲求はそれを乗り切るくらい強かったのです。とは言え、心の中では「具合が悪くなったらすぐに家に引き返そう」という選択肢を持っていたのは事実です。


そんな状態でとにかく下高井戸にあったローランドまでたどりついたのですが、なんと!ローランドではすでにショールームを廃止しており、楽器は展示されていませんでした。しかし、それではわざわざ横浜から来たのに可哀想だ、という事で営業所のすぐそばにあった同社の開発室に連れて行ってもらい、そこで開発テスト用に置かれていた電子ピアノやストリングスアンサンブル(弦楽器のアンサンブルをシミュレートする鍵盤楽器)をいじらせてもらいました。この時、わざわざ高校中退の私を開発室まで連れて行ってくれたのが誰あろう後にローランド社長となった人でした。当時はまだ彼の肩書きは係長だったと思います。


 その係長に連れられて行った所ですが、開発室とは名ばかりのただの倉庫! ローランドと言えば今でこそ世界的企業ですが、当時はまだ設立2年ほどの弱小会社。開発室は大阪、浜松、東京の3カ所にありましたが、東京の開発室は「荏原ポンプ」と古びた看板のかかった甲州街道沿いの謎の倉庫... “ここがシンセサイザーを開発してる場所?” と大混乱です。


 建物に入ると1階はただの土間で、そこに新発売になった電子ピアノとストリングスアンサンブルが置いてありました。「これ、音出していいの?」と思ったんですが、係長さんが「じゃあ、ここで色々いじっていていいですよ」と言ってくれたので、しばし色々と演奏していました。


しばらくすると、上の階から開発部長が降りて来ました。その階段ですが、物凄く狭くて段差の大きいボロ階段で “足踏み外したら死ぬな...っていうか、これ階段ごと崩れ落ちない? 大丈夫なの?” というようなシロモノ。


その部長こそ前記の元町の友人のお店であった人物だったのです。そしてその場で、ほんの数分間でしたが部長と話をし、自分が学校をやめた事、機械いじりが得意なので回路図を見ながらステレオ等を作っている事、専門はピアノで色々と曲を弾けること(実際にその場で電子ピアノを弾いたりした)を話すと「うちの開発室でアルバイトをしてみないか?」という話になったのです。これは私には願ってもないチャンスでした。元来機械いじりは得意な上に、もしかしたらローランドの開発した大型シンセサイザーに触れるチャンスもあるかもしれないからです。


開発部長は東京芸大出身の人で、音楽にも造詣が深い人でした。ちなみに銀座のソニービルの地下に音の鳴るドレミファ階段ってのがありましたが(多分もうない?)、これは部長が設計したものだそうです。そこで「元町でお話した時に録音機材も使わせてもらえる、とおっしゃいましたよね?」とずうずうしくも聞いてみました。今にして思えば大した度胸だったと思います。すると部長は「アルバイトの間に時間があったら開発室に置いてある録音機材で何か作品作りをしてもいいよ」と言ってくれたのです。聞いてみるもんです!


当時のシンセサイザーは現在と違ってコンピューターなど搭載されておらず、1度に演奏できる音の数に制限があったため、録音機材は必須でした。録音機材も今のように安くはなく、またチャンネル数の少かったため(4チャンネル=4つの音をバラバラに録音できるものが主流だった)、作れる音楽にも限界がありました。それでも、自分でそれだけの機材を揃えると1976年頃の値段で300万円以上かかってしまうわけで、とても個人が買えるようなものではなかったのです。


というようなわけで2つ返事でアルバイトを了承し、早速ローランドに通う体勢を整えました。ローランドでも私は重宝な人間だったようでした。なぜなら私には開発者の書いた手書きの実験回路の図面を見ながら部品を集めて来て基盤を作る事ができ、テスト用に完成した楽器を使って演奏し、ある程度の楽器評価を下す事もでき、そもそも高校をやめて何もする事がなかったので、「やれる事なら何でもやります!」という事でコーヒー入れからトイレ掃除まで何でも自主的にやったからです。


当時の私は本当に世間知らずで、コーヒーに入れる粉の量とお湯の量の比率もわからず(私は ”コーヒーを適量入れ” とか書いてあると「適量って何グラム?お湯の量は、温度は?」と確認したくなるタイプなのです)、そんな事までローランドの人達に教えてもらいました。開発者という人たちはノンキな人たちが多く、高校を中退したといったような事はまったく気にもせず私と対等に接してくれる事は、とても嬉しい事でした。


世間で言う所の下座の仕事までこなした私でしたが、ローランドの開発室にいるという高揚感からそういった事も全く苦にはなりませんでした。おまけに朝8時から、といったような時間の制約もなくフレックスにアルバイトに行くことが可能だったので、不安神経症状態の私には絶好の場所であったわけです。この後にも話は出て来ますが、不思議な事に私の場合「もう駄目だ!」と思ったどん底の続きに思いもよらない運命の発展が待ち受けている事が多々あるのです。


こうして私にとっての人生の第2章がスタートしたのでした。



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(10):高校中退でローランドに重役出勤するワタシ/パニック障害の音楽家