ミュージシャンのボクしか出来ない世界で1つの「親孝行」
それでも、うちの家は大変な暮らしだったと思う。
なにより、母が暴力を振るわれてきたのをたくさん覚えている。
今みたいにDVという言葉もまだ出来ていなかったはず。
思い出したくない光景が、いつでも浮かんでくる。
ボクの思春期は、そんな景色が「当たり前」だった。
だが、そんな日々は、父と母の離婚で幕を閉じた。
離婚を機に、母の実家に戻ることになった我が家。
ちょうどその頃、祖母は「うつ」になっていた。
祖母が長年、介護してきた祖祖母が亡くなり、その翌年、連れ添った祖父との別れ。
娘の帰ってくる理由が離婚。
だから「うつ」になっていたんだと思う。
・・・それでも、祖母は喜んでいた。
娘が大切で仕方なかったから。
母親は、実家に帰ってきただけで、親孝行だったと思う。
だが、そんな日々もすぐに終わった。
母は長年の度重なる暴力と叱責と、仕事と育児の両立によって、精神に異常をきたしていた。
いわゆる「ヒステリー」というものになっていた。
頭をかきむしり、叫んでいる姿をよく見ていた。
そんな母が
やっと落ち着いてきた・・・これから「幸せになっていけるなぁ」と
感じる間もなく
母が「がん」だとわかった。
その頃のボクは、東京で勤労学生として、勉強しながら働いていた。
突然の母からの電話。
泣くような弱った声だった。
手術しないと助からないらしい。
40代だった母のがんは、すごいスピードで大きくなっていった。
奇しくも
その手術の日は、
ぼくの教員採用試験の
翌日だった。
心臓がはやく動きすぎて、
ずっと苦しかったのを覚えている。
使命感にかられていた。
母を助けたい!
その頃のボクにとって、出来ることは「先生になること」だけだった。
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