装備品は木の棒とぬののふくのままですが、人生という冒険にチャレンジしています。

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最低限の装備品しか与えられないまま、社会に冒険に行かなければいけないのだ。

心の防御力は低いまま、批判やストレスにも弱くなる。そこを自分の努力で補っていかなければならない。生きることそのものがハードな難易度だ。

 

 

母の話に戻ると、祖母は決して夫の悪口を言わなかった。

 

自分を苦しめる父親がいる。だがその父親に母親は従っている。

彼女は母をまぬけだ愚図だと罵倒しながら育てた。

 

母の整った顔立ちや、本が好きなところを「お父さんにそっくり」と言った。察していただけると思うが、これは決して好意的な意味ではない。祖母の嫌味だ。

 

自分が一番憎んでいる人間が、自分の父親だという事実だけでも十分つらいのに、顔まで似ているとなると自分の顔が嫌いになる。そこを人に褒められても何もうれしくない。だけど、異性はそこで自分を好きになるし、同性は嫉妬で自分を嫌う。

 

心がどんどん歪んでいく。

 

私もそうなのだ。散々母と祖母に父の愚痴を聞かされた後で、「あなたはそっくり」だと、「あなたのからだにはその血が流れている」と言われる。血が入っているから、他人に冷たい、将来はボケる、とか。まるで呪いのように。

 

私は鏡を見るのがつらい。化粧するのがつらい。顔立ちに父や母方の祖母に似た雰囲気を見つけてぞっとする。自分を愛せない。

 

 

 

 

 

表に浮き上がる印象深い話の後ろに無数のぼんやりとした話が存在するのなら、母が自分の両親に対して語ったことは一部でしかない。だが、その無数の話だって心にダメージとして蓄積していくことに変わりはない。

 

 

 

父の家も家族構成がよくわからない。幼くして亡くなった兄弟が二人いたらしい。養子のような存在もいるし、私が父に対して知っていることなんて、母から伝え聞いた不確かな情報だけだ。

 

近所の公園で、お父さんと子供、あるいはおじいちゃんと小さい孫が遊んでいるのを目にすると不思議に思う。

 

あれはなんだ?

 

あの光景こそ、私にとっての幻想だ。目の前の現実でありながら、それはまるで映画のよう。

私はああいったふれ合いを知らない。

父と公園で遊んだことも、祖父と手をつないで歩いたこともない。

 

知っているのは、白衣を権威のようになびかせて歩く父と、勉強しているかとしか聞かない祖父と、父と祖父母に馬鹿にされて委縮する母と、そのうっぷんを実家でいつまでも愚痴っている母と祖母。

 

 

運動会、ピアノの発表会、当たり前のように父の姿はない。

父は個人医院を開業しているから、日曜を休みにしようと思えばできたはずだが、その必要はないのでそうしなかったのだと思う。

 

父は私が何年ピアノを習っていたかも知らない。何が好きなのかも知らない。どんな友達がいるのかも知らない。今日学校で何があったのかも知らない。そんなことは、父の世界には何一つ必要のない無駄な情報だから。父が私に興味を示すのは、私のテストの点数と、クラスの順位と、成績表の5の数だった。

 

テストでいい点をとっても、それは当たり前。

医者の子供なんだから、もともとの頭の出来が違うと思われる。努力しても。

いい結果を残さなければ、医者の子供なのにどうしてかしら、と思われる。

 

 

 

私は私である前に、「医者の娘」だった。

 

田舎の公立の小中で、私は友達の輪に入るために、あえて変な言動をとるようになった。

 

「あの子って恵まれたうちの子だけど、でもちょっと変わってるよね。デブだし」

 

相手の子を安心させるような私でいることが、友達とうまくやることだと感じていた。

 

自分をネタにすることで笑いを取り、変な子だからかわいそうという同情を抱かせて敵意をやわらげた。私は肥満児だったから、女の子たちは自分が家柄や頭ではかなわなくとも、見た目で自分が優れていると思えた。当時は友達が多かった。こういう努力のたまものだ。

 

振り返ると私は、ピエロだった。

 

 

 

●母の教育

 

 

動物愛護に熱心だった母は、心の空洞を埋めるようにたくさんの動物を飼っていた。血統症付きは嫌いで、皮膚病で衰弱していたり、おなかに虫がいたり、エイズにかかっている猫をよく拾っては病院に連れていき、かいがいしく世話を焼いていた。

道路で引かれている猫を、回収しては埋めて弔った。

 

猫は常時十匹以上いた。それだけ多頭飼いすると、テリトリーの問題で彼らもストレスを抱え、マーキングをするようになる。

 

電化製品は度重なるマーキングでさびていく。床には嘔吐物や排泄物がない日はない。きれい好きの人だったら気が狂いそうな環境で育ってきた。

 

本好きな母は、本を買い込んでは積んでいたので、家は本の山。

それ以外に服も、コスメも、食料品も、何もかもがあふれすぎていた。買ったけど気に入らなくて、捨てられない服、もう電源が入らないのに何年も隅に置かれたままの電化製品。モノ、モノ、モノ。

どこもかしこもモノだらけで、視界に入る情報量の多さに私の頭はいつもパンクしていた。

 

 

 

 

母の独自の価値観で、牛>豚>鳥の順で食べてはいけなかった。母は一切食べないので、私はお肉を食べるとき、罪悪感をおぼえるように育てられた。自分が食べること、母に調理をさせること、お肉をおいしいと思うこと。誰かに育てさせて殺させた命の存在を嫌でも感じていた。生きているだけで罪深いと思った。

 

CMをしているような大手の製薬会社は動物実験をしているからと、おしゃれな洗剤は何も買ってはもらえなかったし、動物園に連れて行ってくれることもなかった。

 

私がわがままだったり、成績が悪かったりすれば、父は母の血が混ざっているからだと母を罵る。それが悔しくて私を優秀でいさせたかった母の気持ちもわからないでもない。だけど母は母で、祖母と一緒くたになって、父のことを罵る。父に対する恨みを、小さい子供を傷つけることで解消する。

 

泣いた私の顔を、「面白い顔!」と祖母と母はわらって写真を撮って、アルバムに貼った。その神経がわからない。

高カロリーなお菓子やジャンクフードを次々食べさせるのに、それで太っていた私の体型をポストみたいだとわらう。

傷ついて怒ると、「パパの血が入ってるから頭がおかしい」と言った。

 

 

私は中学生になるまで、坊ちゃん頭の肥満児だった。男の子みたいだった。母は私に女の子の格好をさせたがらなかった。そういうのは似合わないしダサいといわれ続けて、女の子らしいことにあこがれるのは悪いことだと思っていた。

下着はいつもベージュ。デザインはおばさん風。娘が女になるのを、母は認めたくないようだった。

私は、父からの悪い血と、母からの悪い血でできている、悪いものだと思っていた。父が母をなじるのも、母が父をなじるのも、変わらない。両方私をなじることに変わらない。

 

 

なんで生まれてきたんだろう?

父は跡継ぎになるような男の子が欲しかったって言っているし、母だって、子供が欲しかったわけじゃなくて、できたから産んだだけっていうのなら。

 

私の存在そのものが、間違いなんだ。

父と母の仲が悪いのは、生まれたものが間違っていたからだ。

私がすべて悪いのだ、と思っていた

 

それはとてもつらかった。

 

 

 

●裏切りと病気

 

 

 

学生時代、クラスで何番だったとか、同業者の医師の息子が都会のいい塾に通っているとか、熱心に子供を送り迎えしている奥さんがいるとか、そんな話しかしない父に比べて、母はまだ私からしたら話の通じる相手だった。

母のことが好きだった。母は美しくて、本をたくさん読んでいるから知識が豊富で、だけど父に日々暴言を吐かれていて、私が守らなければならないと思っていた。

 

私が中学生になったころ、母の様子が少し変わった。夜になると駅前のカフェに出かけていく。隣で寝ているはずなのに、真夜中にいなくなる。探すと、トイレで電話をしている。当時は持っている人のほうがまれだった携帯電話を買っていた。バイクに興味持って、教習所に通い、友達とスキーに行くといって数日留守にした。

 

母がカレンダーに何かを書いていて、何気なく見せてほしいと言うと慌てて隠した。スキーに私も行ってみたいというと、断固拒否した。夜、姿の見えない母を父が不審に思い、私に居場所を聞いた。私がカフェのことを言うと父は車を飛ばしていってしまった。その後、カフェで父が母を罵倒し、公衆の面前で頬をはたいたと聞いた。私が母の居場所を黙っていればこんなことにはならなかったと、自分を責めた。

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