装備品は木の棒とぬののふくのままですが、人生という冒険にチャレンジしています。
ある週末、私は中学でできた友達の家に遊びに行っていた。中学のグラウンドに行ってみようかという話になり、その子と一緒に行くと、私を車で送ってくれたはずの母がまだそこにいた。不思議に思って近づくと、運転席の母は携帯電話で誰かと話しながら、私のほうは見向きもせずに車を走らせて行ってしまった。
歩いて帰宅すると、父が写真を見せてきた。スキー場でほほ笑む、母と男性の写真だった。父にこの男を知っているかと聞かれた。知っている。その男は私の小学校の担任だ。
不自然だった点の数々が線になった。
私は母と一緒に父と戦っているつもりだった。だけど母は早々に逃げ出していた。
母が担任との個人面談を、私を通してやたらと希望したのはそういうことだったのか。
母は娘よりも男を選んだのか。
裏切りは、教師と、母と、信頼していたふたりから。
スキーは楽しかったですか。その男と寝たんですか。私の担任と。
……どんな気持ちで?
母は実家に帰っていて、父と祖父母が母を責めに行ったみたいだった。
私はその場を知らない。蚊帳の外だった。中間テストの時期だったので、私は学校に行っていた。
担任にも妻と子供がいたが、母と一緒になりたいと言ったらしかった。父は離婚だと怒りくるい、母の不貞を病院のスタッフに吹聴して回った。だが、いざ本当に離婚の手続きになったとたん、父は母を手放したくなくて、やり直してほしいと頭を下げたと聞いた。
これは全部、聞いた話だから本当のところはわからない。
私ははじめてもらった卒業アルバムの、担任の教師の顔をマジックで塗りつぶした。
担任は、父によって不貞を学校にばらされて、左遷されていった。
帰ってきた母は、憔悴しきっていた。死人のような顔だった。うつ病だと言われた。
母は毎日寝込むようになった。学校から帰ると、暗い寝室の中で布団をかぶった母に、ただいまと言う。そんな母のことを、だれに相談することもできなかった。母のことを守りたかった。目はうつろで、首を細かく振っている母を、おかしい、怖いと思いながらも。
私を裏切ったことを憎みながらも、その恨み言をぶつけたら母が自殺してしまいそうで怖かった。私は母を憎いと思った気持ちを、墓場に持っていこうと思った。心を殺すことにした。代わりに、そこまで母を追い込んだ父と、母を誘惑した教師を憎もうと思った。
果てのない憎しみは、私の心を蝕んだ。
●進学校の落ちこぼれ
高校は、両親に入れと言われるまま地元の進学校にした。女子高だった。すべり止めの私立に落ちていたので、公立の発表まで、母はこの世の終わりのような顔をしていた。大検を取らせることも考えていた。
子供が進学校に落ちるのがそんなに悲しいか? と私は冷めた目で見ていた。
受かってからは、勉強のことはどうでもよくなった。テストで10点以下の点数をとることもあった。地域の優等生があつまるその学校で、そんな点数を取る人間はいなかった。
家からは一駅離れているにもかかわらず、クラスの子に、「あなたのお父さんって医者なんでしょ?」と問い詰められた。ちがう、ととっさにうそをついてしまったが、なぜこんなことを聞かれなければならないのかと思った。
父はPTA会長になった。やめてくれという私の懇願を無視して。「落ちこぼれのお前が卒業できるように、校長先生に頼んでおいたからな」と哂っていた。
学校が終わると部活もせずに家に帰って、ずっとテレビゲームをしていた。
私は小さいころから、ゲームオタクだった。ゲームの中には、優しい世界があった。家族や仲間との友情も愛情も、私はそこから学んだ。大切な世界だった。きっとこういう心のあたたかい人間もいるはずだって、画面の向こうでだけは、安心していられた。
ゲームのキャラクターが死んでしまい、悲しいと泣く私に、母はこう言った。
「そんな作り話で泣くなんて、馬鹿じゃないの!」
年頃で少しH な漫画に興味を持った私を、母は汚いものでも見るような視線を向けた。私は集めていた漫画を、庭で燃やした。
声優になってみたいと言った。
「声優になるような子は、若くして劇団に入るものだ。厳しい世界で芽が出るとも限らない。ひとり都内で下宿するような、そういった覚悟はあるのか」と言われて委縮してしまった。
ゲームを作る人になりたいとも言った。
「そういう学校は大学を卒業してからでも遅くない。」
絵を描くのが好きだった。ピアノを弾くのも好きだった。
そういったことを、両親がほめてくれたことはない。
気づけば、褒められた記憶そのものが少なすぎて思い出せない。
大人になって、絵も音楽も料理も手芸も、褒められることばかりで驚いた。
発表会では母の好きな曲を弾いた。私のピアノは、ピアノ自体が高いからいい音だと言われた。
父は、自分の代でこの病院はつぶれてしまうんだと自嘲した。私がじゃあ医者を目指すというと、お前じゃ無理だと一蹴した。母は、人生をかけて不幸な犬猫を減らしたい、私が獣医になったら猫をたくさん避妊手術してあげられるのに、と言った。
雪が降ると楽しみにしていたり、台風が来るからワクワクしていたりすると、外で暮らす猫がかわいそうだと思わないのか、と非難される。
母は政治の話もよくした。この国はいずれ戦争になるし、未来は絶望的だということを繰り返し聞いた。
両親は犬猫が好きだった。ごはんをあげていれば自分たちを慕ってくれるから。
ただ中には神経質な犬もいて、父とは折り合いが悪くて、父はその犬をスリッパで殴っていた。母はあきらめて止めることもしなかった。多頭飼いの環境に慣れず家出する猫もちらほらいる。彼らのことは一応探すが、そのうちにあきらめる。自分たちのやり方に従わない子はいらないから。
フードは大体安いものを与えていた。人間の食べ物も気にせずあたえた。塩分が入っていようが、たまねぎが入っていようがお構いなかった。焼き魚もから揚げも、パンも牛乳も、刺身もチーズも、何でもありだった。
数が多すぎて都度ごはんをあげるわけにいかなくて、いつもフードは山で置かれていた。食事量のコントロールができない子は肥満になっていった。晩年はどの子も歯槽膿漏になって、口が痛くてよだれを垂らして苦しんだ。
原材料にこだわった700円の猫のおやつを買う私を贅沢だという。自分には3万円の服を買うのに。
定期健診も予防注射もまめにしない。そこまで面倒を見られないから。
可愛がるのは、より自分たちに従順な子だけ。なついていて、顔がかわいい子だけ。
疑問は常にあったが、異を唱えることは許されなかった。
あの家では、父と母が法律。
私もペットのようなものだ。
口答えするし言うことを聞かない分、私は猫よりも愛されていなかった。
具合を悪くした猫の面倒をかいがいしく看る両親を見るたび、私の心は暴れた。
そんなふうに私にやさしくしてくれたことなんて、ほとんどないくせに、と。
●限界、そして崩壊
高校3年になり、進路を決める時期になった。冬になったころ、私は決めた。浪人して医学部を目指すと。父に認められたい気持ちが再燃していた。
予備校の、医歯薬獣医コースに入学した。義務教育と違って出席を取らない予備校は気楽だった。ただ勉強に身が入ることはなく、成績も伸び悩んだ。
私は結局三年間浪人するのだか、途中心身の不調で学校に通えなくなった。
精神科に行き、適応障害と診断を受け、薬を飲みながら勉強した。医学部や獣医学部は無理だったが、文系の有名私立大学に合格した。集中して勉強したのは、実質試験前の4カ月。私はこの短期間で、偏差値を50から70まで上げた。
母が行きたかった大学だった。全日制のその大学と、興味があったほかの大学の夜間を併願していたが、私は母の希望を飲んだ。
大学にはなじめなかった。都内出身のお嬢様のクラスメートたちは、エスカレーターで進学してきていて受験すらしていない。彼女たちはキラキラしていて、まぶしかった。
都内への通学には往復5時間かかった。朝は早く、夜は遅く。一人暮らしは許されず。
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