神様からのプレゼント
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>私はホンマにアホな子やった。
高校3年生の夏休みは、海辺で使うビニールベッドを部屋の真ん中に置き、寝てばかりいた。一番勉強せなあかん高校3年生がアホのピークやったように思う。
マーフィー博士の「眠りながら成功する」という本を読んでからというもの「ふむふむ寝ていれば願望は実現するんだ!」と都合の良い解釈をし、1年前に通販で買った睡眠学習の効果が全く出ていないことは、頭の隅に鍵をかけて忘れたフリをし、ひたすら寝ていた。ただ寝ていたのではない、眠りに入る前にイメージすることがとても重要ということなので、一生懸命イメージして、一生懸命寝ていた。
アイドル歌手になること!いやいや高校3年生でアイドルなんて遅すぎるんちゃう?という思いが頭の隅に浮かぶことすら封印し、イメージトレーニングに勤しむ。
何通かオーディションには応募していたがすべて書類選考で落ちていた。書類選考すなわち写真審査で通らないのはどういうことか、わかりそうなものなのに、現実を直視することを避けていた。要するに応募して落ちることが怖いのだった。
写真が命の写真は、自撮りという素晴らしいシステムもなく。写真館に行って写真を撮ってもらおうと思う頭もお金もなく、母親に頼むしかない。
母親は、私が歌手になりたがっているのを、知っていたはずなのに応援することはなく、写真撮影を頼んでも、いつも面倒くさそうで、出来上がってきた写真は(当時はデジカメがなかったので、写真はカメラやさんで現像してもらうしかなかった)足がきれて、空ばかり写っていたり、逆に頭が切れていたり、ピンぼけばっかりだった。
多くのタレントがスカウトをきっかけにデビューしている。受かりそうもないオーディションに何度も応募して傷つくよりも、スカウトされることが早道だ。私もスカウトされたい!自分の風采がどういうものか、度外視。だってマーフィ博士が潜在意識にアクセスすれば、どんな夢も実現できるって言っているし、その為に、日々トレーニングに勤しんでいるのだから、きっと、きっとスカウトされるはずと思いこむようにしていた。
頑張りたいのに、何をどう頑張っていいのか分からない。この有り余るエネルギーをどう使えばいいのかもて余していた。ボーカルトレーニングやダンスレッスン受けて、無我夢中で取り組みたかった。しかし、右を見渡しても、左を見渡しても田んぼしかない田舎で、そんなことできるはずもない。仕方なく「歌手養成講座」という通信講座を購入しカセットから流れてくる「ド~ミソドソミド♪」をなぞって発声してみるが、合っているのか間違っているのかさえわからない。これで、歌が上手くなるとは到底思えなかった。
高校生活も残り少なくなってきた頃、友達のちえちゃんの受験に東京まで、もうひとりの友達ラムちゃんと一緒にいそいそと付いていく予定だった。大学に行かせる余裕はないと両親から言われていたので、勉強はしていない。もう、高校3年生だ。東京に行ってスカウトされる。ここに賭けるしかない!
アホの考えそうなことである。そう強く自分を信じ込ませようとしていた。
最終の亀山行きに乗り、そこから乗り変えて名古屋まで行き、名古屋から普通の夜行列車で、早朝東京に到着予定だった。しかし、乗車予定の最終列車が到着したのに、前の駅から乗り継いで来るはずの二人がいない。乗ろうかどうしようか迷ったが、乗らずにボーゼンと最終列車を見送った。
家に帰りしばらくして電話があった。2人とも列車に乗り遅れ、真っ青になっていると、親切な人が、間に合う駅まで送ってくれたとのことで、私は始発列車で追いかけることにした。携帯のない時代は、行き違いが多く不便だった。
翌朝、寝坊してしまった。息せき切って駅まで行くと列車は発車するところで、ガタンと動き出した。改札口の駅員さんに「列車を止めて!!」と言ってみたが「無理や」と言われる。次の列車は1時間後で、到着時間は大幅に遅れる。私はとっさにホームから飛び降り、走りかけた列車を無我夢中で追いかけた。「待ってぇぇぇーーー」髪振り乱し、すごい気迫だったのだろう。列車は止まり、半べその私を乗せ再度出発した。
普通列車を乗り継いで片道9時間の道のり、変わり映えのしない風景を見ながら、ウォークマンで当時流行っていた ダンシングヒーロを繰り返し繰り返し聞いていた。
夕方にようやく到着。
国民宿舎のベットの上でちえちゃんは「よー来たな」と言って、ラムちゃんから借りたメガネをかけ、カンニングの練習をしていた。受験でカンニングなんてマジか?と思ったが、フザケていたのだろう。そんなちえちゃんを横目で見ながら、私は明日行く原宿に思いを馳せドキドキしていた。イメージトレーニングは、ばっちりだ。マーフィ博士も応援してくれるだろう。
当日はスカウトのメッカ原宿のラフォーレを何度も往復した。
カンニングに失敗したチエと、怪しいキャッチすら声をかけてくれなかった私は、失意の中、列車を乗り継ぎ三重まで帰ってきた。
東京に行けばなんとかなると思っていた。神様はそこまでお人好しではないし、世間は甘くない。田舎で育った私は、世間知らずでアホやったから、自分というものを客観視できなかった。
田舎者の宿命か地味に努力できないものの宿命か、はたまた自己肯定感が低いためか、とにかく華やかなものに憧れ、認められたい欲求が強かった。同時に自分には無理だと、どこかで諦めていた。自分で自分を認めていないのだから当たり前だと納得出来たのは、ずっと後になってからだった。
4月、福岡にあるその専門校に入学することになったが、どうしても行きたくなくなってきた。そんなこと両親に言えない…。行かなければ学費を返してもらえるかもしれないと、ほのかな期待を抱く。そこで、押し入れに隠れて、福岡に出発したフリ、すなわち学校に行ったフリをしようと思い立つ。両親は、働きに出ている。日中は私一人だし、楽勝だ。両親が帰ってきた時だけ、押し入れに隠れればいいのだ。とにかく現実から逃げたかった。
逃げていた。大人になることに、何も考えず気楽に過ごしていた毎日から、いきなり背中をドンと押され、自分で考え、選択して道を切り開いていかなければならなくなった。
どこを歩けばいいのか、道を指し示してくれる大人がいない。
考えることをしてこなかった私は、ポツンと取り残され、時がいたずらに流れていくのを気づかないふりをし、それで済まされなくなった今、逃げるしかない。現実を目の当たりにしても何も考えていなかった。先のことなんて考えられない。
家の間取りは3DKで自室があった部屋の押入れは、家の真ん中に位置している。私は息をひそめ一晩すごした。朝、両親が出かけると、私は押入から出て、大きな伸びをし、部屋でくつろいでいた。
そこに看護婦をしている姉が夜勤明けで帰ってきた。「あーーーーお姉ちゃんが居ること忘れてた!」慌てたが、もう遅い、逃げも隠れも出来ない。息を殺し「どうか部屋に入ってきませんように・・」と祈った。普段私の部屋に入ってくることは、ほとんどない。しかし、姉はドアを開けた。
そこに、いるはずのない私の姿..目を見開いて、固まったままの姉。
「あんた・・・どうしたん?」
「・・・・・・・・お父ちゃんには黙ってて!」
こんな生活続けられるはずがないと、心のどこかで思っていた。もう観念するしかない。姉と母は、父に内緒にしてくれた。私は翌日、大阪からフェリーに乗って福岡の学校まで行った。
暫くして実家から荷物が届いた。荷物の中に母と姉からの手紙が入っていた。
「ゆり、げんきですか?
最近はそうでもなくなったけど、以前までは病院から帰ったら、真っ先に、ゆりの部屋の押し入れを開けていたものです。じろじろじろ
ゆりはバイトで忙しいことだろうと思います。
たしになるか、どーかわからないけど、ちょっとしたものを送ります。
またね
姉より」
「百合へ
元気ですか、ちゃんと食べて生活していますか?
ゴールデンウィーク真っ只中ですが、アルバイトに精を出しているのですか?
未だに、あなたの部屋を開けるたびに百合がポツンと座っていたらどうしようとドキドキします。
あなたが行ってから、まだ3週間にもならないのにすごく長く感じます。勉強に精を出して心身ともに素敵な女性に成長してくれるよう願っています。
身体に気をつけて、何ごとも頑張ってください。
母より」
手紙の他に、お菓子や生活に必要な物が入っていた。私は胸が熱くなり、とても申し訳ない気持ちになった。というのも私は早々に、この学校に通っていてもスチュワーデスにはなれないと悟った。OGの先生一人が主たる教師で、あとは校長と事務職の男性のみだった小さな専門校。学校出身者からスチュワーデス採用試験に合格した人がいないのも引っかかる。
福岡に来るまでに一騒動あったのに、来て数ヶ月でやめるとは言えない…。
実家からの仕送りは寮費のみで、バイトに明け暮れた。
寮費の5万円を支払うのがバカらしくなり、寮を飛び出し、友達と先輩が暮らすアパートに転がり込む。学校をサボり、ロウソクの火を見つめ、性懲りもなく新たな方法で、潜在意識を開発しようとしていた。
本が積み上がっている納戸に格安で住まわせてもらった。そんなある日、本を枕に寝ていたら、校長がいきなり来て、「本に対して失礼や!」と説教される。
結局学校はやめて実家に戻り、ゴルフ場のウエイトレスやキャディをしながら鬱々とした日を過ごしていた。
ある化粧品購入をきっかけに知り合った女性に、宗教に勧誘され、あっさり入信。魂を浄化させると運がよくなると言われたからだ。自分の努力はそっちのけで、運が悪いと運勢のせいにした。元来世間知らずなものだから、見事に宗教にハマっていく。「魂を清め、徳を積むのだ」と人から言われるままに夢中になっていた。
冬の寒い中、街頭で布教活動、夏の暑い日に布教合宿。
「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない」と英語で印字されたトレーナーを着て「あなたの幸せをお祈りさせてください」と街ゆく人々に声をかけるのである。かなり怪しい。1日何人の人に声を掛ける目標と入信勧誘ノルマがあった。
オウム真理教が明るみになる以前だったので、それほど嫌悪されることはなく、世間の人の対応も優しかった。「スローガンの英語の文字はいいね!」と声をかけてくださる方もいた。大阪の叔父が入院していると聞くと、魂を清める除霊をしに行く。除霊すると重い病気の人も治るらしい。信じて疑わなかったので人の目は気にならなかった。よくやっていたなと思う。
自宅から1時間以上かけて、奈良にある支部に通うために 奈良で事務職の職を得る。 世間はバブルなのに、そして、20歳~22歳の輝かしい時代に私は、地味な仕事をし宗教にハマるのである。バブルの恩恵は1ミリも受けていない。
そんな、ある日 帰宅途中に1枚のビラを受け取った。三浦綾子著「塩狩峠」の映画上映の案内で、近くの公民館が会場だったので見に行くことにした。雪がちらつく寒いクリスマスの日だった。古い公民館の畳部屋に座布団が置かれ、数名が座っていた。年代物の映写機でカタカタと途中何度か止まりながらの上映会だった。
映画に感動した私は、これを機に三浦綾子作品を読むようになる。
新興宗教に入信し、一生懸命布教活動はしていたものの、三浦綾子の説くキリスト教に、しだいに感化されていき「神様は無理強いはしないはずだ」と献金の強要、ノルマ、先生方への行き過ぎた接待に矛盾を感じ、次第に足が遠のくようになっていった。
毎日のように支部に日参していたのが行かなくなると、封じ込めていた“このままではいけない“というふつふつとした気持ちが湧き出できた。
専門学校中退後に受けた、スチュワーデス採用試験の一次に、まぐれにも合格し、あわてて英会話のマンツーマンに100万円支払って習いに行く。他にスチュワーデス短期講座も受講した。英会話教室の講師は外国人教師ではなく、帰国子女でもない、短大卒の女性講師、バブル時代のせいなのか月謝はベラボーに高かった。週1度の6ヶ月コースに大阪まで片道2時間かけて通う。安月給ゆえローンを組んだ。
その後も英会話は習っていたが、お金がかかるばかりで上達しないのが悔しくて、現地にいけば、話せるようになるだろうと短期留学を決める。決意してから昼も夜も働き必死に貯めた。アメリカは学費が高く、留学先はイギリスになった。湾岸戦争が始まりポンド値上がりの為、私の予算では、期間3ヶ月と短くなった。
私は何に対して、こんなにもがいているんだろう。三重の田舎で、ほのぼのと暮らすのも悪くないのかぁ...と考えたこともあった。
ふと思い立って占いに行ってみる。家族と離れて住むほうがいいと言われた。自立しろと当然なことを言われたまでであったが、イギリス行きの後押しをしてくれたように思うことにした。
何でも占いに頼ってしまうほど、自分の心の声を聞く余裕も、本当に何がしたいのか考える力もなかった。
初めての飛行機。一面銀世界のような雲が眼下に広がる、ふわふわ幻想的で、今まで見たこともない景色に心を奪われ、飽きることなくずっと雲を見ていた。
そして、スチュワーデスの仕事をずっと観察した。元スチュワーデスの先生は「あんなの高級ウエイトレスよ!私に娘がいたら絶対ならせない」と鼻の穴を膨らませて言っていたが、テストに落ちた私達を励ますつもりで言ってくれたのだろう。体力と気力勝負の大変な仕事だ。私は表の華やかな部分だけを見て、裏を見ていない。
飛行機は乗ってサービスされる側がいい。
イギリスに着くや早々に、私は女優になりたかったということに気づく。中学時代はNHK「おしん」の物まねをずっとしていたし、学芸会で演じるのも楽しかった。そういえば小学校時代は演劇大会があって、作・演出をしたっけ・・・・気づくの遅すぎや・・・。
女優というのは、ある限られた特定の選ばれし人しかなれないと思っていた。東宝シンデレラガールやホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリを取らないとなれないと思っていた。なれないのになりたい、この矛盾する思いからずっと逃げていた。
ふとしたきっかけで小劇場の存在を知り、にわか演劇少女が出来上がる。小学校時代は、飽きもせず吉本新喜劇をずっと見ていたから、全くジャンルは違えども舞台に対しての親しみと憧れはあった。
イギリスにいる間、上京する決心を固めていた私は、帰国後、英会話学習雑誌に募集が載っていた「外人宅でベビーシッター兼お手伝い」に応募。
仲介業者に紹介料を支払い、面接することもなく、自由が丘にある、シンガポール人宅に住み込みの仕事が始まった。いきなりである。
英会話でコミュニケーション、初めてのベビーシッター、初めての家事。
ある日ベランダで水遊びの準備をしていると「この子は我が家の大事な跡取り息子なの、気をつけてね」と言い奥様は出かけられた。1才児の跡取り息子は、泣きじゃくった。どんなになだめても、何をしても泣き止まない。オロオロしていた私は、悲しくなり、泣いている跡取り息子を尻目に、オイオイ泣いた。そんな私に圧倒され、跡取り息子は泣き止み「どうしたの?」という顔をしてきた。とても良い人達だったが、人の命を預かるプレッシャーにギブアップ。
1ヶ月ほどで実家に戻る。実家は私にとって居心地の良いものではなかったが、帰る家があるということに甘えていた。ここではないどこかに行きたがっているのに、負け犬のようになって戻ってくる。私は負け犬だ。自分の人生に責任がもてない負け犬。自分を見つめ、自分の頭で考えることを怠っている負け犬だ。
伊賀にある忍者屋敷で、くノ一のバイトなどをしながら上京する機会を伺う。求人情報誌「とらばーゆ首都圏版」を東京から取り寄せ、仕事を探す。右も左もわからない東京に一人住むのは恐ろしい、ましてや仕事が決まっていないと不安だ。住居を用意してくれる会社に、就職することにした。
ようやく晴れて東京で暮らすことになった。
俳優養成所などのオーディションを受けつつ、入団可能な劇団を探すため、芝居を見て回るが、なかなか見つからず、上京してから1年が過ぎていた。
観劇している中で一番感動し、面白かった「home」を上演した山の手事情社の入団テストを受ける。
テストは、「自分の身の回りにいる人物を真似してください」という内容。・・・できそうにない、できる気がしない、考えても浮かんで来ない・・・テストを受けるのを断念しようと何度も思った。が、どうしても入りたい劇団だ。審査員は元となる人物は知らないはずだからと、いちかばちかのやけくそでテストを受ける。
春の陽気が柔らかな日に入団した。
座長の安田氏は、早稲田の演劇研究会出身で、大学に行っていない私にとって早稲田大学は雲の上の存在、早稲田大学行きのバスに乗るだけでウキウキしていた。
新入部員は私を含め4名、挨拶もそこそこに早稲田の大隈講堂周辺で、マラソン及び身体訓練、輪になっての発声練習。続いて行われる先輩のエチュードにツッコミを入れる安田氏は最高に面白く、稽古は夢のようだった。
週に3日の練習に加え、課題が月に2つあった。
1つは表現の言語化のトレーニングとして、見た芝居の感想レポートを書く。レポートを書くのが初めての私は、段落のあけ方も分からず、相当バカにされ恥ずかしい思いをした。
2つ目は「面白い人を演じる」発表会が1ヶ月に一度。毎回頭を悩ますが、次第に恥ずかしさもなくなり、面白くなってきた。
当時私はパチンコ屋でバイトをしており、開店時、軍艦マーチが流れる中「え~いらっしゃいませぇ、本日もジャンジャンバリバリ出してくださいませぇ」と店長がマイクでアナウンスするのが面白くて、このアナウンスを“峰不二子風”に色っぱく言ってみたらどうだろうかと、自分に出せる最大限の色っぽさで(伝わってなかったみたいだが)発表したら、ネタ評価は良く、秋の公演に取り入れてもらえることになった。
公演名は「コーラーっぽいの」
主要俳優2名が抜けたばかりで作風が大きく変わることになり、はじめての試みであった。
コラージュのような演劇。皆、手探り状態で、演っている本人達も何が何だかよく分かっていなかった。私は出演できるというだけで、有頂天になっていた。
舞台衣装作り、舞台稽古用スタジオでの稽古、本番。
ロボットのように行進したり、芝居が進行している片隅で“峰不二子風”パチンコアナウンス。そして、客席を駆け回る。何もかも新鮮で無我夢中だったが客席からどう見えているのか不安だった。
先輩の知り合いで公演を見に来ていた人達と飲みに行くことになった。公演の話になり
「私も出てたんですよ~」
「どこに出ていたの?」と聞かれた。
「“峰不二子風”パチンコアナウンス…全くインパクトなかったんや」私の練習不足というのも否めない、発声もまだまだだし..。
しかし、華がない、存在感がないっていうことではないのか?人の記憶に残らないなんて、演る意味あるのか?俳優として絶望的なのではないか・・・・。
「向いてないな・・」セッカチであるがゆえに結論を急ぎすぎた。何様のつもりだったんだろう・・・。
「やめよう」
続けていけば、存在感は出てきたであろうに、はたまた存在感のなさを売りにできるかもしれない。何にせよ続けることが大切なのだということが、まだ分からなかった。
劇団をやめようと思ったが、誰かに後押ししてもらいたくて、またもや占いに頼る。ネットがない時代、情報はananなどの雑誌に頼るしかない。雑誌に載っているような占い師は、ものすごく高い。お金もないのに大枚はたいて見てもらいに行った。
「あなたねぇ、色気がないのも存在感がないのも、彼氏がいないのに問題がある。彼氏をつくりなさい!」
「ちゃんちゃん。終了~」
占いに行くより、ゲイバーのママに相談するほうが良かったかもしれない。
公演後の休みの期間、占いに行ったり、アルバイトに精をだしていた。そのアルバイト先で「スピード」という映画が、とても話題になっていたので見に行くことにした。
主演のキアヌ・リーブスが大画面に映るやハッと息を飲んだ「なんてかっこいいんだろう。世の中にこんなに、こんなにかっこいい人がいるんだ」・・雷に打たれたような衝撃を受けた。まさに一目惚れである。
映画を見終わった後、魂を抜かれた人のようになり、道行く人々はモノクロに見えた。残像に残っているキアヌ・リーブスだけがカラーなのだ。
それからというもの切り抜きを集め壁に貼っては、眠りにつくとき「ひと目でいいから会いたい」と思い焦がれるようになった。
無意識のうちに、潜在意識アクセス法を実践していたのである。マーフィ博士のことはすっかり忘れていた。
程なくして、キアヌ・リーブスが参加するバンド「ドッグスター」がライブのため来日した。キアヌに会える。生キアヌ!こんなに早く夢が叶った。私の夢の規模はどんどん小さくなっている。努力を伴わない夢は叶いやすい。
上京してからというもの次第に大阪に対する気持ちが強くなって来ていた。大阪ローカルテレビが東京では放映されていない。やしきたかじんも探偵ナイトスクープも上沼恵美子も見れなくて、寂しい思いをしていた。華がないから諦めたのに、大阪ローカルならなんとかなるのではないかという、甘い期待を少し抱いていた。自分は何をしたいのか、混沌としていた。
著者のみらん 上田さんに人生相談を申込む
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