生きると決めた日、それを忘れた日々、思い出した今日。総集編
何の偶然か、親父はそのタイミングで引越しをして、その手伝いを俺に頼んでくれた。
他の親戚ではなく、俺にだけその住所も伝えられて、そこで一緒に暮らす案も出た。
チャンスは今しかないと感じた。
俺の親孝行の計画は、
「親父が大好きな音楽、俺が作る側に演奏する側になって聴かせてあげること」
だった。
歌が誰より得意だと自負していた。
加えて勉強も得意だった。
ろくに授業を受けなくても平均点は取れたし、全国学力テストでは偏差値70代だってとったことあった。
(習い事もせず、自宅学習もせずだ)
そんな自分だったので
「いい大学に行って面白いやつとバンドを組んで親父が好きな音楽を聴かせる」
これ以上のアイデアはないと思い、通信の教材を買い、歌の習い事も初めた。
掛け持ちした店では賞をもらったし、
10月頭には人生初の生バンドでのライブもやった。
勉強もわかることの方が多く、調子づいていた。
全てはうまく進んでいっているはずだった。
ライブの数日後、親父がICUに運ばれだとの連絡が入った。
死ぬなんて思っていなかった。
また俺は失った。
④過去(3年半前) 出会いまで
全てに絶望した。
なぜこのタイミングだった?
積み重ねた努力、悩んだ時間、乗り越えて進もうとしたエネルギー、その全てが否定された感覚しかなかった。
俺は死にたくなった。
二十歳になりたての俺は遺産の話に巻き込まれ、父の思いとはきっと違う形での解決に向かっていくのを心臓が痛いのを感じながら眺めた。
何度も死にたくなった。
死に切れなかった俺は、生きる理由を別のところに求め始めた。
学童の先生になった。
子供が好きだから、年の離れた兄弟がいて面倒見の良さには自信があるから、
いくらでも言えたさ。
本心は、
「子供はすぐに死なないから」
こんなクソみたいな理由で指導員やっていたなんて、今思えばふざけてる。
それでも子供たちのことを真剣に見つめ続けたし、その想いが伝わる場面は何度もあり、素晴らしい時間を過ごした。
本当に素敵な時間を過ごした。
それでも、染み付いた考えや、重い後悔は俺を掴んで離さない。
2つの極の間を行ったり来たりする日々だった
そんなある日、子供の前で歌を歌ったら、普段素直じゃない子供が
「よしきうたうまいね」
なんて言ってくれた。
あぁ、音楽は死んでいなかった。
そう気づいた俺は子供たちのために始めたばかりのギターを持ち込み、弾き語り、密かにギターの習い事も始めた。
あまりにも高かったのでスクールを変えたところ、ボイストレーニングも受けられる校舎だというのでそれを受けてみようと軽い気持ちでレッスンを受けた。
それが人生を変える出会いに繋がると俺は思っていなかったよ。
素晴らしいコーチがいた。
そのコーチに、何か自分に近しいものを感じていた俺は、何度も彼だけを指名するようになり、ギターは習わなくなった。
ある日、彼は俺を馬鹿だと思っていたと言う。
俺は悔しくて成績が良かった頃の話をする。
なら何故大学にいかなかったのかと聞かれ、そのままの理由を答えた。
不登校、人間不信の過去、気づけばそのあとの引きこもりと親父の一件まで全て語ってしまっていた。レッスンの終了時間は当然過ぎていた。涙目溢れて止まらなかった。
一通り聞き終えたあと、彼はいう。
「僕は君が羨ましい。
僕はもう涙の流し方もわからないんだよね」
重みが、違った。
⑤生きると決めた日
彼の言葉の全ては俺に突き刺さった。
親に捨てられ、3歳の頃には見返すことを決断し、豚小屋のようなところに押し込められながらも、強くあり続け、そしてある日折れてしまった男の話を、彼はしてくれた。
男が浮浪者の頃、どこだかで聴いた音楽が、自分のそれまでのものと大きく違うことに気付いたという。
自分のためにじゃダメだと。
誰かのためにやる音楽じゃなきゃダメだと。
男は気付いたという。
俺も同じだった。いつのまにか、やることなす事が自己満足のためになっていた。きっとそのせいでダメだったんだ、そう思った。
俺は彼に
「俺と同じ歳の頃は何していましたか?」と聞き、
「放浪していた。」
と彼は答えた。
それが俺が旅に出たきっかけだ。
追えば何かが見える気がしてならなかった。
この人を追いかけたいと思った。
彼が海外で認められるトレーナーだからじゃない、国内最王手事務所と契約していたことがあゆからじゃない、人間の部分に共鳴した。
その点において俺は他の生徒と違うと自信があった。
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