汝の道を行け そして人々の語るにまかせよ
うちの教会でも洗礼は受けてないけど、礼拝にはきちんと参加し、献金もしてくれる人がいます。彼は「まだ洗礼は受けられない」とは言いますが、理屈じゃないんです。ここで助けられたという恩義を感じている人間ですから、社会復帰して今度、結婚しますけどね。
そこら辺は理屈じゃない、本人には分かっていないけど、うまく対象化できないとしても、神の存在と自分の霊性の部分、魂の分野に関係するんですね。
少し図式的に説明しますと、僕たちの考えは中心が霊です。これはカトリックもプロテスタントも一緒です。それをくるんでいるのが心です。魂とか精神とか呼ばれる部分かもしれません。それが、霊を包んでいます。
そして一番外側が肉体です。これが三位一体の構造です。霊、心、肉体…。肉体は見えるけど、精神も霊も見えないですよね。でも、どこかが回復すると、こっちも回復してきます。精神が回復していけば肉体も回復していきます。
ここが神の領域です。僕たちは霊が回復すれば心も肉体も回復すると考えています。もちろん霊の部分は宗教じゃなくてもかまいません。もし元気づかせることができるんであれば、それはそれでいいんです。
別に宗教が介在しなくても一緒に良くなっていく。みんなで一緒に祈りながらね。祈りは嘘をつけませんから。心にあるもの、魂にあるものがそのまま出てきます。
この対談でも最初にお祈りをしましたが、最初に一緒に祈りをすることによって、相手に愛が伝わって来ると思うんですね。
この霊の部分を回復させるために、僕たちは祈りがある。そして信仰がある。それは僕たちの領域ではなく神様の領域なんですけども、理解して頂くためにも祈りとか、会社でいう朝礼、あるいはモットーみたいなもの、あるところでは歌ったりしてそれを示します。
■朝起きると祖母が仏壇にお茶を供える光景
僕たちはいつも言います。「私たちは同じ船に乗っています。私は神の声を聞いて舵を取っています。同じです。もし、違うところに行きたかったら、救命ボートに乗って一人でいくしかないんです。それは否定しません」と。
ただ、「ここにいて船に乗っている限りは同じ心になりましょう。それは祈るしかないでしょう」と。僕は宗教家ですから、宗教家の話ですからね。私の立場というか、やり方でやっているだけの話であって、それが宗教でなく会社であれば、朝礼なんかでやるわけですよね。
で、やっぱりリーダーシップが求められる。舵取り、羊飼い、施設長にみんな乗っかってくる。リーダーとなる者は求められるものも多いだろうし、やって当たり前、できなきゃ何でできないんだという、そういうプレッシャーにさらされて大変だと思います。
―今の話で、なんとなく結論を頂いたような気がします。やはり霊性やスピリチュアルは解釈するものではなく感じるものですね。そして恋愛と同じで「論じるよりするもの、感じるものだ」と。日々心を穏やかにして、平安の中で実践するものだということでしょうか。
僕なんかの経験でいうと、子供の頃、祖母が朝起きるとまずお茶を仏壇に供える、あの光景を思い出すんです。仏様にお茶をあげて手を合わせて、平安な心持ちで「今日一日、家族みんなが平穏無事で過ごせますように」と願う。そんなイメージに近いような気がするんですよね。
この国にはそういう心象風景みたいなものが、いつの間にか無くなってきて、心がぎすぎすしたものになっている。一触即発で、何かあると爆発しかねないというか、ちょっとしたことで暴走する。どこに行っても競争、競争で、自分が鎧を脱げないというか、絶えず構えていないといけない。心が休まることがない。
そういう中でダルク、教会もそうでしょうけど、本音で生きられる、心が休まるホッと息がつける空間だと思うんですね。今のお話でより共通項が見えてきました。栗原施設長、どうでしょうか?
栗原 そうですね。宗教を持っていることの問題ですが、私もダルクにつながって支援してくれるカトリック教会の信者さんたちと交流を深めていくなかで、自分がダルクで学習していることと、信者さんたちが持っていることと、すごく近いなあという実感をもったんですね。
この回復のプログラムをやっていて、自分も信仰を得た方が早いのかなあ、と。信仰の世界に入ろうかなあ、と思った時期もあったんですが、でも、まだまだ未熟な身としては、宗教を持つことはまだ早いというか、ある種のためらいや抵抗感があったのか、今まで踏み切れずにいたんです。
でも、求めているところは宗教を持っている人たちと同じだなあ、という自覚が深まっていったんですね。今日、こうして進藤先生とお話をしていて、より一層そう強く確信しました。ありがとうございます。
■自分だけの力ではなく神の助けが必要だ
やはり神と自分の関係について見つめることは大事ですね。夜はいつも自分と、自分が想定する神との関係を正すために自分のスタイルで祈りを捧げています。求めていさえすれば与えられると信じていますから。
進藤先生のように具体的な説明はできませんが、どこかで自分が求めているもの、そうして神の意思とはこういうものだと自覚して、それに近づこうとする。それをしていると自分が楽になれるんですね。
ヤク中であり、アル中であるという、依存症という厄介な病気を持った人間だけれども、自分がくじけずに、どうにか前向きに生きられる。
新しい生き方を手にしていくには、やはり自分だけの力ではなく神の助けが必要だと、たえず自覚させられています。
宗教じゃないですけど、自分が信じる神が、この世の中に存在していると思っていますから。それに近づいていけば、自分の過去のどうにもならない生き方から、新しい生き方が形成されるんじゃないかと。
本当は宗教に帰依した方が早いんじゃないかと思う場面も確かにあります。
進藤 まあ、その辺は沖縄ダルクの施設長に一度、体験談を聞いてみてください。
―ダルクの仲間たちには結構、洗礼を受けてカトリック信者になった人がいますよね。もちろん他の宗教を信じている人もいると思うんですけど。信仰者としてもいろいろな人がいますからね。
進藤 やはり強制では信仰は持てないのです。自分から求めて選び取らないと。そうして決断しないと。ここに来るのも自分で決断しないとダメです。
誰かに勧められて入っても、結局は誰かのせいにして出て行きますから、最後は入るのも出るのも自分の決断です。信仰もそれと一緒だと思います。
栗原 まさに今回、進藤先生とお話ができる機会を得て、ハイヤーパワーの計画だと実感しました。お互い立場は違っても、同じ仲間という強い確信を得ましたので、どうかこれからもお付き合いください。
―今日はお忙しい中、貴重な時間を割いていただき、本当にありがとうございました。これからも宜しくお願い致します。 (終わり)
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