汝の道を行け そして人々の語るにまかせよ

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 ところで依存が怖いのは依存体質になることです。栗原さんは当事者だからよく分かっていると思いますけど、依存者に依存されちゃうと大変でしょ。うつ病の人とか精神病の人とかに依存されたら、もう大変。

 クスリに頼るように人に頼っちゃう。僕からすれば、そういう体質になるのが一番怖いです。自分で自力ですることと他人に頼ることの境目が分からなくなってしまう。

 どうなんでしょうか。12ステップはキリスト教の風土の中で生まれたという要素はその通りですよね。例えば僕らは、よくダルクとAAやNAとの違いを考えるんです。

 ダルクがこの国で曲がりなりにも増えてきたのというのは、ダルクの創始者である近藤さんの持つ資質がかなりプラスに作用していると僕は思います。

 近藤さんの寛容な姿勢、懐の広さみたいなものがあって、卑近な言葉でいえば「いい加減さ」を認める度量にあると思うんです。

 

 ■生きている人はお寺ではなく教会に行く

 AAやNAの場合は12の伝統もありますから、厳しい戒律といえば語弊がありますけど、一見寛容なように思えて、アノニマスも含めて徹底しています。

 もちろんダルクは社会との中間施設ですから、AAやNAとは本質的に立ち位置が異なりますが、日本的な習俗というか、習俗的な色合いの濃い宗教風土にうまく合致しているように僕は思います。

 12ステップで「ハイヤーパワー」とは言いますが、日本的な「八百万の神」という考え方、太陽、月、草木一本でも何でもいい、そういうアミニズム的な感覚に近いような気がします。

 そうした馴染み易い緩やかな宗教的要素が感じられるからか、ダルクは割合、じわじわと幅広く草の根的に地域に着地してきたという感じがあります。もちろん日本の社会は「よそ者には厳しい」ですから、今も新たにダルクをつくろうとすると、田舎に行けば行くほど反対されます、むしろ旗を立ててね。

 でも、曲りなりに日本的な宗教風土にうまくマッチして、今では70カ所近くまで関連施設が増えています。まあ中には、徒弟制度のようにして一部のダルクが施設を増やしたこともあって、各地にダルクが増えました。

 それによって、いろんな回復のパターンが増えてきてはいるんですが、半面で新たな課題が浮上しています。

 その第一が高齢化の問題です。ダルクにも年寄りの人たちが増えています。しかも、単一の依存症ではなく、アルコールもあればギャンブル依存症も伴う、複合化傾向です。ほかの依存症を持つ複合的な要素が増えてきました。

 それに加えて、ほとんどの人が家族から見捨てられていますから、帰る場所はありません。入寮費も自力ではもちろん、家族も払えないし、期待できない。勢い生活保護に頼らざるを得ない。生保受給が当たり前になっている。

 最近、潮騒では他のダルクが受け入れない、はじかれちゃった人たちが集まってくるようになりましたね。車いす生活の人も受け入れています。依存症が原因で脚を失ったりしているわけですから、依存症者なんですけど、そのための新たな施設整備が求められる。余計に難しい問題を抱えています。

 その一方で、最近はどこのダルクでも病院で処方される薬に依存する「処方薬依存」が増えています。潮騒でも深刻化していますよね。薬を飲まない人はまずいない。それに軽度の知的障害や明らかに発達障害ではないか、と思われる人もダルクに登場していますね。

 果たして、これでダルク運営できるの? 従来のやり方でやっていけるのかな? って僕は素朴に思うんです。そういう深刻な現実問題に突き当たっているのですが、進藤先生の教会に来られる方にはそうした問題や傾向はありませんか?

 進藤 もともと教会は、そういう人たちが集まる場所ですから。で、ある人が、こう言いました―。

 教会の数がどんなに少なくても、生きている人はお寺ではなく教会に行きたがる。病院という所はお見舞いに牧師が来れば喜ばれるけど、お坊さんが来ると喜ばれない。「まだ、早い」と。

 生きている者の神という言葉があります。まず生を認めていく。もちろん、その先には死があるけれど、キリスト教では生を重視しているところがあります。

 語弊があるかもしれないけど、教会というところには精神を病んでいる人達が多いです。特に依存症になる人は、そういうふうになる人が多い。もちろんクスリ(薬物)の影響で重篤な病気になる人も多いわけですが…。

 それでもって、あちこちさ迷った揚げ句にダルクに漂着する。でも、自分の肌に合うダルクにはなかなかめぐり合えない。そのため今度はできるだけ自分に合うダルクを探して、あちこちのダルクをさ迷うようになる。

 それって「ダルクツアー」って言うんでしょ、各地のダルクを駆け巡る。そうして、ついには潮騒ジョブのようなダルクの終着駅、ダルクの吹きだまりかな(笑)、いわば最後のダルク(笑)にみんな集まって来る。それが潮騒の現状なんでしょう。

 

 ■12ステップを使えない人たちをどうするか?

 そんな中で潮騒は文字通り帰路に立たされているわけだ。Yの字の選択の所で今まさにどうすべきかが問われている時だと思うんです。でも、大丈夫。

 そういう時には必ず神様が必要を満たしてくださいます。僕たちもそうでした。人材がなければ人材を、お金がなければお金を、ということでいつも助けられています。知恵も与えられています。協力者も与えられます。

 逆に我々の元にしか行く場所がないというところに神様は働く、と僕は考えます。

 イエス・キリストという、人であり、神である人が人間の姿をとっておられた時には、隔離されているハンセン病患者や村八分になっている人のところに行ったんですね。

 そういう愛の精神で生きている限りは、ハイヤーパワーなのかキリストなのか、私はキリスト教の牧師ですからキリストですが、そこには絶対に神の意思が働いている。

 今、ここら辺にいるかもしれませんが、必ず神様の導きによって道は開かれます。そう思うんですね。だから心配せずに、来た人たちを見捨てないでください。もちろん何度も何度も繰り返す人には厳しく当たらなければなりませんが…。

 ―分かります。分かります。でも、実際に12ステップを理解できないような人たちが多くなっている現実を踏まえるなら、それに対してどういう接し方をして行けばいいのか? 

 高齢で、もはや社会復帰もままならない。勢い潮騒が終の棲家になっていくだろう人に、どうしたら余生を意義あるものとして保障できるのか。

 回復のプログラムに替わる新たな生きがいづくり、充実した残りの人生を下支えする施設環境をどうつくるか、とても頭の痛い問題です。潮騒ではそこら辺が今一番の課題ですかね。

 栗原 そうですよね。最近とくに感じているんですけど、12ステップは我々に希望の光をもたらしてくれる大事な回復のプログラムなんですが、目の前にあるこの貴重な宝物を理解してもらえない、あるいは理解できない人たちが増えている。

 新しい生き方を指し示してくれる、ありがたいこの道具を活かせない現実があります。これを使えない人たちにどうしたら薬物やアルコール、ギャンブル依存から脱却することを求めていけるか…、どうしてもやめにくい、何度もスリップしてしまう人たちをどうしたら救えるのか。

 潮騒は来る者拒まずで、「やめる意思さえあれば、基本的にどんな人でも受け入れる」ようにしています。結果として他のダルクよりも門戸を広く、入寮条件を緩くしていますから、どんどん入り口のハードルが低くなってどうしても困難者が増えてくる。滞留化に拍車が掛かり、よどんだ感じになってくる。その先の展望が見えない。

 この前、施設内でちょっとした聞き取りをしたんです。そしたら、もはや家には帰れない、社会に居場所がない、という人たちが全体の3分の1以上にのぼった。

 潮騒では依存症からの回復を求め、そのためにプログラムを提供しているつもりが、それをつかめない人が多くなっている。それで今度は、墓場まで心配しなくてはいけない事態が生まれています。

 まだ答えは出していませんが、そろそろ墓場も確保しなくてはいけないと覚悟しています。そうした生涯施設としてのあり方まで考えてあげないといけないのが、潮騒の偽らざる現状なんです。

 もはやステップだけでは救えない人がいる。もちろん今は依存症専門の精神科病院や先進的なダルクでは認知行動療法だとか、それを応用した独自のプログラムなんかも試みられてはいます。

 私たちにはそうした専門知識や臨床の蓄積も経験もありませんから、従来通り12ステップにこだわらざるを得ないわけですが…。

 

 ■新たに来た人たちを助けるプログラムを

 進藤 僕が感じているのは自分自身の存在を認めるとか、自分がこの世に生を受け、生かされている、生きていると思える瞬間ってどんな時だろう、ってことです。

 やはり、人の手助けをしている時だと思うんですね。ここで生活している人たちは人の世話にならなければならない人たちですけども、いつも僕たちが言っているのは「あなたがたは十分に助けられてください」と。

 そして「ここで愛をいっぱい貯えてください」と。そうして今度は「自分が他の人を助けられる立場になったならば、十二分に助けてあげてください」と。

 今はシャブをやらないことで一生懸命、ダルクに居ることだけで精いっぱいかもしれないけど、その人たちが生きている価値を見いだすのは人助けだと思うんですね。

 ダルクに居る限りは新たに来た人たちを助けるプログラムをつくっていく、というのも一つの手なんじゃないかな。

 例えば農作物を作るだけじゃなくて、入って来た人たちの面倒を見るっていうのも、あるいはルールを教えてあげるだけでもいいし、とにかく無条件に寄り添うことですかね。

 僕たちも東日本大震災の被災地である南三陸町にボランティアで行っているんですが、被災者たちの話を聞くということだけでも違うと思うんですよね。

 今、ご指摘のあった「無条件に寄り添うだけでいい」というのは何か、とてもいいヒントになりそうですね。当事者だから、同じような体験を経ているわけで気持ちが通じ合う部分も大きいと思うんですが、そういう福祉的な側面での対応や取り組みについて、潮騒ではいかがですか。

 栗原 そうですね。行き場のない高齢の入寮者に対する介護の部分は、これからますます必要とされていきますね。そこで新たに生きる希望というか、手助けをすることで与えられる喜びが職業として成り立っていったら、これは本当に素晴らしい。依存症の回復者とともに、そういう人を育成する施設の取り組みをぜひしてみたいですね。

 ―フルタイムじゃなくてもいいじゃないですか。例えば生活保護で市から12万円もらっているとして、その中で週に2、3日働くことで、それをお返ししていく。

 僕たちの教会では、それが売りじゃないんですけど、他の教会でも、例えばマザーハウスのように刑務所から出てくる人たちを受けいれているところはあります。でも、みんな生活保護を受けさせて、その中から6万円を寮費や食費として徴収しなければやっていけない。

 それもいいんですが、僕自身がかつてインターフェロンの治療をやりながら生活保護もらったんですが、埼玉だと月に13万5千円もらえるですね。

 でね、鬱(うつ)だとかなんだとか言って、このまま13万5千円もらっていた方がいいんじゃないか、と僕はその時、正直思ったんですよ。

 どうしようかな、切ろうかなって、とても迷った。でも、こうして人を助けなければいけない立場になった人間が、ずうっと国のお世話になっていたんでは何の証にもならないし、おかしいだろうと。

 やはり「切ります」と決断するまでは、そうとうな葛藤がありました。すごい闘いだったんですよ。

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