汝の道を行け そして人々の語るにまかせよ

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 で、出所して昔の兄弟分に電話して、「おい、カネ」って言ったんです。そしたら「ふざけんな。いつまでそんな偉そうなこと言ってんだ」なんて言われて、頭に血がのぼってカーッときて、もうそれで、すぐに包丁買ってね、そいつんところに行った。当然シラフじゃないですよ、酒かっくらってね。

 それで気が付いたらもう留置場の中、という状態で。これも後で正気に戻って、いろいろたどってそういうことがよく分かったんですがね。

 その時に思ったんですよ。自分は塀の中でそれなりに反省してきたにもかかわらず、何にも変わっていない、そういう自分なんだって。自暴自棄というのかな、でも死ぬこともできない。情けなかったですね。

 かと言ってもう六〇歳だから、さっき話したように世間で言えば定年退職の年齢ですよ。しっかり社会で仕事をしていれば、やっと人生の重い荷物を下ろして、そのおつりをもらう段階でしょ。ところがこっちは真っ裸のまま、世知辛い世の中に放り出された。

 

 ■「3年間はダルクで辛抱してやろう」と決意

 とにかく私は、ヤクザ一筋の人生だったから仕事らしい仕事をしてこなかった。これといって、生きて行くのに役立つノウハウも手に職も何もない。にもかかわらず、自力で生きていけと荒野に一人ポツンと立たされたわけです。

 ポン中のアル中ヤクザが、どう考えたって社会の中で自分一人の力では生きて行けない。クスリもダメ、アルコールもダメ、それを悟った時に、もう「俺には生きて行く場所はもう、ここしか無いんだな」って。進藤先生流に言えば、腹を括ったからこそダルクで救われたんでしょうけど。

 それなんで何とかダルクにしがみついて、ここで「よーし。3年務めてきたんだから、3年間はダルクで辛抱してやろう」って決意した。残りの人生考えたら、もう二度と刑務所には戻りたくない。その時に自分なりに腹を括ったんでしょうね。そこから多分、今につながって来たんだ、と自分の「底つき」の自覚を含めて、振り返ってそう思います。

 だから一番の根本はね。三年、世間でいう「石の上にも三年」ですよ。私は自分の体験から、この言葉にはそれなりの意味があると考えています。

 今も施設を簡単に見限って出て行こうとする仲間には、「ダルクが増えて、確かにいろんな回復のパターンを選べるようになったけど、どこ行っても同じだよ。最後は施設じゃなくて自分自身が問題なんだから」「だからもう一度、ここでやり直してみないか」って、よくアドバイスします。

 自分もそうだからよく分かるんですけど、ヤク中、アル中は怠惰で甘えん坊で、いい加減な人たちが多いんですよ。ずる賢くて悪知恵にたけている…。そこまで言うと角が立つかな。嫌味に聞こえるかもしれないけど、実際そういう側面は否定できない。

 見方によっては、人間誰しもダメな部分、マイナスの側面を持ち合わせているかもしれないけど、ひときわ「易きに就く」というか、安易な傾向に流れる点でヤク中、アル中は共通している。みんな自分を厳しく律しきれない。

 そりゃあ、ある面で言えばみんな褒められたことなんて、まずない人生ですからね、性格がゆがむのも、ある意味仕方がない。小さい頃から家庭にも恵まれないで育っているから。

 虐待、いじめ…、ヤク中、アル中はみんな子ども時代に悲惨な体験を経てますよ。一人前に認められた経験をもたないから、当然ゆがんだ人生となる。世間からすれば、アル中、ヤク中なんて意志の弱いダメ人間、社会の落ちこぼれ、ばかりですからね。

 だからこの対談でも、後でスピリチュアルの問題がテーマになると思うんですけど、最終的には霊性の部分というか魂の回復、それが一番問われるんだと私は思います。

 だって、ダルクでそれなりに一生懸命プログラムに取り組めば、ある程度クスリは止まるし、アルコールも飲まないようになります。私の経験からもね。でも、それだけじゃ本当の回復とは言えない。それだけでは生きるビジョンが見えないから。

 魂の一番奥深いところで、謙虚に人間性を取り戻していく。その作業が一番重要なんだと私は思います。そこをきちんと押さえないで、他の障害者問題一般と同じように考えると、依存症の問題は解けないんじゃないでしょうか。

 だって回復したように思えても、この病気は簡単にスリップしますからね。裏切られてばかりの現実に戸惑ってしまう。挙げ句には依存症に悪感情を抱きかねない。なんでこんなに面倒見てやってるのに、この人たちは真面目に応えてくれないんだ、とね。

 とにかく依存症の人たちを倫理的な視線だけでとらえたり、こらえ性のない箸にも棒にも掛からない、どうしようもないやつらだ、と否定するのは簡単です。でも、本質的にそういう病気なんですから、これは。もう、どうしようもない。

 だから近藤さんが言うように、周囲の人たちがどこまで「いい加減さ」を認められるかが重要なんです。そういう意味では、ものすごく周りの忍耐力が問われる病気なんですね。私はそう思います。

 

 ■周囲のお膳立てが逆効果になることもある

 進藤 僕もね。ここに来る人で、みんな「やり直したいんです」とか、「ここで就職したいんです」とか、あるいは「シャブやめたいんです」っていう気持ちは同じだと思う。その言葉に嘘はないと思う。一応みんな面接してね、それはよく分かる。その気持ちはよく伝わってきます。

 僕は宗教家であるけども、「信仰とかそういうのは後からついてくる」という立場なんです。だから、とにかく「今やり直したいのかどうか」「本気かどうか」を見てるんですね。

 まあ、できれば「ヤドカリ(宿借り)くん」みたいなのは避けたいな、と思って。最後は、本人にヤル気が無ければ本当にダメですよ、いくら周囲が熱心にお膳立てしてもね。むしろ逆効果になることだってしばしばです。

 ここの教会でも、今まで何人か途中リタイアしたケースはありますよ。私から「申し訳ないけどちょっと出てってくれ」と言って、二人くらい退寮させたこともあります。

 言うことを聞かない、ルールを守んない。門限を守んないとか、要するに生活する上で基本的なことができない人たちですよね、依存症の人たちは。つまり、ここでの生活に「従う気が無い」。従う気が無いってことは「やり直す気が無い」ってことだもんね。

 言い換えれば、本気度が足りないってことだね。だからこれまで二人に出て行ってもらいました。一緒に歩んでも、一回や二回じゃなくて何回にもわたって野放図な生活態度が続いたんで、「もうどうしょうもない」という結論になった。そういうことで退寮を命じたこともありました。

 まあ、みんなね。初めの気持ちは嘘じゃないと思うの。それを僕たちは大切にして育ててあげたいんだけども、育てる中でね、一人また一人ってね、そういう怠惰な生活態度を改めないやつが出てくると、腐ったミカンじゃないけど全体に影響してくる。ここは教会だから厳しく律しなければいけないわけで、もちろんそれには僕自身が率先してリードしていくわけだけども…。

 結構ほら、アレじゃない。ダルクもそうだと思うんですけど、僕がすごくいいなと感じているのは、ここで生活をして自立をしていった人たちは、ここに生活をしていた人のことをやっぱり面倒を見ますよね。

 そして、そういう関係をすごく大事にしてくれますね。で、僕と同じような立場でここに来た人たちを、どうにか導いてあげようとか、助けてあげようとか、っていう思いになるんじゃないですか。

 それがやっぱりね「助けられたものは助けていく」っていう、チェーン式というか、つながっていくというのはね、この僕たちのスピリットであってさ。さっき栗原さん「どん底」って言ってたですけど、みんな本当に「どん底」だからここに来るんですよね。

 要するに家族がいて、兄弟がいてさ、まあ家族がいなくても助けてくれる仲間や友達がいてさ。みんなそうした環境にはまったくないから、赤の他人で面識も無いここに来るわけでしょう。

 

 ■褒められれば、みんな「頑張ろう!」となる

 でね、そういう中で立ち直れる人と立ち直れない人の差って何が一番大きいかっていうと、誰かが言ってたんですけど「手放しで喜んでくれる人がいるかいないか」なんですね。

 つまり自分がね、自分一人でつまづきから立ち上がったとしても、そりゃあ自分の過去のことから知ってる人だったら「やったね」「よく頑張ったね」って言って喜んでくれるけど、誰もね、過去の苦労や大変だった状況を知らなかったら、そのままでしょう。

 何ら評価されないし、認められもしない。人間ってどこかで承認欲求があるから、認められ、褒められれば、みんな「よーし、もっと頑張ろう!」とかなるわけでしょう。

 そういう環境にいればいいけど、どっか違う所に行ってさ、そこしか知らない人たちは「ああ、そうですか」「それは良かったね」みたいな鼻で木を括るような反応で、結局そこでも疎外されてしまう。

 要するに過去も知りながら、諦めずにちゃんと見ててくれる人、そういう温かく見つめてくれるような社会環境があればいいんですよね。本人が頑張って「どうだ、見たか。俺は社会復帰したぞ。俺は依存症から立ち直ったぞ」ということを見てくれて、「ああ、良かったね」って言ってくれる人、仮にそういう人がいなかったとしても、僕たちは「手をたたく」人間関係をここで作ろうと。

 もちろん家族や肉親、周囲はヤク中、アル中の本人に何度も何度も裏切られているから、「もうアンタには手は貸さないよ」っていうふうに、みんなから匙を投げられてここに来ている。家族からは縁切りされ、もはや帰る場所はない。もちろん故郷にも戻れない。

 だから家族が無いんだったら、「僕たちは神の家族ですよ」と。「お前らがズッコケれば僕たちは悲しいし、社会復帰して依存症が治れば僕たちはうれしい」というような立場を取る。それが本当の教会だと思うんですよね。

 今のお話は全くダルクと一緒ですね。「罪を憎んで人を憎まず」じゃないですけど、依存症という病気はダメだけど、本人の人格まで否定したら回復なんてあり得ない。それとアル中、ヤク中でも根本で、その人間性を否定しない。どんな人だろうと回復の可能性を信じてあげる。

 そうして、助けられた人が新しい仲間を助けていくっていうのは、ダルクで言えば「先行く仲間が後から来る仲間を導いていく」「回復を手助けする」というスタイルですけど、まさしくダルクの活動の原点、「命のリレー」ですよね。

 さらに言うなら、いくら過去に前科があろうと、スリップを繰り返す人であろうと、色メガネで見ない。過去は一切問わずに回復を目指す同じ立場の仲間として、掛け値なしに等身大で、その人をとらえる。

 「手放しで喜んでくれる仲間がいる」というのも、ダルクの在り方の大事な要素ですよね。社会的な属性や立場、職業、出自、犯歴、性差、身分…一切差別はしない。みんな依存症の回復を目指す同じ仲間なんだ、と。その徹底した共感の眼差しはすごいですよね。

 そこには政治家のお偉いさんも社長も、ホームレスもへったくれもない。ダルクの施設長だって、他のメンバーから比べて少しだけクリーン期間の長い仲間にすぎない。決して偉いわけでも何でもない。

 よくフォーラムなんか行くと、もう顔を見るやいなやみんなハグして、ちょっと僕はあれには抵抗があるんですけど…。その強烈な仲間意識はとてもうらやましい半面、僕は孤独が好きな方なんでちょっと閉口しちゃう部分がありますけど。

 

 ■「神の意思による喜びの分かち合い」

 栗原 あれはね、「神の意思による喜びの分かち合い」なんですよ。そう思ってるんですよ、私は。

 だから進藤先生の教会での対応と、ダルクにおける対応は基本的に同じと考えていいわけですね。回復のスタイルというか、その構造的な在り方については栗原施設長、どうなんでしょうか。

 栗原 やはり同じと考えていいんじゃないでしょうか。全く同じと言っていいですよね。進藤先生のおっしゃられたことはね、その通りだと思います。

 いつも私の中で無条件の喜び、優しさ、思いやり、自制、忍耐、謙遜、誠実…、なんていう言葉が飛び交うんですけど、これらは「神の意思だ」というふうに頭の中に叩き込んで、それに近づけるように日々努力しよう、というふうにね。

 そういう人間的で素晴らしい感情を表す言葉の生き方を、自分なりに絶えず日々の生活の中で模索しているんです。まあ、実際にはなかなかうまくいかないですけども。

 だって私自身の今の生き方が、過去の意思の全く真逆な生き方になっているわけですから。いわば人生の生き直しですよ、私にとっては。これ自体が奇跡としか言いようがない。

 ダルクで回復して手に入れた新しい生き方によって、日々もたらされている「今日一日」のギフト(神からの贈りもの)に、私自身が素直に新鮮さを毎日感じているんですよ、これを生かさない手はない。

 ダルクにつながった当初、自己中心的で利己主義で、人に対してまったく配慮のできない人間が、まあ、私自身のことですけど、それが当たり前で生きてきた過去が何十年とあったわけですよ、60歳までの長い負の人生が。

 二〇代からね、いや十代からかなあ。それが今、全く真逆で生きられているわけで、ものすごい何か希望っていうか、生きる希望っていうか、自分の命のありがたさを毎日実感できている。

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