汝の道を行け そして人々の語るにまかせよ
「ああ、この命、やっぱり神様に与えられてるんだ」というふうに感じてね。これって奇跡以外の何ものでもないんです。私たちが信じているハイヤーパワーのスピリチュアルな部分、魂の根源であり、その霊的な力を実感してます。
その辺から今の「生きやすい」人生に感謝しているというか、何だろうねぇ…、うまく表現できないけど、やっぱり「神の意思」でしょうかね。それを常に求めている自分がいることに、改めて気づいているんですね。
■何度でも失敗を認めるダルクは宗教を超える?
―その、何て言うのかな、ダルクとか教会っていうのが、この世知辛い世の中にあってはとても重要な意味と価値を持つということの証左ですよね。ある意味今の時代において、ダルクや教会はとても大切な居場所ですよね。生きることにつまづいた人たちにとっては。
だって、どう考えたって今どき「人はなぜ生きるか」「どう生きたらいいか」なんて青臭いこと、まず考えないでしょ。「そんな面倒なことして、カネになるの?」って言われるのがオチですよね。今の世の中すべて損か得かでしょ。そんな哲学的な命題を日々、みんなが向き合って実践的に考えている場所なんて、どこにもないわけだから。
僕はひねくれ者だから、近藤さんのアレゴリー(寓意)に満ちた逆説の言葉が好きなんですよ。代表的なのが、ダルクにつながった人たちに「クスリをやめることをやめろ!」というサジェスチョン。徹底して自分の無力を認めることを、近藤さん流にアレゴリカルに言ってるんだと思うんですよね。
今の日本の社会って本音が通じないというか、建前ばかりの社会でしょう。そこにストレートに釘を刺してもはじかれちゃう。だったら、やはり直球よりもカーブの方がじわじわと効くんです。この微妙なさじ加減は近藤さん一流の表現だけど、結構的を得てますよ。
だって、今の世の中って目詰まりで、ものすごく競争でギスギスしているでしょう。いろんな意味で遊びや余裕を失くしている。依存症は既存の医療領域からこぼれ落ちる狭間の病気だから、そうした社会の矛盾を鋭く反映して、この病態に集中しているように僕は思うんです。いわば時代の病理ですよね。
こと依存症に関しては、専門とされる精神科医も無力ですよ。断薬で何とか表面的に対応できるだけ。それが自助グループではなぜか回復できる、その実績はともかく有効性は認めざるを得ない。
そうした伝統ある自助グループの考え方やスタイルを、独自の形にブレンドし直して日本の風土に定着させたのがダルクだとすれば、もっとみんながダルクに注目してもいいと僕は思います。
だって、日本の社会って昔から一度失敗しちゃうと「もうそれで終わり!」っていうか、なかなか立ち直れない、そういう社会ですよね。でもダルクは、教会もそうでしょうけれども、何度でも失敗を認める。
その徹底性にはある意味、宗教を超えるほどの根源的な力強さを僕は感じます。その一方で、依存症の回復には「曖昧さやいい加減さも必要悪だ」として認める、その懐の広さ。身びいきかもしれないけど、ダルクにはそうした寛容な基本姿勢がありますよね。
だからかな。最近ダルクにつながった人たちが滞留化していて、本来目指す社会復帰の目的がどんどん遠のいている。もちろん、ある程度ダルクで回復しても就労が難しくて、社会に出られない問題が大きいんでしょうけど。
でも僕は、ダルク自体の居心地の良さも逆な意味で色濃く影響していると思うんですよ。仲間を思いやり、いい意味での“いい加減さ”を認め合う関係がね、それが裏目に出ている部分もあるんじゃないかと。
ただ、どうなんでしょうか。その、潮騒なんかでも最近、例えば「仮釈(放)狙い」で入ってきた人が増えたりとか、アリバイ的に施設を利用されているみたいな傾向がありますよね。
ちょっと僕なんかの第三者の目から見ると、栗原さん、あまりにも人が良すぎるのかな、って感じるんですけど。少しホームレスだった人とか刑務所からつながってくるメンバーに対しては、もう少し対応を厳しくしてもいいんじゃないですか?
自由人の生活が長いホームレスの人たちは規則を守るのが苦手で集団への帰属意識が弱いですし、受刑者だった人は逆に規則に順応し過ぎて自分の判断で動けない。指示待ち人間が多いですよね。それでいて、どちらもこらえ性がないから施設に定着しにくい現実を感じます。僕の偏見ですかね?
■みんな塀の中での決意に嘘はない
栗原 いや、実際そういう傾向があります。そういう意味では私にも指導者としての厳しさが必要かもしれないですね。だけど、そこで思い当たることがあります。
私は施設を立ち上げてから、少し余裕が出てきた頃から各地の受刑者と文通をしているんですが、その手紙の内容ってのは、私も中から何度も発信したことがありますけど、今みたいに自由じゃなかったですけどね。親族にしか手紙を出せなかったけど、その中で書いたことは真実なんですよね。
嘘じゃないんです。今度こそ自分は真人間になって人生をやり直すんだ、と。薬物やアルコールを完全に立ち切って、しっかり更生していく、と。今まで迷惑を掛けっ放しだったけど、今度こそ本当に立ち直る、とね。
よほど世をすねた受刑者じゃない限り、みんな塀の中での決意に嘘はないんです。確かに「仮放狙い」もあるけど、たいていは真実の言葉なんです、その時に書かれた手紙の文面は。
だけど社会に出たときに、その決意はもろくも崩れていく。全く環境が、自分を取り巻く環境が違うから、矯正を誓う決意が空回りしてしまう。私からすれば立ち直ろうとする決意を砕いてしまう、社会環境が問題なんだろうと思う。
だから、私の経験からしても「くれた手紙は本心なんだ」と断言できます。ただ社会に出てきたら、それが現実には実行できない。だから少しぐらいのことは許してやんなきゃいけないのかな? って思ってしまう。そこは進藤先生からすると甘ちょろい部分ですかね。
進藤 うーん、こうしたらどうでしょう。僕たちは有期刑の場合はね、まあほとんどがそうなんですけど、基本的には「満期で出てこい」と言います。
満期で出てきて本当にそれで、例えばシャブ中だったら塀の中では強制的にできないわけだし、満期だろうが仮釈だろうが、本当にクスリをやめたい人間、社会復帰したい人がここに来ればいい、と。
宿借りじゃない本心からなのか、それとも仮釈目的かどうかってのは、僕たちは神様じゃないから分かりません。その人の心の中までを見られないから分からない。ここに来た以上は僕たちはサポートするよ、と。
だけども仮釈目的で僕は(身元)引受にならないよ、って。僕はそういうスタイルです。まあ「四年でも五年でも、六年でも、満期で出てこい」と言います。
そうして満期で出てきて行き場が無かったら、僕は「ここで寝ていいよ」と。仮釈だってここに来てね。でも僕は仮釈のために引受にはならないよ、と。僕はそういうふうにしています。だっていつ出てきても一緒なわけですから。依存症を克服するという意味では本質は同じですからね。
もちろん受刑者本人としては「少しでも早く出たい」という気持ちはたくさんあると思うんですよ。でも、実際には早く出たからっていいわけじゃない。
そりゃあ、中には早く出所した方がいい人もいますけど、たいていはそうじゃないケースの方が多い。仮釈があろうがなかろうが、ここに来る、目標を立ててここに来る。そういう姿勢が大切なんであって、実際に来てからの方が問題でしょう。なので僕は、そのようにしてますね。
栗原 ウチも受刑者との手紙の活動はもう四、五年になりますけど、だいぶ今先生の言ったように、だんだんそっちの方にシフトしています。仮釈目的でない、満期でもいいから、と。
それで、たまにアンケートを取ったりしてますけど、なるたけそっちへ、仮釈狙いでない「自分が回復したいんだ」というところを引き出すようにしてます。
■謙虚な感謝の気持ちが無ければ依存症なんて…
―進藤先生、そういう意味では刑務所へのメッセージというのは大きな意味がありますか?
進藤 そうですね。その、刑務所にいる人たちの唯一の外部との交通というか、なんでしょう。一人じゃないというか、やる気の意義を引き出させていくためのツールではあると思うんですよね。
いつもこう手紙が来て、こういうふうなやり取りの中で、やっぱり諦めさせないというか、忘れさせない、というか、それって本当に大変な作業ですけどね。とてもきつい仕事ですよ。
僕も近くにいる支援者に手伝ってもらって受刑者の宛名を書いてもらいながら、僕が内容を書いているんですが。でも何十通ってあるからもう二、三行ですよ、実際に書けるのは。長くても五、六行、それを書いて、後はパンフレットを入れて郵送する。
でも、何が大切かっていうと、その送ってくる手紙を無視しないことなんですよね。内容が深いか浅いか、それは問題じゃない。文字が多いか少ないかじゃなくてね。きちんと返事を書いてあげること。でも、そこにも落とし穴はありますけど。
実際に、こういう人がいました―。
ある受刑者なんですが、「たったこの三、四行の手紙で私はガッカリしました」って書かれてある。「ああ、そうですか」って、僕はそれ以上手紙を出しません。そういう人はね。手紙を送った相手が赤の他人だから、顔も見たこと無いんだから、という認識がどこまであるのかなって思ってしまう。
そりゃ依存症の人は自己中心の権化かもしれないけど、塀の中にいて赤の他人で顔を見たこと無い人から手紙をもらったなら、その相手にもっと素直に、謙虚な態度で向き合わないとね。たった二、三行でも、そうしないとコミュニケーションなんて成立しないでしょう。
僕が逆の立場だったら「三行、四行でも書いてくれてありがとう」って返事の手紙を書くけどな。そういう謙虚な感謝の気持ちが無ければ依存症なんていう困難な病気からは立ち直れませんからね。
ハッキリ言って、そういう人は私が何十通も書いているのを分からないのかもしれないけど、そういう感謝の無い、その態度を見極めるってとこですかね。まずはそこから始めないと。そうしないと回復なんて見込めませんから。
それはもう、僕もこういう人助けをして十年近く経ちますけど、その中でやっぱり信頼が失われて、何度か傷ついて、いらぬエネルギーを使って失敗してきた中でね、自分なりの知恵というか、そういうのはありますね。
―潮騒のニュースレターに手紙を掲載させて頂いているんで、僕も受刑者の皆さんからの手紙は読ませてもらう機会があるんです。その中で今どき珍しいと思うのは、やはり「言葉の重み」っていうんですかね。
これほど世の中にいろんな言葉が氾濫して、ものすごく言葉が軽く消費されている時代に、今どき「言葉によって救われる」っていうことがあるってことの驚きなんですよ。
僕らは毎日、何気なくあれこれ言葉を使ってますけど、これほど人にインパクトを与える、「人を救える」言葉ってのはまず体験できないと思うんです。
僕も昔、キリスト教系の大学で勉強したもんですから、一応は聖書なんかもちょっとだけ読んだりして、まあ僕の場合は、あくまで物語としてですけど、信仰の書としてはどうしても読めなかったんですけど…。
■聖書の「ペテロの否認」場面に言葉の重み
で、思い出すのは、救世主イエスがゴルゴダの丘に向かって処刑される、ユダの裏切りによってですね、重い十字架を背負わされて行くシーンですね。その時に弟子のペテロが「お前はイエスの仲間じゃないか」と端女(はしため)に責められる。
すると、ペテロは自己保身のために「そんな人は知らない」と否認する。その時にニワトリが鳴いて、イエスの「ニワトリが鳴く前にお前は三度、私を否定するだろう」という予言の言葉を思い出して、さめざめと泣くという、あの有名な場面(いわゆる「ペテロの否認」)を思い出します。
あれなんか言葉の重さを象徴するシーンですよね。自分がそれを認めれば自分も死刑になるわけで、そこでは言葉が死と同じ重さを持っている。結局、ペテロは沈黙するわけですけど、その沈黙も重い。あの部分を僕は、そんなふうに受け取ったんです。
もちろん違う解釈もあるでしょうけど、僕は言葉は命と同じように重いんだ、沈黙も重いんだ、置かれている環境によっては存在、つまり命と同じなんだ、と教えている―そう思いました。そこまで人間の内面の複雑さを掘り下げて描く聖書の世界って、すごいなあって素直に思ったんです。
だから、ある意味極限体験を経て集まってきたダルクの持ってる言葉とか、進藤先生だと書かれている本に共感する人が多いんだろうと思うんですけど、言葉の重さですね、改めてそのあたりの思いってありますか?
進藤 もちろん僕たちが掛ける言葉は重いし、とても大事だと思います。それと同時に、その人に向き合う姿勢で、人は本当に変わっていくとも思うんですね。
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