汝の道を行け そして人々の語るにまかせよ
やはり言葉と同じように姿勢ですかね。相手に向かっていく姿勢。悪い姿勢とかじゃなくて、本気度というのかな。こちら側が本気で真剣に相手に向き合う、基本はそういうことだと思います。
さっき言ってた刑務所の中に、これだけの豊穣な本物の言葉があるってことに、僕らはもっと真剣に耳を傾ける必要があるだろう、と。同じ言葉であっても環境によってね、深く、強く受け止めてくれる人たちがいると思うんですよ。
刑務所の中ってのはね。誰とも交流できない中で、みんな見捨てられた状態の中で、赤の他人のダルクさんがウチに優しい言葉を掛けてくれる。こんな嬉しい、ありがたいことはないですよ、心底こころに響くんですね。
人間の温かい、愛の言葉を必要としている人に、希望というか、励ましというか、本当に必要な言葉を掛けてくれて、しかもそれを「ありがとう」って言ってくれる。
■刑務所に入ったことのない人は同情が先に立つ
でも、その半面で言葉はとても怖いものでもある。いわば、それを使う人によっては両刃の剣となる。彼ら受刑者もですね、「手紙」ってのはね、ものすごく人の心を盗むんです。盗むのは簡単…。
受刑者伝道の中で、手紙のボランティアが何人もいて、僕たちの他にもいろんな団体が「受刑者を何とか社会復帰させよう」とコミュニケーションを取っています。だけど、やっぱり刑務所に入ったことのある人間と無い人間では、ものすごく違うんですね。
と言うのはね、入ったことのない人は同情ばかりが先に立っちゃう。「かわいそう」とかの同情ばかりが先行しちゃって、実は「犯罪者の本当の怖さ」を知らない。っていうか、世間の人たちは犯罪者がどれだけスキあらば、同情してくれる人間をどれだけ利用できるか、お金を振り込ませるか、利用できるか、ってのを考えていない。善人を欺くのなんて、彼らからすれば簡単なんです。
ある人は受刑者から八十万円をだまし取られました。「ガンの治療をしなければいけない」と手紙に書いてきてね。ガンの治療をするのにお金が掛かるわけないんだよ、しかも刑務所の中で。
ある人は手紙で「眼鏡が欲しい」って懇願して、二十人ぐらいに「六万円掛かります」って声掛けて、五人からお金をだまし取りました。僕たちにはすぐピーンと来ることなんですけどもね。
でも、逆に言えば僕たちもだまされるケースがたくさんあるってことですね。いくら塀の中での体験が長くても、それは見極めの中で、実際に会わなければ、みんな本当に分かんないものなんです。
で、僕がもらった手紙の中に、ヘブル語だのギリシャ語だのと、原典から聖書を読むようなことを書いてきたやつがいました。
「ああすごい。こいつはただのヤクザじゃないな。ただのポン中じゃないぞ」と思ってたら、何のことはない。出てきて一カ月後にはシャブで捕まったり(笑)、とかね。それは人間だから本当に会わなきゃ分からないところがあるし、だからと言って実際に会ったからもう安心、だまされることはない。そいう保障もありません、僕の経験からも。
このあいだもね、実はここの教会で一カ月ぐらい寝泊まりした人にみんな根こそぎ持ってかれて。結局このプロジェクター用のカメラも含めて何やらかにやら一式全部買わなきゃいけない、っていう経験をしたばかりです。
でも、その人だってここに来た時の気持ちは嘘じゃないと思うんですよ。その時は、自分は本当に覚醒剤をやめようと決意して来たんだと思います。
だから僕は、それを受け止めて、抱きしめて育ててはきましたけどもね。まあその犯罪者との境界線っていうんですかね、僕たちがどう関わっていくか…、それは本当に難しい問題です。
■僕たちは神様に委ねられている
―では、ほど良い関係を保つためにはどうすればいいんでしょうか。
進藤 例えば栗原さんが私に、「刑務所を出たばかりで困っているんで、十万円貸してください」と言った、そう仮定しましょう。で私が「十万円は貸せないけど、一万円はあげるよ」「これしかできないよ」と切り返します。それがいい関係ですよね。貸し借りをしない関係っていうんですかね。
それと同じように境界線ってね、「良くするために助けない」っていうこともあるわけですね。僕たちが大切にしているのは、僕たちはサポートしてあげることはたくさんある。
ここに住まわせる、就職するまではご飯のおかずやいろんな食べ物を与える。でも、それとは別にしっかりと自分でやるべき領域があると思うんですよ。神様の領域と人間の領域があるように…。
僕たちも「サポートする側の領域」と「自分自身がやんなきゃいけない領域」には配慮しなくちゃいけない。ここから役所に行って、自分の足でハローワークに出向いて、職探しの活動は自分でしなければいけないよ、と言います。
いろんなこと、ここでご飯を食べること、ここで寝起きすること、友だちをつくること…、それらはやっぱり自分の領域じゃないですか。
僕たちは神様に委ねられている。頼むこともあるけれども、自分自身の体調管理とか、シャブをやらないとか、そういう自分自身を管理するってことは、あくまで自分自身にしかできない。自分の思いというものも、思いとか気持ちってのも、自分自身でしかコントロールできない。
後は、さっき言ったように他力によって「できないことを認める」、“どん底”を認めながら「ここに神様働いてください」って言うほかない。他力にすがっていく、そういうことしか僕らにはできないわけですよね。
だから僕は「やってください」「これしてください」って言って、僕たちがやっていいことと、逆にやってあげて悪いこと、助けてあげて依存症の本人の回復の足を引っ張ることってたくさんあるじゃないですか。
まあダルクさんにも、いっぱい借金抱えた人たちがたくさん来ると思うんですね。ギャンブル依存で結局借金つくって親が肩代わりして払って、また借金作って親が払っての繰り返しっていうケースも珍しくないでしょう。
そこで結局は親が払うことで、どんどん依存症を悪化させてきた。それと同じで僕たちも大事なのは「してあげること」と「してあげちゃいけないこと」ってあると思うんですね。
■ダルクの「タフラブ(耐える愛)」の精神で
―どうですか、栗原施設長。その「助けない判断」「あえて手を差し伸べない」い判断って、すごく参考になりますね。
栗原 そうですね。
進藤 東北の方の人だったんですけど、僕は「人がいいね」って言ったの。あるギャンブル依存の人がね、出所した先でギャンブルやっちゃって「お金が無いから迎えに来てください」って三十㌔も離れてるところから電話してきたらしいいんです。「電車賃も無いんです」と。
僕だったら絶対に迎えになんか行かないですよ。「一晩野宿してでも、交番に行ってでもお金を借りてここに来なさい!」って言い返します。でもって「後で金返しに行け」と。僕は絶対に迎えに行かないですね。三十㌔離れてたって、「何とかして帰ってくればいいじゃん。自分で使ったんでしょ」。僕は厳しいかもしれない。
まあ百歩譲って、もしかしたら一回はやるかもしれない。でも、二回目は絶対に無いですね。そういうことですね。僕から言わせると「人のいい」その人はギャンブル依存の当人に、三回やっちゃったみたい。迎えに行ったらしいのね。僕は「人がいいねえ。優しいねえ」って言ったけど。
でも、その助けてもらった人は頑張って今は社会で働いているみたいなんですけどね。僕はもう「その人はたまたま良かった」だけど…。
批判じゃないんですけど、あんまりね。そういう過剰なサポートでもし…、気づけばいいですよ。でもそれは、良い方に転ぶか悪い方に転ぶか、本当に「賭け」じゃないですか。
僕は厳しくする方だけど、逆に愛情をリクエストして「くれー、くれー」って言ってる人に対して、もしかしたら愛情を与え続けなければいけないのかもしれないし、それはどうでしょうねえ…。判断が難しいですねえ。
栗原 私なんかダメだね。何回でも助けちゃうから。人には言うんですよ「突き放しなさい」って。家族会なんかでは特にね。でも、そう指導しているのにもかかわらず、何回でも迎えに行っちゃう。やっぱり自分が七回目にして、やっとダルクに助けられたっていう体験があるからかな。
七回目の出所でやっと目覚めたというか、うまくタイミングが合って救われたという体験があるからだね。そこまで辛抱してくれた、っている恩義を周囲に感じてしまうからかなあ。そこら辺までは辛抱しようと。確かにそれだって、運よく結果オーライだから言えるんだけどね。その判断はほんとに難しいですね。
―それこそ、ダルクで言うところの「タフラブ(耐える愛)」ってやつですかね。手を貸さずに見守る愛。それ必要ですよね。依存症の場合はサポートする側も共依存に陥り易いですからね。大事な指摘を頂きました。
それでなくても日本は一億総共依存の社会です。何かと言うと世間体を気にするし、依存症に対しては「親の愛情で治せ」ですからね。愛情で治るんなら、それこそ病院やダルクなんて必要ない。
とにかくこの国は浪花節的な親子の情愛が美徳とされる社会ですから、いろんな問題を家族が抱え込む。そうしてどんどん矛盾を大きくしてしまう。依存症を悪化させるだけ悪化させて、どうしようもなくなってやっとダルクに救いを求める。
それこそ潮騒でも毎月、家族会で「突き放し」を学んでいるようですけども、こと依存症の問題に関しては世間の常識に囚われずにやることが重要ってことですね。
進藤牧師との対談③
■依存が怖いのは依存体質になること
―ところで進藤先生、そもそもダルクで実践している「12ステップ」についてはどうお考えですか?
進藤 僕も全部やったわけではないのですが、ダルクの人たちが持ってくるので関心を持っています。あれ必要だと思いますよ。よくできていると思います。
仏教的にいえば「他力」となるのでしょうが、先ほど栗原さんが指摘されたように、無力を認めるということは、自分のどん底を認めることで、自分にはできないということ、もっと言えば自分の根本を見つめることだと思います。依存症の治療だけでなく、今はいろんな分野で使われていますよね。
―いわゆる12ステップグループという形で括られる動きですね。
進藤 うまくできています。キリスト教でいえば12というのは12子徒(弟子)で、選びの数字なんですね。それはともかく見えない力ですね。
私はキリスト者ですから、あの中で示されているハイヤーパワーはジーザス、つまりイエス・キリストだったんですよ。もともとはね。より明確言うならば、ダルクなんかで使われる12ステップは「精神分野の救い」ですよね。
宗教的だと言われるかもしれないけど、それは宗教ではなくて、厳密にいえば霊の部分の救いだから、信仰というレベルで見れば、もっと確かな救いにつながってくるんではなかろうかと思いますね。
だから宗教の話だとして毛嫌いしてくれても、それはそれで僕は構わない。それはチョイスだから。ただ「私はキリストによって救われましたよ、どうしますか」っていつも自分をさらけ出しているんですが、それを強制はしません。
だから12ステップの中のハイヤーパワーというのはよく分かります。それが僕らにとってはジーザス、イエス・キリストという話なだけで、回復を目指すスタイルとしては同じ構造なんですね。
著者の進藤 龍也さんに人生相談を申込む
著者の進藤 龍也さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます