【男が道に迷ったら】とある石油会社の重役に、利根川で鯰を釣りながら教わった人生の指針。
「ふわっとやるんよ、ふわっと!」
伊波さんに言われるがままに、釣り竿を振るが、なかなかうまくできない。
「ふわっとやるんよ、ふわっと!」
「手元ばかりを見ないで自分が投げ入れたい水面を見て!」
不器用な僕に、伊波さんは飽きもせず指導をしてくれた。
どうにか水面に糸を垂らしていると、30分くらいで当たりが来た。
ズシンと重い手応えが竿を伝って手のひらに響く。

伊波さんの誘導に従って、緩急をつけながら魚を手前に引っ張っていく。桟橋の下に伊波さんが網を用意している。竿を引っ張りあげて......その網の中へ魚の身体を放り込んだ。
「ほれ!」
伊波さんは網を上げて僕に差し出してくる。
かかったのは小さな鯰だった。
僕は恐る恐るその中に手を入れて、鯰の身体を掴む。
ぬめりとした粘液の感触。指が傷つきそうな硬いエラの触感、生暖かさ。
自分以外の生き物に触れたのは本当に久しぶりだという気がした。


鯰は針を飲み込んでいた。吐かせようとするが、針は内蔵の奥深くまで入っているようで取れない。
伊波さんに手渡すが苦戦している。鯰の元気がなくなってくる。

伊波さんは鯰を川に放った。鯰は泳がず、そのままとぽんと濁った川の底に沈んで見えなくなった。その沈みゆく身体を二人で見送った。
翌日もまた、伊波さんと肩を並べて釣りをする。
伊波さんは翌日も暇だそうで、夕方にまた会う約束をして、僕は桟橋に訪れた。
誰かと約束をするのは久しぶりだった。
おずおずしながら声をかけると、伊波さんは「釣れたぜー!」と、子どものように瞳をきらきらさせながら振り返った。


伊波さんはニコニコしながら桟橋の下を覗きこむように促す。見るとそこには、丸々と太ったこぶりな鯰が3匹、網の中をぐるぐると旋回していた。伊波さんは「ドヤァ!」という効果音が聞こえてきそうな顔をしていて、思わず笑ってしまった。
伊波さんによると、この1ヶ月ほどは関東近辺の下見でぐるぐる回って、たまに本社に報告に戻るのだと言っていた。





ワゴン車を開けて見せてもらうとそこには、食料が入ったクーラーボックスや釣り道具や、着替えなどの日用品や寝袋が詰め込まれていた。車中泊、という言葉は知っていたが、それを実際にやっている人と出会うのは初めてだった。


そうか、と僕は気がついた。
伊波さんに親近感を持ったのは、この自由な雰囲気だったのだ。
夢を志して就職活動を放棄。僕は旅人になった。
小説家とミュージシャンになることを志して就職活動を放棄した僕は、大学最後の年の夏を、バックパッカーとして過ごした。タイ、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア、バングラデシュを4ヶ月間かけて歩いた。
「日本以外の生き方」を知りたかった。
大学を卒業したら、どんなにやりたいことや好きなことがあっても就職しなければならない。そうゆう、拘束力というものが日本にはある。それに違和感を感じてならなかった僕は、一度日本というものを外から眺めてみたかったのだ。
伊波さんの自由奔放さは、僕に旅をしていた時のことを思い出させた。
それに伊波さんは――行き場のない僕を拾ってくれた、大学時代の恩師によく似ていた。
旅先で拾われた、最初で最後の就職先。
「あなた、たしか就職活動してませんでしたよね。小説家になるとか言って」
旅をしていたある日のこと、大学で国際協力の授業を担当していた先生から連絡を受けた。柔和でやさしい、見るからにお人好しそうな笑顔のおじいちゃん先生だ。僕はその授業のアシスタントをしていたこともあり、仲が良かった。
「大学卒業後の進路とか、決まったんですか?」
「いえ...お恥ずかしい話、白紙の状態なんです」
と僕は苦笑いをしながら言った。
「僕の団体、アジアの貧困層を支援してるんですけど、よければうちで働きます?」
「...え?」
「広報活動を強化したいんですが、うちは若い人がいないんで、その辺弱いんですよ」
「いいんですか? 僕、そんなこと全然やったことないですけど」
「まあ、あなたにはあなたの夢があるでしょうから、無理にとは言いませんけど。どちらにせよ生計は立てないといけないでしょうから。他で働くなら、それがうちでもいいでしょう」
僕は1週間考えたあとで、そのありがたい申し出を受けることにした。
先生の言うとおり、卒業後の食い扶持は稼がなくてはならなかったし、旅が終わった後も海外に関わる仕事は魅力的だったからだ。
11月に帰国した僕は、さっそくそこで事務作業を手伝うことになった。エントリーシートも履歴書すら提出せず、卒業をしてから僕は正式にその団体の職員となった。
僕の最初で最後の就職先は、そんな風に決まった。
鬱病になった、それぞれの理由。


最後の方、僕はうまく呼吸することすらできなかった。
誰かと一緒に長時間いることができない、同じ空間を共有することに息苦しさを感じる。相手が誰にかかわらず。それは昔からの僕の性格的な問題だった。
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