The Somatocensory System (小説)

著者: 間坂 元昭
Introduction
 この物語は、実験的に作られたものです。
 読み進むうちに目の前に広がるスペクタクルのひとつひとつが、整合性と一貫性を欠如したように思えてくることがあると予想します。しかし、それはすべて作者によって意図された、ある効果をねらったことに起因しています。ただし、その効果の詳細をここにお伝えするわけにはいきませんが。
 それゆえ、あなたには、細部の「綻び」を気に留めないで読んでいただきたい。作者は、微に入り細を穿ち、かつ最新の注意を払って全体を整えています。局所的に不都合に思える部分は、あるいは形而上的に、あるいは宇宙的に解決されてしまっている。そのことを念頭に、あなたは物語の世界に没入していかなければなりません。
Body
1
 十六夜、33万4400kmの彼方から、月光が降り注いでいる。田んぼに群生するスズメノテッポウの揺れる様が、月の光波に押されてか、幽かな風に震わされてか、絶妙に同期して見えるのだった。畦道は、アスファルトを剥がされて、昼にうごめく地中の虫の行き所をなくしている。土はかなり乾いていた。
 月明かりは、とぼとぼと歩く男や女やに、スポットライトを当てるように差し込んでいた。それは、ひとりひとりがサブジェクトとして生かされていることの、間接的な証のように思われた。
 塩化ビニル管がとぷとぷと水を田んぼに引き込む音が、どこか遠くから響いてくる。
 その静寂を引きちぎって、一台のトラックが畷を走ってきた。
 V8ツインターボのカマズだ。ラリーレース用の鮮やかな塗装で、荷台を白・青・赤の三色にベタ塗りし、長波長の光線によって妖艶な凄みを増していた。白と赤のみでなく、青色もよく発色しているのは、防護塗料の反射性向をイジっているためだろう。
 トラックは、スズメノテッポウを揺らしながら、東奔してきたが、ある池の前で急ブレーキした。タイヤが湿った土につけた轍が、奇怪な紋章が反復するように二本並んでいた。前輪の跡を、後輪がほとんど狂い無く、噛んでいたのだ。
 車から、一組の男女が降り立った。エンジンを切った運転手役の男は、フルハーネスシートベルトの肩部分を外し、車内にとどまった。
 18リッターエンジンの化物が静まると、あたりを領していたのが、水流と人の歩み、それに風の音くらいしかなかったと分かる。束の間、律動を乱された草がまた段々と、大きなうねりのなかに同期していった。
 池のはたまで、背の高い男が歩いて行くと、女が少し下がって従った。どちらも声を発さない。女の方が、やや厳粛な面持ちをしており、沈黙を規定しているかに見える。ちらり、男は目だけのつもりで振り返ったが、細いブロンドの前髪の奥に冷たい目を見つけて、視線を前に戻した。
 淵に屈み、花が咲く前のカキツバタを手で掻き分けて、男が水面の月を覗き込む。光のゆらめきが、そこに水の存在を知らしめていた。
 男は、水盤を眺めながら、右手でノースリーブのダウンジャケットのポケットを探った。そこには、求めていた感触がなかった。全部で4つあるポケットを調べていったが、どこにも「それ」がなかった。思わず、
「あっれ、どうしたんだっけ?」と声が漏れる。
 女の目が咎めるように、眦を上げた。男は立って、女の方に向き直った。
「すみません。あれ、ロッカーに置き忘れてきたかもしれません」
「なに、どういうこと?」
 すでに事態を把握しているくせに、あえて女は詰るような口調で返した。
「本当に申し訳ありません」
「……で、どうするつもり?」
「と、とりあえず、レーナさんはここで待っててください。すぐ、取りに行きますから。……っと、それだと、置き去りにすることになりますね。じゃ、あの、ボブに取りに行かせますんで、そのあたりで休んでて、もらう、わけにはいかない、ですかね……?」
 レーナはふぅっと溜息をついて、思考回路を加速運転させた。
「しかたないわね。いいわ。私ひとりで待つから、あなたたちで取りに行って来なさい」
「すみません、ほんとに」
 フロントガラス越しに音声なしで、二人の動作を見遣っていたボブは、何か問題があったなと察した。窓ガラスを開けて、呼びかけた。
「フレッドーー。どうしたぁ?」
「いや、AL管を忘れてきたみたいなんだ」
「えぇ! マジか。どうすんだ、取りに戻るのかよ。……つっても、時間ギリギリだぜ?」
「仕方ないだろ」
 そう言って、フレッドは車の方へ歩き始めた、女に軽く会釈して。
「おいおい、マジかよ。めんどくせえことになったな」
 ボブが、急いで、肩にベルトを通す。そして、キーを回そうとしたが、思いとどまり、「ロックでも掛けるか」と呟いて、後付けのコンソールボックスについた再生スイッチを探った。そのとき、何気なく、ボックスの蓋を開ける気になって中を見ると、黒い筐体が出てきた。
「あっ」
 フレッドが逆側のドアを開いて、「なにを驚いてんだ?」と訊いた。
「あるぜ、ほら。たまたま入ってたよ」
 シュッと筐体が投げられて、フレッドの手に収まった。
「ラッキーだな!」
「ああ、これで焦らず、じっくり測れるだろ」
「でも待てよ。これって、ずいぶん古い計数管じゃねえか。年代物だな。ずっしり重いぜ。はっはっはー、笑えるよ、こりゃ。ガキンチョの頃、線量リアルタイム計測だとかって行政の方針で、GM管持たされてたのを思い出すよ。親が自治体配付の簡単なやつを捨てて、わざわざ精度の高いのを買ってきたんだっけな」
「そいつは懐かしい。レベル7の頃の話だな。たしかに、そのくらいのバカでかいのを使ってた友達もいたが、お前がそうだったとはね」
 大の大人二人、少し懐郷の念に傾きそうになったが、吹っ切って、
「……まぁいいや。必要最低限の機能はついてるみたいだ。これで行こう」
「ったく、下請け仕事も楽じゃないよな。気張れよ」
「ああ」
 フレッドがドアを閉め、踵を返した。ベルトをふたたび外したボブは、コンソールのスイッチに手を伸ばし、2010年頃のプログレッシブ・ロックをランダムでかけた。音声命令で、スピーカーの形状も指定し、最後に「10年代風の音響効果で頼む」と言い添えると、窓を閉め、高鳴ってくるリズムに身をゆだねた。
 弥縫策を、ふんふんと相手に催促するように聞いたレーナが、口を開けば、
「つまり、その古臭い機械で、インフルーエンスが測れるって言うのね」
 と、何にも驚かないといった禅めいた態度だ。
「ええ。まず、問題なく動くと思いますよ。ほら、電池も入ってるし」
 手袋を脱いだフレッドが、旧式AL管を振って見せる。思わず、笑みが頬に浮かんでいる。レーナは相手にせず、「わかりました。そろそろ頼みますよ」と他人行儀に促した。男は、それを合図に、まだふざけ気分で漏らしそうになっていた言葉を飲み込み、背を向けた。
 風がさらに凪いできていた。
 体感温度は変わらないままだ。
 AL管の2インチ長センサーの覆いを静かに剥ぎとり、〈粘膜〉を露わにした。この取扱いは、機械が古いだけに、より慎重に行わなければならない。左手で草の茎と葉を選りわけ、右手をゆっくり動かし、センサーを水面に差し込む。計器が、ゆっくりと温まってくるのを、冷えた手先がじわじわと感知しはじめた。
 筐体のディスプレイに浮かぶのは、ドットで表現された2進数。おそらく、計数管自体は、20年以上前の軍事用のものだろう。進化的アルゴリズムの4パターンを網羅しているが、それ以外は何も計れない、言わば、分子生物学と情報科学の融合の端緒に立つ、記念碑的なカウンターだ。ストックや兵站に重点の置かれていた、当時の戦争遂行には、機能に対する制約が極端だった。選択的に機能を取捨しなければ、装備の重量がかさみ――ニューロンの信号伝達速度、すなわち、ヒトレベルでいうところの50ミリ秒を争う闘いで――命を落とすことになったという。だが、いまや機能と重量がニアリーイコールの時代は過ぎつつある。
 レーナは、虫の音すらしない夜の影を、見るともなく見ていた。さやかな月が照らす水面は、流れを失って、ただぼんやりとそこにある。視点をピント外れのまま放置していた彼女だったが、何も動かず、時だけが流れていくさなかで、呆然としている自分にはっと気づいた。
 身を震わせる素振りをして、眼前の仕事に目を向ける。
 その視線を動かす刹那、意識の閾値を超えて、目に付いたものがあった。
 池の中ほど。
 ぷく。ぷく。ぷく、と水面にあぶくのようなものが浮かんでいる。 
 (あめんぼうが、飛んでいる、の……?)
 だが、それにしては動きがおかしい。
 小学生時代だったろうか、夏に山の暮らしを体験学習するというプログラムがあって、教師に引率され、稲作農家へ行ったことがある。一泊して、山菜料理を食べたことを思い出す。田植えはとうに終わり、手伝うことと言えば、草取りぐらいだった。長靴を履き、ぬかるんだ水のなかに足を踏み入れると、ぐにゃりとした感触が伝わってきた。そのとき、田んぼを走るアメンボを見た。農家の婆は「あめんぼう」と呼んでいた。
 薄らいだ記憶のなかにある、アメンボのつくる波紋と、いま池の上に浮かぶ泡が同じだと思ったことが、レーナにとっては驚きだった。なぜなら、そのふたつの現象は、あらためて整理すると全く似ても似つかなかったから。
 冷静に見てみれば、それはガスだった。
 とはいえ、地形や気象などの環境条件を総ざらいすると、この池はメタン菌が活発になるほどの嫌気的状態にあるとは言えない。単なる水たまりの大きくなったもの。そう捉えてよかった。
 少しイライラしたような気持ちになって、レーナは急かした。
「ねえ、フレッド。まだかかりそうなの?」
「え、いや……、何しろ古いブツで、イチゼロの羅列しか表示されないんですから。変換のレイヤーが一階多い分、読解にもそれなりに時間かかりますって」
 声をかけられて瞳孔が瞬時開きそうになるも、こらえて、細目で画面を凝視し続ける。
★00001000100001010101011110101010010100010000★
(そんなことより、こんなリニアな数列で、測定誤差をどこまでカバーできるんだか……。有意水準ぎりぎりに収まればいいんだけど)
 フレッドは思った。
(「古臭い機械」って言ってたわりに、誤差のことは一言も触れなかったな。織り込み済みってわけ? まあ、いいけど、ね。集中、集中)
 雑念と計算が並列でできてしまうのは、彼の特技だった。習慣がそれを可能にさせただけ、と言ってしまえばそれまでだが。
 強いて言うなら、水面に際立つあぶくが気になった。フレッドもまた、目の端でガスの噴出を見ていた。
 〈粘膜〉の柱部分が揺れて、手元でプラスチックの筐体がカタカタと鳴る。天井の月は滑らかに位置を変え続けている。ヒトの網膜に映る範囲で、動きを示している物といえば、この2つだけだ。泡さえカウントしなければ。
「もう、少し、ですね」
 フレッドの手の震えは収まっていた。「終わり、です」
 南中していた月がアークを描いて落下しつつあり、その皓さを幾分黄色く滲ませてきた。かすかに囁いていたスズメノテッポウの群生も、いまはよほど大人しくしている。人影もまばらになった代わりに、烏の鳴き声がこだまするようになった。ヒトほども賢しい黒い鳥は、電線を外された木製の柱に留まり、始終、一区画先の仲間と呼び合っているのだった。
 アンティークの腕時計から目を離して、レーナが口を開いた。
「nnn...長くかかったわね。……計測が済んでから言うのもなんだけど、あなた、アレ、ちゃんとチェックしてるの?」
 ぽかんとした顔でフレッドが聞き返す。
「アレって何です?」
「コーネルのarXiv」
「あ、あぁ。そりゃ、言われなくても閲覧してますよ、いつも。この仕事に就く際にも叩きこまれましたし、もっと言えば、モラトリアム教育カリキュラムの基本事項でしょう。忘れるわけがない」
 言うまでもなく、arXivとは、旧コーネル大学――現在はサロン化してコーネル・カンファレンスと通称されている――がロスアラモス国立研究所から運営を引き継いだ半査読のプレプリントサーバのことだ。ここには2035年現在、物理学や数学から計算機科学、生物学、統計学にいたるまでの非経験主義的な基礎科学分野の論文約270万報が保管されており、月毎に1万報ずつ新たに論文が追加されていっている。10年以上前まではまったく査読されていないものばかりだったが、過激な宗教家たちの非科学的論文が無条件に登録されるなどの事態が相次いでいるところに、AIにブレークスルーがあって、機械的に論文の精査ができるようになった。以降、科学界全体でピア・レビューのプロセスは縮小しつつあり、arXivはヒトの目を通さないでも信頼に足るものとして学界に定着した。とはいえ、過渡期にありがちなことだが、歴史ある論文諸誌に気兼ねして「半査読」という立場を便宜上守っている。
「ならいいんだけど……あなたの計算速度が遅い気がしたから聞いてみただけ。ちなみに最近チェックしたのはいつ?」
 彼女から視線を外して斜め上を見上げながら、
「27日前です。まだ1か月も経ってませんよ」
「え? ちょっと、そんなに前? ……道理で読み取りが遅いわけね」
 喋りながら、レーナは頭がクラクラしてきた。
「まずかったですか?」
「当たり前」少し息をつく。「いま怒鳴ってもしょうがないから冷静に言うわ。まず、arXivの渉猟は最低週1回すること。それと、3週間前の水曜夜、エボリューショナリー・アルゴリズムの公式が一斉に書き換えられたのよ。コーホイ博士の手によって。だから、あなたが見た27日前じゃ、ぎりぎりアウトってわけ。その一群の公式はね、画!期!的!に〈自然を理解する〉スピードを高めたのよ。……まったく」
「!! そうでしたか。すみません……車に戻ったら確認します……」
 月に一度のサーベイが習慣となっていただけに、フレッドはナーバスな気持ちになった。機械的に済ませていたことを意識して変えるのは気鬱に感じられた。命令されたことならなおさらだ。
 さまよう目でボブの様子を遠く窺ったが、ずっしりシートに身を沈めているのか、フロントガラスに顔はなかった。乾燥した土埃が、ガラスを白く染め上げていた。
「で、結果は?」
 真顔になってレーナが聞く。
「誤差3/10^33で、〈安全〉と確信できます。衛星観測ともほぼ合ってます」
「計算に狂いはないのね、候補生さん?」
「……ええ。大丈夫でしょう」
 お互いに目を見交わせた。
 ともに相手に言い浴びせたいことがあるような感じをおのおの覚ったため、沈黙を一瞬だけ残して池に背を向けた。
 歩きながら、レーナが、
「ねぇ、あの泡、何だと思う?」
 と、沼を振り返りもせずに聞く。
「わかんないです。ただ、怪しい、ですよね」
 自分で問うておきながら、フレッドの「怪しい」という一言に寒気がした。彼女のなかで言葉にせずにおいた不安を剔出されてしまったからだ。
 心なしかふたりの歩みが急く。
 ――刹那。
 不意に風が起こった。
 背中に風のしたたかさを感じたと思った瞬間には、既に前からも横からも圧迫されるような重いものに押し潰されそうになっていた。アニミスティックな時代に人々が感じていたたぐいの自然の猛威――あえて比喩すれば、そうとしか言えない陵辱的な力が、人間の神経伝達速度を上回る勢いで彼らを包み込んだ。
 風のなかに複雑な構造があり、風と風が軋って、凄まじい音が轟く。風同士の摩擦は熱を生み、ふたりの身を焦がすか、引き裂くか、いずれの結末も可能だった。
 不可解な現象に見舞われているこの地域を、あえて俯瞰しよう。
 いま、風の巨塊が500米四方をぶ厚く覆っている。巨塊は土埃をすべて外に払い、内部は透明を保っている。エネルギーの供給源は、黒ずんだ沼である。そこから風の通り道が開け、カマズのある方向に直線的に流れた風は、レーナたちの数歩手前で横に急拡大しているのだった。事態が事態なだけに、不謹慎な言いかたになるが、上空から見ると、あたかも漫画の吹き出しの形になっていた。
 身動きの取れない状態に追いこまれたふたりは、あまりのことに痛みすら感じない。辛うじて開く目だけが、視線をさまよわせ、お互いの位置を確認し合う。
 不思議な光景だった。
 埃の伴わない透明な風の、白昼の金縛りのなかで、すべてが見通せた。見えるものがすべてで、ほかに感覚するものは何ひとつ無い。そういう景色に邂逅していた――。
(変な気分だな)
 風のせいで口は開けない。フレッドはただ思考した、たわいないことを。
(ボブのやつ、こんな状況でも、トラックんなかで、ぐっすり寝てるんじゃないだろうな……)
 オーサグラフ型GPSを搭載したヘリコプターが到着したのは、間もなくのことだ。

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