『教える』ということ 第2回「教えないということ」
今日も疲れてもうじき寝たいが、そう長く書くこともないので書いてしまおう。
教えないということ
私は、演習を解いていて、思い悩み苦しんでいる受講者を見るのが好きだ。
実はこれは、仲間内の先生や受講者に対してよく言っていることである。実際これは真実で、私はそういったところを見ているのが好きだ。
「教える」ということに対して教え方は様々あるが、必ずやっては行けないことが1つある。それは『答え』を教えてしまうことだ。
このことは、社会人向けセミナーに限らず、「教える」という行為すべてに対して言えることでもある。例えばこうだ。
子供の飛行機
小さな子供が飛行機を見て、必ずと言っていいほどこう聞いてくる。
「どうしてアレ(飛行機)は飛んでいるの?」
それに対する親の対応はどうだろう?
- 「飛行機だから。アレはそういうものだから」
- 「どうしてだろうね?」
前者と後者では、全くと言っていいほど返答が違う。
もちろん、理系人間の私から言わせれば、「ジェットエンジンによって加速し、翼で空気をとらえることで揚力を生み出し、機体を浮かせている。」などと説明しそうなものだが、それがわかるのは中学生くらいだ。
話を戻そう。前者と後者の返答の違いは何だろうか?
表面的にみれば、親が子供の言っていることを面倒くさがってうやむやに答えているだけに思える。
しかし、子供の視点から見るとどうだろう。
実はこれは、子供の抱いた疑問を『否定』しているのだ。
子供はふとその瞬間「疑問」が自分の中で生まれたのだ。そしてそれを共有しようと親に話しかけた。しかし、親はそれを受け入れなかった。結果子供は、自分の抱いた「疑問」を否定されたことになる。
このサイクルが繰り返されるとある現象が起きる。
そう、子供が「疑問」を抱かなくなるのだ。
原理は簡単だ。生まれた「疑問」に対して、「コレはそういうものなんだ」という結論を自分で出してしまうからだ。
上の表現から結論を言おう。『好奇心』が無くなっているのだ。
こんなことを言っていると、読んでいる人はこう言いたくなるかもしれない。「お前が答えを言っているじゃないか」と。
これに対しては正直に言おう。「答え」では無い。「警告」です。
「わからない」ということ
前置きが長くなってしまったり、脱線してしまうのが私の悪い癖である。実際セミナーをやっていても変な方向に脱線してしまうこともある。そんな時は時計を見て、5分以内に軌道修正するように心がけている。
セミナーの演習が始まると、正直講師の仕事は半分以上が終わっている。なぜならやることがほとんどないからだ。
無いと言っても何もしない訳ではない。ひとり一人に目を配り、様子を見ながら的確なアドバイスをするのだ。気が休まることはない。
上のように書いても全く状況はわからないだろう。実例を挙げよう。
受講者は必ず手が止まるのだ。それはわからなくなった時である。止まった時からが要注意だ。様子を見て、それが単に「忘れている」だけなのか、それとも真に「わからない」のかである。
私が行動を起こすのは、受講者が止まってから5分後である。
まずは一声かける。「どうした?」
決まって返事はこうである。「わかりません。」
またかと思いながらもまた一言。「何があった?」
そう言うと、受講者は言葉を探しながら状況を説明してくれる。
それを聞けばだいたいの状況はわかってくる。少なくとも本人が忘れているだけであるかどうかは確実にわかる。忘れている場合は対処は簡単だ。以前やったページを指定するだけだ。もちろん曖昧に指示する。
確実に「解決策」がわからないとき。ここからが本番だ。
まずは1つ1つ状況を確認して行く。先ほどと同じことをしているように思うが、少し試行を凝らす。
「じゃぁこうやった場合はどうなる?」
相手の疑問に対して、別の方向からの疑問を投げかけるのだ。もちろん適当に投げる訳ではない。こちらが目的とする方向に向かって動いてくれるように投げるのだ。
この手法はいわゆる「コーチング」というやり方だ。
注意すべき点はそれほど多くない。答えを知っていても相手に教えず、相手の凝り固まった思考を外からもみほぐしてあげるのだけでいいのだ。
受講者が求めているものは「答え」では無い。「解き方」なのだ。それを意識して、受講者からの質問を誘導してあげるのが講師の役目である。
こんなことをやっていると、受講者からいろいろなことを聞ける。
- 「待って先生。言わないで」
- 「後もうちょっと。くやしぃ〜!」
- 「なんでわからないんだよ!(自身に対して)」
私はそれを糧にして、彼らの表情を思い浮かべながら演習問題を作るのだ。
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