偏差値30だった僕が特待生で明治大学に合格した話【後編】
※この記事は後編です。まだ前編を読んでいない方はこちらこらどうぞ
前編を読んで頂きありがとうございます。
今回は後編です。理想と現実を知った僕の奮闘記が始まります。
偏差値30からの逆転劇なるか? 最後までお楽しみください。
ただひたすらにもがいた日々
「いざ、大学受験!」と意気込んだものの突きつけられた理想と現実。
とにかく、僕は勉強するしかありませんでした。
効率的な勉強法とか、勉強は量より質だ。とか、受験は団体戦だとか、志望校を下げた方がいいとか、そんなことを言ってる場合ではありませんでした。
このままだと第一志望校はおろか、エスカレーターで進学できる大学にも合格できない。「頑張ったけど、どこにも合格しませんでした。」なんて口が裂けても言えない。何より大学受験を後押ししてくれた大学生や両親に合わす顔がない。
とにかく机に向かって勉強しました。
学校が終わったらすぐに塾に向かい、塾が閉まる23時まで参考書と向き合う毎日。
と同時に、多くのものを捨てました。
・中途半端だった部活には退部届を提出
・移動時間に少しでも集中したかったからスマホからガラケーに変更
・今まで仲良くしていた友達との関係を一時的に断つことを伝えた
・これまで大好きだったゲームもやめて、プレステ4は友達にあげた
24時間365日、とにかく勉強すること以外考えない生活を徹底しました。
高校の昼休みも図書館で勉強し、通学時間には英単語帳を開き、塾では友達を作らず机に向かいました。
結果に現れはじめる高校3年生の夏
そんな日々を送りながら模試を定期的に受けていましたが、高校3年生の夏になって少しずつ結果が出始めました。
当時の模試の結果は、
- 英語 : 140/200
- 国語 : 100/150 (漢文除く)
- 日本史 : 70/100
少しづつですが、努力の結果が模試の点数に現れ始め、このままいけばMARCHには手が届くんじゃないか?というレベルまで到達し、第一志望校の過去問にも手を出しはめられるようにもなりました。
(本来は夏の時点で、英語で160点を目標に勉強していたので自己採点をしながら塾の隅っこで泣いてたりもしました笑)
この頃から、周りの目が少しづつ変わり始めます。
高校2年生の冬には笑っていた友達も応援してくれるようになり、勉強に集中できるように気を使って距離を置いてくれました。
最初は無理なんじゃないか?と疑問に思っていた担任の先生も「この成績で大丈夫か?」から「この調子で頑張れ。」と言われるようになりました。
大学受験を決意したきっかけとなった大学生の方も片道2時間をかけて週1で家庭教師をしてくれるようになりました。
合格を確信した高校3年生の11月
結果に現れはじめ、周囲の反応も変わった僕は継続してモチベーション高く勉強を勧め、その後も順調に成績上がっていきました。
当時の模試の結果は、
- 英語 : 190/200
- 国語 : 120/150 (漢文除く)
- 日本史 : 90/100
気がつけば見慣れた慶応大学のE判定も、いつしかAやBを貰えるようになった。
周りの環境も大きく変わりました。
今まで高校で、勉強を教えてもらう立場だった僕が気づけば教える立場になっていました。学校内の模試でも得意科目だった英語や日本史では学年1位も取れるようになっていました。
勉強も部活も真面目にやってこなかった偏差値30の高校生が、たった1年の受験勉強で 全てが変わったんです。
この時点で僕は受かる確信していました。
これが結果を左右することになると知れずに...
ついに本番を迎える
そして月日はたち、センター試験を迎えます。
僕は私立大学を受験するので、直接的に影響はしませんが、第一志望校に集中できるよう事前に滑り止めを確保しておくことができる重要な試験です。
そして結果は、
- 英語 : 178/200
- 国語 : 100/150 (漢文除く)
- 日本史 : 91/100
安定して模試でも高得点をとれていた僕にとっては目標としていた点数には届きませんでしたが大きく点数がブレることもなく、無事滑り止めの合格を手に入れました。
うまくいきすぎた一般入試
センター試験後に待ち受けているのが、一般入試です。
第一志望校が慶応大学だったことから一般入試の試験慣れも兼ねて、MARCHを受験します。
※MARCHとは、関東にある私立大学5校、明治大学・青山学院大学・立教大学・中央大学・法政大学の頭文字で構成された用語です。
当時の僕は、慶応大学の判定でもAやBを貰えるようになるくらいの学力だったので、MARCHの過去問を解いていても安定的に合格点を獲得できていました。
そして何よりも、僕は慶応大学に進学する男だという確固たる自信がありました。
そして、本番を迎えます。
結果としては、自分でも驚くくらい何の問題もありませんでした。
心配症だった両親の指示で、色んな大学学部を受験しましたが、試験会場で問題を解いていて帰り道には合格を確信して帰ることの繰り返し。
結果も、受験したMARCHには全て合格することができました。
なによりも明治大学に関しては特待生の通知まで自宅に届きました。
(後で聞いた話によると特待生通知の紙を見た瞬間、両親は飛び跳ねたそう笑)
1年前にこんなことが想像できたでしょうか?
高校2年生の冬では、Be動詞がなにかもわからない高校生がみんなが知っているような大学を楽々と合格していくんです。
まさしく「全戦全勝」
そんなハッピーな状態で第一志望校の慶応大学へ挑戦することになります。
最大のミス
センター試験と一般入試を経て順調に結果を出し続けてきた僕。
いつしか両親友達担任の先生塾の先生からも期待を寄せられる存在になっていました。こんな1年前とは正反対な生活を送っていたことで当時の僕はこう思っていました。
「あぁ、俺は受かるんだ。」
本当にそう思っていました。
毎日家に送られて積み上がる合格通知書。本番の試験で蓋を開けてみれば1回の敗北もない自分。
この僕が第一志望校も落ちるわけがないと本気で思ってました。
しかし、この考えが裏目にでたんです。
そう。僕は勉強をさぼったんです。
いままでどんなことがあっても手を抜いたことがなかった勉強を。
単純にうぬぼれていました。
もちろん塾には通っていましたが、今までの熱量とは程遠く午前中に過去問を解いて午後は机で寝たり、塾の外をプラプラしたり、
「まぁ、大丈夫だろう。」と勉強をさぼるようになっていました。
結果は第一志望校の慶応大学は不合格。他大学はすべて合格。
なんともふがいない結果で僕の大学受験は幕を閉じました。
最後に
ここまで長いストーリーでしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。
このような大学受験体験記は、基本的に第一志望校に合格をしてハッピーエンドなものがほとんどだと思います。
しかし、まさかの不合格体験記になってしまった僕ですが、現在は特待生通知が届いた明治大学に通い始めて3年が経とうとしています。
久しぶりに大学受験を振り返ってこの記事を書いていますが、当時も今も悔いがないと言えば嘘になります。
やっぱり、憧れの慶応大学に行きたかった。
当時の成績を見ても決して届かないわけではなかったからこそ尚更です。
でも、この大学受験は僕にとってかけがえのないものだと胸をはって言えます。
今まで、努力なんてしたこともなかった偏差値30の高校生が、大学受験を通じて「こんな僕でもやればできるんだ。」と変わることができたんです。
これからあなたが何かに挑戦しようと思った時、
「お前にできるわけがない。」
「今からやっても、もう遅いよ。」
「そんなことやって何になるの?」
周りの人間からそんな思ってもない言葉を投げかけられることもあると思います。
「今」できないだけであって、「未来」はできるかどうかわからないのに。
僕のブログはこちら→https://makurokun.hatenablog.com/
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