つづき…
どのくらい泣いたのか、私は霊安室には戻らずに娘の元へ戻った。
母は出来るだけ娘に不安な空気を感じさせないように、悲しませないようにと、普段と同じく娘をあやしながら外を見せていた。
一糸の乱れもなく、整然と娘をあやす母は本当に大きい人に見えた。
そしてなにも知らず幸せそうに笑う娘はすごく綺麗でキラキラしていた。
取り乱したって仕方がない。
なんだかもう疲れた。。
泣いたって意味がないんだな。。
母が娘に笑いかける姿を見て、私にも母のその血が流れているのを私は実感した。
娘には、もう私しかいない。
なぜか、どうしてか、屈託なく笑う娘には泣いてほしくなくて、その時私自身も泣くことを止めようと、私の中の何かが鎮火した。
まだ1歳7ヶ月。
パパが死んだことをどう理解するのか。
どう説明したら良いのか。
どうせなら、なにも解らないまま笑い続けて育ってほしいと思った。
今日まで息をして生きていること。
全て、この時母が身をもって教えてくれたんだと。
あなたの娘だから出来たんだよ、と。
感謝の気持ちを伝えても伝えきれません。
涙が出なくなり、心が無になった気がした。
この時、広樹の妻である泣き虫な私は一緒に死んだのだと思う。
私たちが到着するのを待っていたこともあり、病院にはこれ以上長居は出来なかった。
彼を連れて帰る所から、葬儀の段取りなどは全て彼のお母さんがやってくれたようで、私は娘を抱いて呆然とする時間をただ過ごしていた。
普通は霊柩車かなにかで搬送するのかもしれないけれど、彼は彼のお母さんの車に乗せ連れて帰ることになった。
大人が何人かで彼を持ち上げ車に乗せる。
身長は167cmと大きくもない彼だったけれど、ワゴンRワイドには少し狭いようで、ハッチバックから入れられた彼は少し斜めになり、足を無理矢理押し込めて乗せてたような気がした。
物のように乗せられる彼にどうしても近づけなかった。
一緒に乗りたい…と思ったけれど、やっぱり乗りたくない気持ちも同居していて、私はまだ混乱していたのかもしれない。
来た時と同じく娘と3人で母の車に乗り、来た道を戻った。
彼のお母さんも、母も、よく気丈に運転してくれたと思う。
帰り道のことは全く記憶にない。
気がついたら彼を実家に運ぶ様子をまた呆然と見ていた。
その時に、彼が事故当時着ていた衣服を入れた透明のゴミ袋も誰かが運んでいて、どういう経緯かわからないけれど私もそれを確認した。
袋を開けると、彼の乗っていたトラックの車内の匂いと血の匂いが混ざった少し生臭い匂いが鼻をついた。
その匂いは脳裏に一生焼き付いていて、不思議と今も離れない。
なので、グリーンアップルの芳香剤が今でも少し苦手です。
いつも着ていたお気に入りのジャージは、ボロボロになっていた。
救急搬送の時にハサミでも入れられたのだろう。
ポケットには娘の写真が入っていたらしく、点々と血がついた写真も入れられていた。
いつもトラックのサンバイザーの所に挟んであった写真だった。
それ以上、手に取る勇気もなく、誰かに託し、それからその服も娘の写真もどうなったのか覚えていない。
まだ小娘だった18歳の私。
もっと手際よく葬儀の流れも手伝うことが出来たら良かったのかもしれないけれど、申し訳ないくらい本当になにも出来なかった。
著者の佐籐 香菜さんに人生相談を申込む