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木造住宅の解体工事会社がバウムクーヘンを作ったワケ(代表取締役土屋秀人の歩み)

著者: 株式会社成田ファームランド

1.はじめに

株式会社成田ファームランドは「健康な土で育った農産物は体に優しく美味しい」をテーマに堆肥を使った当社独自の農法にこだわり、農業を追求して世界に発信する施設を目指しております。独自の農法とは、木材チップを発酵させた堆肥を畑にまく日本古来の農法であり、近代農業の肥料に頼った農法を否定するスタンスを取っております。

この木材チップの堆肥というのは株式会社成田ファームランドの親会社でもある秀工業株式会社が製造しているものです。秀工業株式会社は木造住宅専門の解体工事業者であり、建設廃材から出る木材を細かく砕きチップ化し、十分に手間暇をかけ発酵を促し堆肥化しております。そして「秀じいの黄金堆肥」という名前で消費者へ販売しております。

なぜこのような事業を行うのか、この事業を通してどう社会貢献をしていくのか、この部分を語るには秀工業株式会社の創業者であり、現在も代表取締役として第一線で動いている土屋秀人の想いを語らないわけにはいきません。今回はプレスリリースの創業ストーリー特集ということで、改めて土屋秀人の創業の歴史を改めて振り返ってお伝えしたいと思います。


2.土屋秀人が日本一の大工を目指すまで


 1947年7月28日、土屋秀人は千葉県成田市に生を受けます。2男4女の末っ子でした。土屋秀人の父親は開拓農民で、第二次世界大戦が激しくなるまでは東京にて絵を模写する仕事に就いておりました。しかしながら、終戦後に焼け野原を開拓する事業が国策として行われ、土屋秀人の父親も千葉県成田市に移住し、模写の仕事から農業の仕事へと転換させられました。

そのような土屋秀人にも夢がありました。それは大工です。大工は自分の腕一つで何でも作ることができ、何もないところから家という形にする仕事に非常にあこがれをもっていたのです。それもただの大工ではなく日本一の大工。今までの評価を絶対に覆してやる!そんな想いでした。そして晴れて中学校を卒業後15歳で東京の工務店へと修行に入ることになりました。周囲からは叔母の工務店を進められるものの、「親族だと自分への甘えが出てしまう、日本一の大工になるには全くの他人の会社で丁稚奉公(でっちほうこう)から始めないと意味がない」と、厳しい環境に身を置くところから修行を始めました。1963年、土屋秀人は日本一の大工になる道の一歩を踏み出しました。


3.土屋秀人が土屋工務店を立ち上げるまで


 東京の工務店に修行に入り、とにかく仕事を覚える日々でした。その工務店は家族で経営しており、家族のほとんどはその工務店で仕事をしておりました。その中でも唯一その工務店で仕事をしていなかったのが、三菱銀行に勤めていた次男でした。その次男は土屋秀人の実直な熱意に目を向け、土屋秀人に対して色々な世の中の仕組みを教えておりました。そして土屋秀人の中で、日本一の大工の夢とそれを実現させる自分の会社を作ること両方を描いていくようになります。

 そして丁稚奉公に入ってから8年。大工の棟梁に「土屋君腕を上げたね」と褒められました。それは幼少期から劣等感が強かった土屋秀人に対して、非常に心を揺さぶる大きな一言でした。そしてその日の翌日。土屋秀人は棟梁に「この家が建ったら独立します」と告げ、その言葉通りすぐに独立する道を選びました。1971年、土屋秀人は「土屋工務店」を立ち上げます。


4.土屋秀人が解体工事を事業とするまで


 土屋工務店を立ち上げた土屋秀人はひたすら仕事に取り組みました。最初は知り合いを頼って3人で仕事をしておりましたが、徐々に仕事が増えてくるともちろん人手が必要になります。そこで土屋秀人が取った手段は家を建てている現場を見て回り、動きがいい職人がいたらすぐに声をかけ「日本一の大工の元で働かないか?今の給料の倍は稼がせてやるぞ」という口説き文句で大工職人を増やしていきました。そして1976年に積水ハウスの下請けとして契約。株式会社に改組しました。

 30歳で結婚して、1978年に秀工業株式会社を設立。本来ならば業態的には、「建設」とつけるべきと土屋秀人は考えましたが、チャレンジ精神が強い社長の性格を考え、その後に様々な業態に変えることもできるように「工業」にした方がいいとの周囲のアドバイスもあり、最終的に秀工業と名づけました。会計事務所からは、株式会社としては恥ずかしいので借金してでも1000万円などでの設立を勧められましたが、「自分の力でやることに恥ずべきことはない」と断り、資本金200万円の金額で設立をしました。

積水ハウス以外からも建築の依頼を受けておりましたが、その際に既存の家を無料で壊すサービスをして建築工事を受注するようにしておりました。そして、当時成田にある郡司建設の社長から家だけ壊してほしい、という依頼が入りました。今までお金をもらって家を壊していなかったので、「とりあえず20坪だから20万円もらうよ」と軽く依頼を引き受けたのです。いざ社屋を壊し終わったら意外と利益が出ることに土屋秀人は気付きました。そして解体工事もこれから仕事にしていこうと考え、まずは坪いくらくらいで家を壊しているのかを調査するため、タウンページの一番大きく広告を出している解体業者に電話をしました。「名前は言えないんだけど、あなたの会社に近くに住んでいて、まずは予算を知りたいから20坪くらいだったらだいたいどのくらいお金がかかりますか?」と聞きました。すると相手から「名前も言えないヤローに金額なんて言えねーよ!」と乱暴に電話を切られました。そして別のタウンページに載っている会社に電話して同じことを聞いても、同じように乱暴に電話を切られたのです。その瞬間土屋秀人は「秀工業の解体は絶対儲かる。自社の建築のスタンスは挨拶が第一。こんな電話対応の仕方も絶対にしない。」と確信しました。秀工業が解体工事も受注するようになってからは積水ハウスからも解体工事を頼まれるようになりました。1989年、土屋秀人は建築工事だけではなく解体工事にも着手するようになりました。


5.土屋秀人が堆肥の研究を始めるまで


解体工事も始めて1年。月に20棟は解体工事を受注することができるようになりました。解体工事は壊した廃材も引き取った上で更地にしないといけないので、廃材を処分する必要がありました。消防に届け出を提出し、秀工業の敷地内で廃材を燃やしていましたが、解体工事の件数が伸びるにつれて近隣から苦情がくるようになりました。そして本格的に自社焼却炉として設置を進めようとしましたが、6,000万円もの費用が掛かることがわかり、土屋秀人はその投資額に尻込みしてしまいました。しかし、妻から「お父さん。お金の工面はつく。大丈夫だよ。」と背中を押され、設置を進めることにしたのです。1995年焼却炉の許可を取得し、自社焼却炉を設置しました。

 自社焼却炉の設置により一旦は近隣からクレームは納まりましたが、解体工事はどんどん受注。最初は問題がなかった自社焼却炉も、朝からずっと稼働し続け、焼却炉の煙がずっとあがっており、焼け焦げたにおいも日に日に増していく中で、近隣は再度秀工業に苦情をあげました。

 土屋秀人は当時の建設廃材をリサイクルしていく時流に目をつけ、中間処理業の許可を得るように動きました。今度は近隣に迷惑がかからないように、近くに家がない場所を選定し、大工で培った技術を応用し、自分でその場所まで行くまでの私道を敷き、中間処理の設備だけを購入し、敷地のコンクリート舗装や擁壁等も自分で工事していきました。その結果、通常よりも低い相場で工事が完成し、中間処理場の許可を得ることができました。このとき2001年。土屋秀人が54歳の年齢です。

 中間処理の施設が完成後、久しぶりに建築の現場に戻った土屋秀人はある違和感に襲われます。それは他の大工より自分の腕が落ちていたのです。建築の現場から離れていたといってもそれは半年くらいの期間。土木工事は他のどの従業員よりも腕が良いと思っていましたが、建築だけは他の会社はおろか、自分の会社の従業員よりも落ちていたのです。それまで本気で日本一の大工を目指していた土屋秀人はそのとき始めて日本一の大工の夢を諦めました。そして次の瞬間「日本一の職人集団を束ねる経営者になる」という夢に変わったのです。

 中間処理場を設立後、秀工業はリサイクルに力を入れました。どこよりも環境に優しい会社を目指していく。この事業は成功する、と土屋秀人は確信しておりました。しかし現実はまったく違いました。解体工事の見積りを出しても「他よりも高いから秀工業じゃ解体と依頼しない」そんな言葉ばかり聞くようになりました。他はまだ焼却炉を使って解体をしていて、うちは環境に優しい取り組みをしているのに…。と解体工事の金額だけで比較する人ばかりだったのです。そこで目を付けたのが木材チップ堆肥の製造でした。


6.土屋秀人が農業を始めるまで


当時建設廃材から出た木材は細かく砕き、牛や豚のひき藁を作って販売しておりました。しかしひき藁は非常に燃えやすく、ひき藁保管場の火事を2回も起こしてしまっていたのです。木材チップの堆肥は水をかけると発酵が進んでいくので、火事を起こさないのでは?と土屋秀人は考えました。そして県庁にも相談に行って堆肥化の話を進めておりましたが、「チップ堆肥で、世の中で成功した人はいないから、秀工業さん止めなさい」と忠告されたのです。だったら逆に初めてチップ堆肥で成功した人物になる!と何も解らないままではあったが、それでも堆肥化を進めようと北海道から九州まで「上手いやり方」を探し続ける日々が続きました。関西の有名な微生物菌を製造している会社とも1年ほど使い、多額の研究開発費を掛けておりましたが、小松菜の発芽実験が一向にうまくいきませんでした。

土屋秀人の人生に最も影響を与えた人物、運命的に山中先生と出会うことができました。成田市は芋の産地であり、山中塾として芋の栽培指導をしているのが山中先生でした。山中先生は「世の中に、黙って作物をつくれる人が10人いる」「その10人とは、並々ならぬ努力をして堆肥をつくりあげた」と言い、土屋秀人もその先生の元、負けずに堆肥つくりにチャレンジしていくことを決めたのです。

1年後、山中先生と一緒に作った木材チップ堆肥のみで栽培した小松菜が発芽した。これはあまり考えられないことであり、専門家でさえも驚きました。

そして「秀じいの堆肥」という名前で土屋秀人自らが堆肥の営業を始めましたが、「堆肥は手間をかけずに自然発酵させた、買うものではなくタダで貰うもの。隣が買ったら考える」との反応が多かったのです。それで自らがと、自社で有限会社秀じい農場を立ち上げ、堆肥直売所を持ち、そこに卸すことにしたのです。2004年、土屋秀人は農業事業を立ち上げます。


7.土屋秀人が有限会社秀じい農場を休眠するまで


2004年に有限会社秀じい農場を設立しました。目的としてはただ一つ。「秀じいの堆肥の有効性を自分自身の会社にて証明してみせる」これだけです。自社製造の堆肥を畑にまき、そこから収穫した農作物を成田の自社の直売所にて販売を開始しました。特に秀じいの堆肥といちごが相性がいいのは堆肥を製造したときからわかっており、「秀じいのいちご」というブランドで販売を展開していきました。

ある程度の知名度が出てきた3年後の2007年に千葉県四街道市に「秀じい農場四街道店」をオープンしました。今まで年間5,000万円を推移していた売上が、四街道店をオープンしたことで急成長し、最終的には前年度比353%となる1億7,400円もの売上を計上しました。その後メディアの取材等も相次ぐことで売上も益々増加。2年後の2009年にはリーマンショックの後でありながらも売上は年間2億7,000万円と成長していきました。

しかしながらここから売上が落ち込んでいきます。理由としては秀じいの堆肥を使う会社が少なくなっていったのです。元々秀じい農場は秀じいの堆肥の有効性を示すために設立されました。もちろん直売所でも秀じいの堆肥で使った農作物の販売をすることが前提となります。しかしながら売上が急拡大していく中で、自社での農作物の栽培に限界を迎え、委託して農作物を作っていったのです。最初のころは人気の直売所、ということもあり色々な生産農家が卸の話を持ち掛けてきました。そして前提としては秀じいの堆肥を使って作物を作ること。しかし、生産農家も作れば売れてしまうので、秀じいの堆肥を徐々に使わなくなっていったのです。もちろん秀じい農場としても作物を豊富に取り揃えていないとお客様が満足しないので、仕方なく販売もしていくしかありませんでした。しかし、気がついて見ると、秀じいの堆肥を使って農作物を栽培している生産農家の方が少なくなってしまったのです。そうするとそれは秀じい農場の直売所ではありません。土屋は2013年に任せていた店長にその店舗を無償であげることにしました。

また2013年はさらに不幸が訪れました。なんといちごを栽培していた12,000㎡すべてに病気が発生し、その年のいちごの販売がゼロになってしまったのです。巨額の負債が発生してしまった秀じい農場は2013年に休眠することとなりました。


8.土屋秀人が秀工業を再建するまで


2014年からは土屋秀人は本業である木造住宅の解体業に専念しました。今まで土屋は農業を主体として解体工事業は部下に任せておりました。解体工事業の方に専念するようになり、土屋は日々違和感を感じることとなりました。解体工事はもともと「日本一の職人集団を束ねる会社」であったにも関わらず、実態としてはただの下請けとしか評価されない営業と現場監督しかいなかったのです。土屋は営業や現場監督を全員根本から指導し直しました。自分の力だけでは足りないと思い、コンサルティング会社とも契約し、改革を実行していきました。また取引先にも直接趣き、自分の理念を伝え、その理念に賛同できない場合は取引を考え直すことも実行していきました。

その結果、秀工業に在籍してした多くの従業員がその年に退職することになりました。土屋は今までにない絶望を覚え苦悩しました。しかし、新しく契約した労務士からの一言で土屋は目覚めました。それは「今まで会長(土屋)は自分に正直にやりたいことをすべてやってきたでしょう。でもそれについていく社員は実はとても大変な仕事なんですよ」と。土屋は人一倍の夢があり、人一倍のバイタリティがありました。しかしその物差しは自分としては当たり前で、周りも自分と同じように動ける、という風に考えておりました。土屋はそこから考えを改め、「一人ひとり考えは違う。自分の理念を曲げるわけにはいかないが、相手の話も聞くようにしよう」と自分を初めて変えていったのです。元より自分に嘘をつけず、相手にも嘘をつけない表裏のない性格は、厳しくもあるが愛情も感じる性格でした。それに相手の意見も聞くようになった土屋に人は徐々に集まっていき、気づけば秀工業の売上も回復していきました。


9.土屋秀人が株式会社成田ファームランドを立ち上げるまで


秀工業も徐々に回復していき、土屋は一度は諦めた農業への道も再び歩みたいと考えておりました。そして2017年に再度秀じい農場を復活させました。秀じい農場の代名詞でもあるいちごのみを自分で栽培し、成田の直売所を冬の期間だけ販売しました。4年ぶりの「秀じいのいちご」の販売。その名を忘れてしまった人たちももちろんいましたが、そのいちごを心待ちにしていたお客様も大勢いました。

徐々にお客様も戻ってきて、土屋がとりかかった次の農作物はなんとバラ。いちごは元々バラ科であり、いちごに効く堆肥であるならばバラにもこの農法が通用するのではないかと思いました。2018年7月に初めてバラを植え、購入した地元のバラ屋より「夏に植えると半分は枯れる」と言われましたが、結果1割にも満たない数しか枯れず、堆肥が効くことを証明。2,000㎡を超えるバラ園を開設することになりました。

2019年には通年での直売所の運営を視野に入れ、夏に収穫できるブルーベリーを3,000本購入し、6月にブルーベリー園を開設しました。

通年での直売所の運営を考えたときに、いちごの味を365日提供できないかと土屋は考えました。そのときに思い出したのがバウムクーヘンでした。土屋が幼少期のとき、おやつとしてはふかし芋でした。頂き物でもらって初めて食べたバウムクーヘン。その味は60年経て思い出しました。そして同年8月にバラ園の横にバラ薫るカフェBerry3s caféを開店。店舗はもちろん土屋の手作りです。農作物の直売所、自社農作物を使用した洋菓子の販売、ゆっくりくつろげる空間を提供するカフェ。これらを一本にまとめてブランディングを構築しようと考えたのが「成田ファームランド」です。

一つひとつは関わり合っているものの、統一した運営をしていこうと考え、2020年に株式会社成田ファームランドを設立。ベリーいっぱいの観光農園をコンセプトとして、新たなブランドを構築していく構想となります。その代表者として秀工業を任していた池見勝広を代表取締役に据え、次世代の形へと進んでいきます。


10.おわりにかえて(土屋秀人の今後の夢)


土屋の夢は今も変わらず「日本の農業を変えていくこと」。長い年月をかけて開発した木材チップの堆肥をもとに、日本古来の伝統的な農法に再度戻っていくことを夢見ております。成田ファームランドは自社栽培の農作物やその農作物を使用した洋菓子を色鮮やかな花を見ながら楽しめる空間を提供していくことです。現在はバラ園だけですが、10,000㎡の花園を自分自身で作り上げております。土屋の夢はまだこれから。生涯現役を胸に土屋秀人73歳は今日も畑を全力疾走しております。




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