「大人のための教科書」として人気のシリーズの続編。『もういちど読む 山川倫理 PLUS 人生の風景編』刊行に至る思いとは
山川出版社は、2022年12月に『もういちど読む 山川倫理 PLUS 人生の風景編』を刊行しました。著者の小寺聡氏は、東京都立の高等学校で倫理を教えながら、山川出版社の教科書『現代の倫理』などを執筆・編集しています。このストーリーでは山川出版社の担当編集者と著者の小寺氏が、刊行に至る経緯と本書に込めた思いを語ります。
『もういちど読む山川倫理』の続編として
山川出版社の「もういちど読む」シリーズは、『もういちど読む山川日本史』をはじめ『世界史』『政治経済』『倫理』『地理』が刊行され、どれも多くの方々に読まれる人気シリーズとなりました。原本である教科書を読みやすくするために注釈を除き、コラムや解説を多く入れています。
本書は書き下ろしですが、『もういちど読む山川倫理』の続編という位置づけです。『もういちど読む山川倫理』に登場する人物を中心に、哲学者・思想家・宗教家・文学者など先人34人の思想について、そのエッセンスを私たちの日常生活と重ねて、人間が生きる風景をスケッチしたものです。どのような思想も生きる人間の営みから生まれるものですから、私たちの生活で生きる喜びや活力になってこそ、意義があるものだと思います。34枚のスケッチごとに、映し出される人生の風景は様々です。本書を人生の風景のスケッチ帖としてご覧になり、様々な人生観・世界観・倫理観に触れながら、生きるヒントをみつけていただければ幸いです。
(山川出版社編集部)
万物を肯定する 荘子
曲がりくねった木と大きなひょうたん
荘子の友人の恵子がいいました。「うちに樗という大木がある。幹はこぶだらけで、枝は曲がりくねって、墨縄や定規の当てようがない。だから大工も見向きもせず、大きなだけで役に立たない」。それを聞いた荘子はいいました。「あなたは大木をもちながら、役に立たないと嘆いている。それなら、この木をだれもいない、何もない、広々とした野に植えて、散歩のついでに木陰で昼寝でもしたらどうかね。そうすれば、この木は斧で切られることもなく、危害を加えられることもない。たとえ 無用であっても、何も困ることはないのだよ」。
また、恵子がいいました。「とてつもなく大きな平たい瓢(ひょうたん) がなった。水を入れると重たくてもち上がらず、二つに割って柄杓にすると、平たくて水をくめない。大き過ぎて使い道がないから、砕いてし まった」。それを聞いた荘子がいいました。「あなたは大きなものを使うのが下手だね。いっそのこと、それを舟にして大きな川や湖に浮かべて 遊べばいいのだよ」(『荘子』逍遥遊篇)。
『荘子』には、このような一風変わった寓話が満載されています。こ の話から荘子は何を伝えたいのでしょうか。
無用の用
世間は役に立つものを有用とし、役に立たないものは無用なものとし て切り捨てようとします。(中略)一見、無用だと思われるものにも、よくみるとそのもの がもつ本当のよさがあり、それを活かすことが大事なのです。世間の常 識からは無用と見えるものにも、世間の有用性を超えた、そのものの独 自のよさがあることを無用の用といいます。どのようなものにもそれが 自然にそなえる、それなりの役立ち方、存在する意義があります。それを世間の一方的な価値判断で、有用・無用と決めつけるべきではないのです。
「この木なんの木」のモデルになったモンキーポッドの木(ハワイ)
曲がりくねった木にもありのままに存在する意義、無用の用があります。
(もういちど読む 山川倫理 PLUS 人生の風景編, p108-109)
書物から顔を上げて、人生の風景を自分の目で見つめること
若い頃、人生とは何かを知りたいと思い立ち、あれこれと書物を渉猟して知識を集め、友人と熱く語り合うことがあります。最近も、ある現代哲学の入門書を多くの大学生がかばんにしのばせていると語っている人がいました。真理についての知識を手に入れようとする若い人たちの真摯な思いは、尊重すべきものです。しかし、頭で理解する知識だけで人生についての真理が手に入ると思うのは、ちょっと性急すぎないでしょうか。
若い頃に語り合ったある人が、歳月を経てから、あの頃の自分は頭の中だけで生きていたと語ったことがありました。それは私にも思い当たることです。人生は茫洋として広がる大海のように、私たちが頭の中で考えるよりもはるかに広く、深く、豊かなものです。それは、書物の知識からだけで測れるものではないでしょう。人生の風景の真面目は、私たちが人生の順風や逆風にあい、喜びや悲しみを味わいながら歳月を重ねる中で、はるかな眺望のように少しずつ開けてくるもののように思います。ときには書物から目をあげて、日々生きる人生の風景を自分の目で深くみつめることも大切でしょう。子どもの頃に教わったこと、友人の言葉、書物から読み知ったことが、人生の星霜を重ねた後で、ああ、こういうことだったのか、と初めて腑に落ちることもあるものです。
私たちが考える論理は、生の事実から生まれる
哲学者の西田幾多郎は、晩年に書かれた論文の中でみずからの論理を述べた後で、「こうとしか考えられない」と率直に語っています。それは論理がそれ以外にありえないことであるとともに、哲学者として人生を歩んで来た西田自身が、それ以外には考えられないという思索の体験を語るものでもあるでしょう。哲学の論理とそれを考える体験とは表裏一体をなしており、私たちが考えることを離れて、その論理がどこか他にあるわけではないでしょう。そのようにしか考えられないという哲学の論理は、それを考える私たちの生きる営みの中にあり、私たちはその論理を生きているのです。
世界を貫く理法や論理があるとすれば、人間もそれに従って生きているわけですから、世界の論理と、それを覚知する人間の知恵とは本来一体のものでしょう。それは両者が別々にあって後から一致するということではなく、両者は本来ひとつのものの表裏であるということです。一方なくしては、他方はありえません。仏教で説かれる理智不二もそのような意味でしょう。人間が考える論理は、私たちの生の事実から生まれ、それを照らし出し、その事実へと帰っていきます。私たちはその論理を全身で生きており、第三者的に傍観しながら議論しているわけではありません。私たち人間の生きる事実から遊離した論理はいかに立派にみえても、どこかそらぞらしく、温かみがなく、うわべだけのように思えます。ましてや人間をゆがめるような論理は、真理ならざるものでしょう。知識や理屈は一杯もっていても、みずからの目で人生を深くみつめられていない人もいるものです。
人間が見つめた風景は、根底で繋がっていると信じたい
宮澤賢治は詩集『春と修羅』の序で、これらの詩は自分の心に映った風景を、「紙と鉱質インク」で書きとめた「心象スケッチ」であると語ります。私たちの考える論理も、私たち人間の「こころのひとつの風物」を素描した「心象スケッチ」かもしれません。私たちの生きる世界の風景を離れて、それとは別に不動の真理があるわけではないでしょう。人生について考えることには、そのような程をわきまえた謙虚さや、つきつめすぎない余裕が必要だと思います。頭で理解しただけの知識はどうしても皮相的になり、自分の中に閉じこもって硬化してしまいます。
プルーストは、自分の小説は読者が自分自身の人生をみつめるための光学機器、拡大鏡を提供するようなものだと語っています。大切なことは、私たち一人ひとりが先人の言葉に触れつつ、みずからの心の目で人生の風景を深くみつめることだと思います。私はそんな人生の風景を描きたいと思いましたが、どこまで描けたかは心もとないところもあります。これは私が先人の思想を拡大鏡として借りて人生をみつめた、「こころのひとつの風物」であり、みなさんはそれぞれに人生の景色をみつめておられることでしょう。その一つひとつの風景は唯一的なものですが、この世界でともに生きる私たち人間がみつめた風景として、根底でつながっていることを信じたいと思います。今、あなたの心には、どのような人生の風景が映っているのでしょうか。
価格:1,980円 (税込)
解説:哲学・宗教・文学などから34人の先人たちの思想を紹介しつつ、そのエッセンスを私たちの日常生活の風景と重ねて、人間が生きる多様な風景をスケッチしたもの。たんなる思想の概説ではなく、私たちの生活と重ねて、人生の多彩な風景を描く。34枚のスケッチごとに、映し出される人生の風景はさまざまであり、多様な人生観・世界観・倫理観に触れながら、生きるヒントをみつける1冊。
ISBN:978-4-634-59128-8
シリーズ:もういちど読むシリーズ
著者:小寺聡=著 刊行:2022年12月
仕様:A5 ・ 304ページ
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