現代と未来を見る目を培い、激動の時代を生き抜くために。『帝国の崩壊』の編著者が本書に込めた想いとは
2022年5月に刊行された『帝国の崩壊 上・下』(山川出版社)は、歴代14帝国「崩壊」の道程を第一線の歴史学・考古学者陣が読み解く大著です。軍事大国の経済破綻、改革の挫折、政治的緊張感の喪失。アメリカの覇権が揺らぐなか、「帝国」復活を目指すかに見えるロシアの動き、そして米中「新冷戦」。来たる激動の国際秩序を見通すために、ぜひ手に取っていただくことをお勧めします。このストーリーでは、編著者の鈴木董・東京大学名誉教授が本書出版の経緯と意義を振り返ります。
『帝国の崩壊』出版の経緯
現今、世界秩序は大きく変容しつつあります。一方では、「東西冷戦」終焉後、一時は地球上で唯一の覇権国家などといわれた米国の覇権が揺らぎつつあるかに見えます。他方では、「アヘン戦争」以来、「眠れる獅子」と見られてきた中国が、中華人民共和国の下、米国と覇権を争うまでに至っています。
人類の歴史の中で、幾多の超大国が去来してきました。ここで、多様な地域を包摂する広大な空間を支配領域とし、多様な人間集団を包み込んだ巨大な政治体、超大国を「帝国」と呼ぶとすれば、世界史は諸帝国の興亡の歴史ともいえます。
本書では、世界史を彩どった代表的な諸帝国をとりあげ、その興亡の歴史と、とりわけその崩壊の過程を解き明かします。各々の帝国について、各章で具体的に論ずるのは、各帝国を専門とする第一線の研究者の先生方です。
世界史の中で去来した超大国としての諸帝国の興亡とその崩壊の歴史を知ることは、世界秩序が大きく変容しつつある今日、我々の現況を見直し、未来を展望するためにも役立つのではあるまいか、と考えています。
(編著者の鈴木董・東京大学名誉教授)
本書の出発点となったのは、朝日カルチャーセンター新宿教室で開かれた連続講座『帝国はなぜ崩壊したか』(シリーズ監修/鈴木董・大村幸弘 二〇二〇年七月~二〇二一年六月)です。出講され、本書にも寄稿された講師の諸先生には、心からの謝意を表したいと思います。また、講座開催にあたり尽力を惜しまれなかった朝日カルチャーセンター新宿教室のスタッフをはじめとするスタッフの皆さん、そしてまた、この連続講座の成果を、本書のかたちで編集・出版することに尽力された山川出版社にも感謝します。
最後に、本書の原点となった連続講座の発案者でもあり、本書の編集にも御尽力を惜しまれなかったヒッタイト学の権威、大村幸弘さんとは、今からちょうど半世紀前の一九七二年、当時若手研究者がトルコに留学するための唯一の道であったトルコ政府奨学金留学生の選抜会場で初めて出会い、同じ年にトルコに留学した旧友でもあります。本書は、半世紀に及ぶ友情のあかしでもあります。
なぜ、今、『帝国の崩壊』か
今から数十年前、帝国論が一時期盛り上がりました。そのときの帝国論が念頭に置いていたのは、どれもはっきりとはいわないものの、明らかに「帝国」としての現代アメリカで、アメリカ「帝国」の行方を考えるための帝国論でした。同様に一九世紀の後半から二〇世紀初め頃には、イギリスで帝国論が流行りました。こちらも、その念頭にあったのは大英帝国でした。
今回、旧友であり、ヒッタイト学の世界的大家でもある大村幸弘さんの提案にのって、「帝国はなぜ崩壊したか」というシリーズ講座をやろうと思った私の念頭にも、やはりアメリカ「帝国」がありました。歴史的にみるとアメリカは一八八〇年代に生産力でイギリスを抜くようになり、第一次世界大戦から第二次世界大戦を経てイギリスから徐々に覇権が移りました。第二次世界大戦後の東西冷戦下ではソ連とアメリカが世界の二大覇権国家となり、一九九一年にソ連が崩壊して以来、十数年ほどの間はアメリカが世界で唯一の覇権国家という位置づけでした。
アメリカは世界の民主主義国家のリーダーを自認し、国内においては多様な集団をまとめる基軸を「アメリカ合衆国の市民」としています。しかしトランプ政権下では、合衆国市民として平等・対等なはずの市民の間で人種間対立の深刻さが顕著になりました。そこで明らかになったのは、「アメリカ市民」であってもその間には人種という区別があるということです。あと一世代ほどの間に、アメリカの頑固な白人主義者の人々が「有色人種」だと考える集団の人口が五割を超えていき、「有色人種」でなければ大統領になれない、白人はせいぜいで副大統領ということになったときに、彼らはその状況に我慢できるのでしょうか。
その状況は、かつてのローマ帝国に似ています。ローマ帝国が拡がったあと、帝国内の住民らのアイデンティティの基礎は、アメリカと同様、ローマ帝国の正式な市民かどうかというものしかありませんでした。キリスト教が広まって以降は宗教という軸もあったものの、集団をつなぐ粘着力・凝集力が相対的に弱かったのです。ローマ帝国時代のキリスト教神学者として知られるアウグスティヌスのお姉さんはラテン語を話せず、具体的に何語だったのかはわからないのですが、アフリカの言葉で話していたといわれます。つまりローマ帝国はアメリカのように多様な言語・文化集団からなっていて、それらをまとめる基礎となるものが弱かったために、バラバラになってしまったのです。
ですから実態として人種が差別の基準ということになってしまうと、アメリカというのは意外に脆弱かもしれませんし、一世紀後に覇権国家としてのアメリカが健在かどうか、正直わからないところがあります。
一方で経済的にも名目GDPでアメリカに次ぐ世界二位となり、アメリカの覇権に真っ向から対立しつつあるのが中国です。中国が今、力を入れているのが、陸の「シルクロード経済ベルト」と海の「二一世紀海上シルクロード」からなる一帯一路構想ですが、歴史上、中国を拠点に陸と海のシルクロードを丸ごと仕切ろうと言い出したのは、習近平「皇帝」下の中国が初めてでしょう。「陸のシルクロード」についてはかつての漢や唐も関心があり、唐の時代には中央アジアのサマルカンド近くまで押し出したこともありましたし、「海のシルクロード」では明の永楽帝が鄭和の南洋遠征で手を出そうとしたことはありますが、ついに今の中国はその双方を押さえようとしています。
他方で、ウイグル問題に代表されるように、中国が国内の少数民族に対して推し進めているとされる同化政策が国際問題になっています。この問題も、やはり歴史から考える必要があります。
帝国「崩壊」の類型(鈴木董)(本書二〇五ページ)
激動の時代に求められる、大局をつかむ力
今世紀の半ばの世界秩序はどうなっているでしょうか。「新冷戦」ともいわれるアメリカと中国という二大覇権国家に加え、その頃には、2021年の世界銀行の資料ではすでに人口が一四億人を超えたとされるインドが第三の経済大国として屹立していることでしょう。現在でも中国の経済動向が日本や世界の景気を左右するようになっていますし、中国政府のご機嫌を損ねると世界的な外国企業も簡単に締め出されてしまう状況ですから、中国やインドはその圧倒的な経済規模を背景にかなり好きなことがやれる経済「帝国」のような存在になるかもしれません。そして、今は何かと問題が噴出しているEUが、それを克服して統合をさらに進めていくことができれば、アメリカ、中国、インドに加えて二一世紀中葉における世界秩序の一つの核となりうるかもしれません。他方でラテン・アメリカや、人口が急増しつつあるアフリカの運命は未だ不透明のように見えます。
二〇二二年二月にウクライナへ侵攻したロシアについてもなお、「陸の植民地帝国」の遺産が残っています。その領土の中では、サハやタタールスタンのような数多くの少数民族による「共和国」や「自治管区」が広大な空間を占めています。ロシア語を本来の母語とする「ロシア人」の人口比率がロシア国内で減少しつつあることを考えれば、今後の半世紀から一世紀ほどの長期的展望において、「陸の植民地帝国」ロシアのもう一段の「崩壊」も、ありえないことではないかもしれません。
アメリカが徐々に衰退しながら中国が新しい世界秩序をつくり出すのか、アメリカが同じ価値観を共有するEUや日本、さらにはインドなどを巻き込みながら中国の覇権を抑え込んでいくのか。また、そうした中で「漢字圏」の東端に位置する日本はどう対処すべきなのか。現代はまさに激動の時代です。そのような時代を生き抜いていく上で、歴史上のスーパーパワーの盛衰・興亡の流れを知っておくことは、大局をつかむために必要な教養であるともいえるでしょう。
文字世界(文化世界)及び遊牧世界の諸帝国(鈴木董)(本書二〇九ページ)
”多文化共生”の難しさ
近年、日本でも多文化共生社会を目指そうというスローガンが掲げられています。本当に実現できれば結構なことだとは思いますが、私に言わせていただくと、それは多文化共生がどのようなものかをよく知らない人が言っているとしか思えません。私が研究してきたオスマン帝国は、まさにその多文化共生を不平等の下とはいえ、六世紀半も実際にやってきた、「多文化共生のプロ中のプロ」のような帝国でした。しかし、それでも多様な人間集団をつなぎとめることができなくなって、一〇分の一の面積の小国になってしまったのです。多文化共生がいかに難しいことなのか、そもそも日本人はそれを歴史的に経験してこなかったからか、よくわからないところがあるようです。
社会をまとめたり、社会の統合を保っていくにはコストがかかります。日本の場合はおよそ一五〇〇年かけて空間的な統合を果たしてきた強みがあるのです。それがあったおかげで、黒船がやってきて近代化改革をしていく際に、次々に独立運動が起こって崩壊への道をたどったオスマン帝国とは異なり、日本では薩摩や長州が独立するといった事態が起こらず、統合のコストがあまりかからなかったのです。
我々日本人は世界的にみればとても幸いな空間、つまり四方を海で囲まれた閉鎖的な空間で暮らしてきたので、のんきなことを考えていられるのです。空間が閉鎖的で、政権が空間の拡大を目指さない時代が非常に長く、同じ言語を話し、同じ文化・生活習慣を持った人々で大多数が構成されているまとまりのある空間というものが、どれほど歴史的に希少なケースかということを、本書に登場する諸帝国の崩壊から逆算してみていただければと思います。
今お話しした統合のコストという問題、それから文化的な同化力や凝縮力・定着力、そうしたことを念頭において各先生方の論考を読んでいただくことで、過去の歴史だけにとどまらず、現代と未来を見る目が培われるはずです。いずれも非常に深い研究をされている先生方が担当してくださるので、日本で得ることができる、まずは最強の知識を、読者の皆さんに共有していただけるものと信じています。
【書籍概要】
書名:帝国の崩壊 歴史上の超大国はなぜ滅びたのか 上・下
著者:鈴木董
発行:山川出版社
定価:1760円(10%税込み)
仕様:四六 ・ 240ページ
刊行:2022年5月
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