シニア向け分譲マンション「中楽坊」物語:2 ~66歳でもらった、人生最高のプレゼント
私が「中楽坊」に引っ越したのは、66歳のとき。同い年の主人は、たった7年だったけど、私は88歳で死ぬまで22年も「中楽坊」で楽しむことができた。
主人は亡くなるとき、微笑みながら私の手を握り「お前はこれからも長く、ここで楽しめよ」と言った。住み替えるのは、とても勇気がいることだったけど、主人に「もう子供達はいないのだから、ここにいる必要はないよ」と背中を押されて決断した。今になって考えると「中楽坊」は、主人から初めてもらった、でも素晴らしいプレゼントだった。
引っ越してからしばらくして、絵を再開した。短大で美術を専攻していたけれど、子供ができてからは何かと忙しく、パッタリと絵のことも忘れてしまった。道具も物置の奥でホコリをかぶっていた。再開したのは、中楽坊の人たちが皆それぞれに好きなことに取り組み、楽しんでいる姿を見たから。「ああ、こうやって生きていけばいいんだ」と気づかせてもらった。捨てるのが惜しくて持ってきた道具を引っ張り出し、本当に久しぶりに線を描いた。それからは、週に2~3回は画材屋さんに通うほど熱心に取り組めたし、画材屋さんとの会話も楽しかった。
大浴場で風呂友たちとしゃべる時間は、子供の頃に行った銭湯の脱衣場のようだった。マンション内で開かれたクリスマスコンサートでは、入居者バンドの演奏で「バラが咲いた」を合唱した。前の日まで、たくさんの人の前で歌うなんて嫌だ、恥ずかしいと思っていたのに、音が鳴り始めたらなぜがワクワクして、終わって拍手をもらったときは年甲斐もなく抱き合って喜んだりした。
中楽坊は、自室の玄関からではなく、マンションのエントランスの自動ドアから「自分の家」だと思えた。実際に、エントランスでは“いってらっしゃい”と“おかえり”の声が常に響いていた。
私の葬儀が終わったあと、娘が運転手さんに「中楽坊の前を通ってくださいますか?」と言った。よくできた娘だ。おかげで最期に「自分の家」を見ることができた。マンションの友達が何十人も私が乗った車に手を合わせてくれていたから、最後のお別れもできた。
あれから3年。年に何度か娘や息子が孫を連れて、墓参りに来てくれる。この前の夏は、ひ孫も見ることができた。聞いていると、娘も息子も「おばあちゃんは、ほんとに楽しそうだったねえ」と言う。墓の前でいつもそう言う。悪いが、「それは最後の20年くらいだけの話。それまでは、結婚してからしばらく苦労したし、あんたたちを育てるのも本当に大変だったんだよ。」と言い返したくなる。
でも、人生というのは、そういうものかもしれない。最後の20年だけが楽しかったとしても、それはそれまでの苦労や努力があったからこそだし、子や孫が「おばあちゃんは楽しい人生を送ったね」と思ってくれるなら、それで十分だ。
今、心から思う。「お父さん、最高のプレゼントをありがとう」と。
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