〜出逢い前夜〜僕がひとりの女性と出逢い、それまでのドン底から、経営者になって代官山に住むまでの話。

1 / 4 ページ

今、振り返っても・・一番辛くて、一番カネもなく、一番人生に投げやりだった頃に、彼女と出逢った


人生、

こんなはずじゃなかった・・・


大学だって六大学に入れたし、就職は氷河期と言われる時代に第一希望の超優良企業である一部上場企業に入って、あれほど迷惑をかけてしまった両親に最高の親孝行をしたつもりでいた。


おかしいぞ。

「勉強して、良い会社に入社できたら、人生に勝てる」と教わったはずなのに・・・



親や社会が引いたレールを

なんの疑問も持たずに、歩いて来たはずなのに・・・



世間のゴール=良い企業に勤める


しかし、この世間のゴールを果たした僕は、

この世間一般的な、“超優良企業”に入ったことから少しずつ、何かが壊れ始め、歯車が狂い始めた。


その会社の給料は、

上場企業においてフジテレビの次と言われるくらいで平均年収は1,000万円以上な会社だけに、入社した1年目から、一緒に就活をがんばった周りの友達に中では圧倒的に給料が良かった。

幼き頃、お金で苦労した分、もう僕は有頂天だった。


「やった!これで、人生はバラ色だ!」


あまりに浮かれていて、当時の僕は、少しずつ自分の人生の崩れていく音に気づかなかった。


大学時代の友達
いいな〜、お前の会社、給料高いんだろ。
すげーぞ、4月の初任給、なんと、、、67万円だったわ!引っ越し御祝い金だってよ。
大学時代の友達
マジかよ。おごれよ。
ダメだわ。スーツ5着買ったら、無くなっちゃった。。。


とにかく、僕は、お金にだらしがなかった。

高校時代、バイトも禁止だったのに、隠れて僕だけがバイトをしないと周りの友達と遊べなかった。昼休み、みんなが菓子パンとか買っている中、親が作ってくれた弁当を食べるのが恥ずかしくて、いつもこっそりと食べていた。


大学時代、周りの友達の中で一番、仕送りが少なかった。今考えたらそれでも私立の大学に入れてくれて東京でのひとり暮らしをさせてくれた親のスゴさって、親になって気づけたけど、当時は、とにかく、少なすぎる仕送りに毎月がっかりしながら、バイトの日々で、サークルで遊んでいた友達を呪ってばかりいた。


そんな僕が、社会に出た瞬間、一発逆転。とにかく、優越感が半端なかった。


すぐにBMWの真っ赤なオープンカーを買った。信号待ちになるたびに、意味もなく屋根を開け閉めして、優越感に浸っていた。笑


あれ?俺、ヤバくね?


なんとかなく、社内の風当たりの強さに気づいたのは、3ヶ月の研修が終えて、営業所に配属された頃から。

まだ、誰も成績を出してないのに、なぜか、上司が僕だけに冷たい気がした。


そりゃ、そうだ。

まったく、やる気が僕にはないのだ。


成績を出すというレベルの前に、仕事に対して、やる気がないのが周りに伝わるほど、僕の仕事っぷりは横柄だった。

実は、大学時代、同じような理由で、何回もバイトをクビになって、最後には、日雇いのバイトをなんとか1日やって、翌日は、また違う仕事で日雇いに出るという働き方だったのだ。


要するに・・・飽きっぽいのだ。


入社半年にして、すでに、平日は地獄となっていた。

そして、そのストレスを金曜日の夜から発散させようと、給料が良いことを理由にとにかく、豪遊しまくって、月曜日の朝ギリギリまで遊んで、そのまま月曜日に出社をするために、さらに、月曜日からのテンションが低くなっていくという負のスパイラル。


辞めたい。辞めたい。辞めたい。辞めたい・・・


もう、逃げ出すことしか考えなくなった。

逃げることだけを考える平日に、そのストレスから逃れるために遊びまくる休日。

このストレスのアップダウンが、毎週のようにジェットコースター的にやってくる。


転職する?


でも、僕は、1ミリも転職を考えなかった。いや、考えて、転職エージェントに打診したら、、、

エージェント
1500%、今の給料より低い条件の会社しかないですが良いですか?
無理。

とにかく、仕事は辞めたいくせに、この会社の給与体系だけはしがみついて起きたいというジレンマ。

結局、お金への執着が勝ち、転職は、辞めた。


起業は?


でも、僕は、1ミリも起業は考えられなかった。1ミリも。

就活においても、今の時代なら、就職か起業の選択から入る人も多いと思うけど、僕は、1ミリも疑うことなく、サラリーマンになることを選択した。

それには、理由があって、僕の両親の祖父たちの存在だ。

僕の父親、母親の両方のおじいちゃんは、両方ともに、会社経営者だった。

母方のおじいちゃんは、戦争のあと、鉄に目をつけて鉄工所を興し、財を成した。地元では1番のお金持ちだったらしい。

父方のおじいちゃんは、当時、相場の値動きが激しいコンニャク工場を経営していて、値下がったら貯蓄し、値上がったら市場に出すを繰り返して、財産を増やしていった。

そんな資産家の両家がお見合いで結婚したのが、僕の両親だった。


しかし、僕が小学校の時、両方の会社が倒産した。これがきっかけなのか、半身不随の病に倒れ、おばあちゃんがずっと苦労していたのを僕は、幼心に記憶に残っている。


だから、只石家の家訓がある。

父親
うちの家訓は、「起業だけはしてはならぬ!」
母親
仕事ってそもそもつまらないもの。我慢さえしていたら、自動で25日には給料が振り込まれるサラリーマンで一生いなさい。

実は、父親も二度も勤めた会社を倒産によって、追い出された経験があった。

だから、とにかく、僕は、厳格というか、厳しすぎる環境で、育てられた。


転職は、できない。給料が減るから・・・

起業は、こわい。おじいちゃんみたいになりたくない・・・


そんな我欲と、不安があるなら、頑張ればいいのに、頑張ることすらできない。

この時点で、僕は、完全に自分を失っていたかもしれない。


僕は思う。

“当時の僕と同じような人って、案外多いんじゃないだろうか?”


  辛いと口にしながら、明日もあさっても何もしない人・・・

  起業するぞ!と言いながらも、具体的に何もしない人・・・

  不安や不満ばかりなのに、その環境も、状況すらも変えようとしない人・・・


でも、

当時、本当に苦しみながらも、何も打開するような行動を一切取らずに、毎日、我慢するという最悪の選択しかできない日々を過ごした僕だからこそ、わかる気がする。


結局、人って、、、、不安は行動のきっかけにならない。


起業するまでの僕は、常に不安が支配していた。しかし、その不安はどんなに膨らんでも、打開するようなエネルギーに満ちた行動は生まれてこなかった。

すべての行動は、他人からの外圧や、指示、命令、無言のプレッシャーだった。



もう、ダメだ・・・



入社してから3年が過ぎた。今思い返したら、よく3年も頑張ったと思う。

ある意味、努力のエネルギー量という意味では、人生で一番、エネルギー量は多かったかもしれない。ただ、、、すべてのエネルギーは“我慢し続ける”という、一切、生産性のない努力に注がれて、何も産み出せなかったけど。


3年と2ヶ月と25日目に、ボーナスがあった。

当時の会社は、なんと、年に3回もボーナスがあり、長期休暇の前には、10万円のお小遣いまで出てくる企業だった。

しかし、疲れ果てた僕は、ボーナスを支払い用紙を手にした瞬間・・・


すべての糸が切れた。


辞めよう。

著者の只石 昌幸さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。