「死」が突然目の前にやってきた 〜出会いから看取るまでの2年半の記録

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著者: 西澤 佳子



2010年6月27日。
病室へ行くと、モニターが付けられ、彼はウトウトしている。
ドキッとした。
ドラマなどで見る、死に際した患者の病室が思い描かれる。


唾液に血が混じっている状態で、痛みもあり眠れなかったという。
S医師に伝えたところ、モルヒネを打ったという。


さらにドキッとした。


ここまで来てもまだ現実を受け入れられない。
モルヒネというのは、もう死に際の患者に痛みを和らげるために打つものという認識だった。


死に際だってこと?


頭が動かない。
表情も作れない。


そんな私を気遣い、看護師から説明を受けた。
モニターは大量出血だったため、ナースステーションからも様子がわかるように付けたもの。
モルヒネも今は普通に使われるもので、重大なことではないということ。
落ち着かせようと話してくれたことだと思う。
間違いなく死が近いのだ。
それでもこの気遣いに私はとても慰められた。


病室を出てトイレに入ると、急に涙が溢れ嗚咽した。




2010年6月28日。
仕事をしていると、すぐに来てくれと彼から連絡が入る。
上司に話し、すぐに病院に向かう。
突然の部屋移動で荷物がごちゃごちゃになったこと。
荷物を把握している私がその場にいないこと。
急な40度ちかい発熱。
ずっと落ち着かなかったという。


看護師にも今日はずっといてくれと頼まれた。
私がいると表情が穏やからしい。
私には文句しか言わないが、信頼してくれているらしいことを知った。




2010年7月5日。
新薬による抗癌剤治療開始。
この日から2日間の来院を控えるように言われる。



2010年7月6日。
様子を聞きにナースステーションへ行く。
とにかくダルいらしい。



2010年7月7日。
S医師からの話。
95%治るのは無理なこと。
彼の家族に知らせることを勧められる。
彼には別れた元奥さん都の間に2人の娘がいる。そして彼の兄姉は九州に。


本人に言えば首を横にふる。
本人の意志を尊重したいが、どうしたらいいのか、どうするべきなのか。
まったくわからない。



2010年7月8日。
彼の家族との関係のこと、彼の意志をS医師に伝える。
S医師からは、
「人一人が死ぬということは、あなた一人や娘さんたちで抱えられるものではないのですよ」
と言われた。
そして脳への転移の可能性。
意識がなくなる可能性。
そしてガン細胞からの大量出血の可能性について説明を受けた。



苦しい。
自分が判断をし、自分で決める。
それが一人の生死に関わり、血縁者に影響を及ぼす。
こんな大事が私の前に突き付けられている。


正解など知らない。
一般的な話など知らない。
尊厳。
死に直面している本人の意志。
私の気持ち。



新たに見つけたガン克服方法を教えている方へメールする。
「手遅れです」
と返信があった。





2010年7月18日。
抗癌剤治療の副作用がやっと軽くなってきた。
パソコンで新しい小説を書き始めたりしている。
長時間は無理。シャワーも一人では体力が持たない様子。


私自身も精神的にキツくなっているのか、ちょこちょこ頭痛に悩まされていた。




2010年7月22日。
朝方の発熱はあるものの、久しぶりに調子は良さそうにしている。
起き上がり、洗面台の前で外を眺めていた。




2010年7月23日。
朝早い時間に大量の吐血をしたという。
3日間輸血をすることになった。
シーツも枕もパジャマも下着も血で汚れたそう。


その大量の血に混じって、ある塊が口から出たという。
S医師によればガン細胞ではないかと。


抗癌剤治療は普通ガン細胞を小さくするが、
食道ガンは上皮ガン。
上皮ガンの場合は、細胞が壊れ剥がれるのだという。
剥がれたものが吐出され、剥がれた部位から出血したのだろうということだった。
「効果が出ている結果の吐血。悪い傾向じゃないです」
との説明に一筋の光が見えた気がした。




2010年7月24日。
病室に入ると血の匂いを感じた。
再び大量出血。ガン細胞の塊もまた出ていたとのこと。
気管支炎のようなゼーゼー音が喉の奥から聞こえる。
激しい咳き込み。おかしい。。。


出血がなかなか止まらない。止血剤とモルヒネを点滴しているが止まらない。


S医師が休暇日で奥様と買い物中だったのに、駆けつけてくれた。
抗癌剤がちょうど効いてくる頃。
血小板、白血球など減っているので血が止まりにくいのだろうと説明してくれた。


激しい咳き込みは、気管支への転移ではない。
あまりにも大量の出血だったため、気管支に入ったのだろう。
気管支に入った血が固まり、自然に溶ければ大丈夫ということだった。




2010年7月25日。
Tシャツもパジャマもベッドに敷いていたタオルも汚れるほど、
また吐血していた。
呼吸困難になったため酸素を一時付けていた。



2010年7月26日。
面会時間を過ぎても、彼が落ち着くまでそばにいた。



2010年7月27日。
夜、呼吸が苦しくなりパニックになったという。
怖かったと。
酸素吸入をしている。



2010年7月29日。
左側に肺炎が広がっていることを伝えられる。
祈る。祈る。祈る。
涙は止まらない。


午後、彼の長女を迎える。
彼と2人で話す時間を取る。
うちに泊める。



2010年7月30日。
午前中長女を見送り、夕方次女を迎える。
同様に彼と2人で話す時間を取る。
うちに泊める。



2010年7月31日。
午前中、再び次女と病院へ。
軽食を買って昼食を病室で摂る。
午後、次女を見送る。


呼吸が苦しそう。




その日がやってきた


2010年8月1日。
東北はこの日から1週間、各地で夏祭りが開催され、1年で一番活気がある時期。


朝7時43分。
「危険な状態です」


「はい?」


「菅原さん、危ないです!」



すぐには理解できない。
携帯への着信の表示は「TS病院」。


頭が真っ白になったまま自転車を飛ばす。
何も見えない。
病院までのルートだけがハッキリ見えた。



8時5分。
意識が薄い。話しかける。
頷く彼。


看護師が言うには、昨夜「誰かが来た。風呂に入らなきゃ」と言って
トイレの方へ歩いて行ったが具合が悪くなり病室に連れ戻ったという。


(彼のお父さんかもしれない)


朝7時30分までは話していたが、その10分後に覗いたら意識が無くなっていたという。




「くるしい・・・」
声を漏らし、白目をむく。
S医師の懸命の処置で意識が戻る。


S医師に呼ばれる。
「左の肺が機能していない状態です。人工呼吸器を挿管しますがいいですか。」


人工呼吸器を挿管すれば、抜くことはできない。もう話せなくなる。
それでも私は挿管をお願いした。


娘たちが到着するまでは、生きていて欲しい。

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