【欧州はつらいよ】ブダペスト編①

著者: 山中 康司




ブダペスト郊外にある空港の出口を出ると、

目の前に灰色の風景が広がった。


高い建物がないので

まず目に入るのが空の薄いグレー。

視線を下にやると、

空よりは濃いアスファルトの灰色が

水に濡れて光を乱反射させている。

左右に目をやっても、

建物は空とアスファルトの中間くらいの灰色か、

すこし濁ったような乳白色だ。


深呼吸をしてみると

空気はいくぶん湿気をはらんでいて、

雨上がりのアスファルトのにおいがした。

このぶんだとまたすぐ降り始めるかもしれない。


どこか暗さをはらんだ景色は、

ぼくが思い描いていた中欧の雰囲気に

ほとんどぴったり重なるものだった。

と同時に、20年以上育った埼玉郊外の景色とも、

どこか近いものがあるような気がする。

ちょっと重苦しくて、憂うつで、

でもなつかしさがある、あの景色だ。


思えば、ぼくが大学院の卒業旅行で

中欧に行ってみたいと思ったのは、

どこか暗さをはらんだ雰囲気に惹かれたのかもしれない。

ぼくはだいたい、

底抜けに明るいひとや国や映画よりも、

どこか暗いそれらに惹かれることが多いのだ。




ブダペスト中心部へは、

市内を循環するバスで向かう。

ヨーロッパではトラム(路面電車)、

メトロ、車にバスと、

街中をめぐる交通機関はじょうずに分散されている。


日本と違い、1枚のチケットで

どの交通機関も利用することができることが多い。

たとえば通常のチケットを買うと、

1時間のあいだは同じ方向なら

トラムもメトロも乗り降り自由、

といった具合に。


といってもこれは、

ヨーロッパを何カ国かまわっているあいだに知ったことで、

最初に訪れたブダペストでは、

そんなヨーロッパの交通のしくみなんて知らない。


『地球の歩き方』には、

これこれこういう風にしなさいと書いてあるけれど、

そんなもの、読んで理解するのと

じっさいにやってみるのとではまったく違うのだ。

お箸の握り方の説明書を読んでも、

じょうずに小豆をつまめるようにはならないように。


観光案内所のお兄さんに「どうすればいいか」と尋ねると、

仕事がすこぶるできそうな彼は

「3dayパスを買え。

それでもって、あのバスに乗るといい」

と、スマートに発券の手続きをすませ、

ロータリーに止まる青いバスを指差した。

ぼくは羽田で両替したフォリント(※)でパスを買い、

ありがとうといってそのバスに向かった。




期待と不安とがないまぜになった気持ちを抱えながら

バスの車窓に映る風景を眺めていると、

バスが急停車した。


なにごとかと思い前方に目をやると、

長身の若い男がバスの前に立ちはだかっている。

身長は180くらいだろうか。

細身の体に黒の着丈が長いコートをまとっていて、

黒いサングラスをかけている。


男は停まったバスにつかつかと乗り込んできて、

運転手の中年の男となにやら口論しはじめた。

まったく聞き取れないけれど、

「あぶねぇじゃねぇか!死にてぇのか!」

「うるせぇ!ちょっとくらい待ってくれてもいいだろうが!」

「ばかやろう!さっさと座っておとなしくしてやがれ!」

という会話があったと思って間違いないだろう。たぶん。




一連の出来事を見ていて、

すっかり現実に引き戻された。


だいたいぼくは、田舎のヤンキーが苦手なのだ。

旅行に出る1ヶ月ほどまえも、

埼玉に帰省する電車内でうるさく電話している、

いかにもマイルドヤンキー風な男がいたのでちらっと見た。

あんな服どこで買うのだろうか。

おそらく熊谷のニットーモールかイオンあたりだろう。


視線に気づいた男は、

肩をいからせて近づいてきてぼくの横の席に、

どすん、と座った。


「よぉにいちゃん。なに見てるの?」


またこれか。

田舎のヤンキーのなかで、

気弱そうな市民に絡む時のテンプレート集でも

出回っているのかもしれない。


「いや。見てない。」


適当にあしらうが、

なにも悪いことをしていないのに、

すごく惨めな気持ちになるのだった。

(たいてい、ちゃんと話せばいいやつが多いのだけど。)



そんな経験があったから、

ブダペストのバスでサングラスの男が

肩をいからせてこちらに向かってきた時も、

「これは、目をあわせないようにしとこう」

と固く心に決めた。


「ぼくは極東からはるばるやってきた良心的ないち旅行者で、

英語もハンガリー語もからっきしわからないのだ。


初めて見るブダペストの景色に魅了されて、

窓に映る景色から目が離せないのだ。


いま仮に背後にどんなブロンド美女があらわれようとも、

耳元で『今晩とびきり熱いグヤーシュでもご一緒しない?』

とささやかれても、

ぼくは頑固一徹なにがあっても振り向かないのだ。」


ということを背中で語った。

ぜったいにぼくの隣の席に座ってくれるな!と。


だいたいこういうときの期待は裏切られるもので、

まだ車内には空席がたくさんあるにもかかわらず、

サングラスの男はどすん、

とぼくの隣の席に座った。


「よぉにいちゃん」


彼の口から発せられた言葉はわからなかったが、

ぼくにそう話しかけているのはよーくわかった。


こうしてぼくのヨーロッパ旅行は幕を開けた。




※ハンガリーはユーロを導入していない。

1フォリントは現在(2015年6月26日)のレートで0.44円ほど。


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