アリゾナの空は青かった【25】Back to Japan

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著者: Sodebayashi Costa Santos Yuko

友人MoriとMontereyでしばらくホームステイをしながら、わたしはサリナスにあるアダルト・スクールをあたってみた。サリナスはスタインベックの「エデンの東」の舞台になった小さな町である。

アダルと・スクールは自分がアメリカに居残るとしたら、を考えてのことである。アダルト・スクールと言うのは、年齢に関係なく、そして、時には国籍も関係なく、市民が英語やカルチュア関係の勉強ができる夜間学校である。また、アメリカの大学には、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスがあり、必修単位を修めれば、学位やCertificateも貰え、これらのコースは学費が安いと聞いていた。

常々、わたしが思うことだが、色々な理由で大学へ行くことができない、あるいはできなかった人に、勉学の機会を与えてくれるアメリカと言う国のこのような制度は素晴らしい。

少子化で学生定員を割る大学も今後、大いに出てくるだろう、日本の状況を考えると、どうして定年退職して時間をもてあましている団塊世代を大学に呼び込まないのだろうかと、わたしは思うのだ。日本の大学で学ぶには、日本語が必須である。経営のため定員数を埋めるために、下手に日本語もろくすぽ理解できない海外からの留学生を際限なく呼び込むより、この方法に目を向ける価値はあると思うのだ。

もちろん、団塊世代は年金生活者であるから、入学費、授業料は正規の学生より大いに下げる必要がある。定員に満たないがため、志望者全員入学など愚かな策をとって日本の最高学府の学力を下げてしまうより、わたしの提案する策の方が、若い人と人生経験者である年配者との交流を生み、老若男女、切磋琢磨することで、キャンパスそのものに活気が溢れ、学力向上にもつながると考えるのは、わたしだけだろうか。

これはわたしの持論なのだが、大学入学において経済的な問題を抱えていても、非常に成績がいい人は、周囲のサポートがあったり、大学入学時の成績によっては授業料免除などの制度を受けることができたりと、なんとか道が開けるのである。経済的な問題が解決できるひとつの方法として「学生奨学金」があるではないかと言うかも知れないが、それで学費をまかなうことはできても、生活費がいるのである。

大都市の大学に通うのであれば尚更だ。生活費を稼ぐために日夜バイトづくめでは、学業に支障をきたすこと明白であり、奨学金を受けながら勉強するとしても、親が生活費を支援しない限り経済的な問題はまだ残るということだ。

わたしのように、頭脳明晰とは行かなくとも向学心に燃える若者はたくさんいると思う。そのような若者が経済的な理由で進学を諦めることは往々にしてある。アメリカの大学のように、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスはこういう環境にある若者たちのみならず、向学心のある年配者にも勉学する機会を与えることになり、しかも、少子化で困難な大学運営の改善につながるのではないかと思うのだが、どうだろうか。

留学記が横道にそれてしまったが、さて、ESLコース終了後は、できればアメリカの大学で勉強したいと思い、準備していった高校時代の成績証明書をアダルト・スクールの事務所で提示した時、それを見た事務員が笑ったものである。「あら、あなた、国語や英語は抜群なのに、家庭科は2・・・あはははは」 

家庭科はまったくだめだった。というのは、まず、家にミシンがなかったし、なんと言っても材料となる布、その他を

取り揃える費用が、悲しいかな、親になかったので、課題が提出できなかったのであった。


そうして、一応の道はつけておき、Moriとは別れて再びツーソンへ引き返した。そうです。前のエピソードで書いたとおり、サンフランシスコでこの時別れたわたしとMoriは、その先20年は会う事がなかったのだ。

6月に入ると、アリゾナ大学ESLコースの最終試験が始まり、アメリカではお決まりの卒業パーティーが市内のホテルで行われた。講師も生徒も着飾り、食事会兼ダンスパーティーである。その頃から日本人留学生も一人また一人と帰国して行った。

最初のエピソードで出てきた我が友ロブは、自分の世界一周旅行の残り半周を続けるため、この頃既にメキシコへ渡っていて、「Hey,飛行機の操縦を習っている。こっちへ来ないか?」と古代遺跡のある町から絵葉書でお誘いがかかった。「来ないかい」ってあぁた、ギター抱えてストリートコンサートしながら世界一周するなんて(ロブのアイデアw)、わたしゃそんな訳にはいかないのだよ。

広島大学で研究していた現夫とは、3日にあげず航空便のやり取りをしており、この頃受け取った手紙には、「来年3月にはポルトガルへの帰国が決まった」とあった。
「アメリカに残るべきか、残らざるべきか、That is a question」なんて、ハムレット気取りで、わたしは考えた、うんと考えた。

今でこそ、格安で比較的自由に飛行機で移動できる世界の距離ではあるが、1970年も終わろうとしていた頃、アメリカに住んでしまえば、ポルトガルとアメリカの距離は、考えただけで遠く感じられ、恐らく永遠に彼と再び会うことはないであろう。これが彼に会う最後のチャンスだ。そう分かったとき、「Backto Japan」だ、これしかない!自分の心に聞いて素直に従うのがわたしの生きる道である。

ESLコースの終了証明書もなんのその、いったん決めたが最後、spacesis、後も振り向かず、唖然とするツーソンの友人達を振り切って、LA経由でさっさと大阪へ引き返したのであります。

到着した伊丹空港には、オフィス時代からの我が親友と、「あの頃ビアハウス:グッドチーフ・バッドチーフ」で登場している「グッドチーフ」とが待っていてくれた。日本ではもはや行くあてもない風来坊のわたしは、出発したときと同じ白い旅行かばんひとつを引きずって、そのまま空港から3人で梅田新道にある、我が心のふるさと、そして、わたしにアメリカ留学資金を作る機会を与えてくれた「アサヒ・ビアハウス」へと直行したのであった。

次回は最終回です。

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