「たかが自分、されど自分、そんな自分が一番大切」
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>僕は自分の進化を感じる時「阪神大震災」を思い出します。
多くの命が亡くなり、多くの人が思い出したくも無いであろう悲しい出来事でした。
しかし僕にとっては、大変不謹慎と言われるかもしれませんが、あの地震のおかげで目線があがり、人生が明るく代わるきっかけになった出来事でした。
まさに「あの地震のおかげで今がある」と感じています。
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分僕は西宮の実家のばーちゃんの部屋にいました。
ばーちゃんは既に亡くなっていて、部屋だけが残っていました。
ばーちゃんの部屋は玄関から入ってすぐの部屋だったので、
その日は酔ってへべれけで帰りばーちゃんの部屋で気を失ってました。
16日の夜に当時憧れていた女性に、その月の末に大阪城ホールに来るビリージョエルのライブチケットを出汁に結婚を前提にお付き合いを御願いしたものの、撃沈されてしまい、先輩のバーで飲みまくりどうやって家に帰ったのかも思い出せない状況で迎えた朝が地震の朝でした。
腹が苦しくて眠りから覚めたものの、てっきり死んだばーちゃんが僕の腹の上に座って説教しに来てるんやと勝手に妄想してびびってしまい、暫く目を開ける事が出来なかった事を覚えています。
実際はタンスが僕の腹の上に倒れていただけでした。
しかしなぜタンスが倒れているのかを理解する事が出来ませんでした。
よく見たら頭の側にもタンスが倒れていました。直撃してたらアウトでした。
その瞬間は相当ばーちゃん怒ってるなぁと感じましたが、
ばーちゃんが僕を守ってくれたんでしょうね。
ばーちゃんありがとう。
ラジオを付ければDJが大きな地震が神戸を襲ったと言っていました。
前日にふられた彼女は東灘に住んでいたのです。
東灘が特に大ピンチだと知り、
気がつけば単車で東灘の彼女の家に向けて走っていました。
当時彼女はお姉さん夫婦とお母さんと一緒に住んでいました。
皆さん怪我もなく無事でした。
しかし彼女の顔は今まで見た事がないほどこわばっていました。
電気も水道もガスも使えないため小学生の甥っ子2人に、
食べさせるものも飲ませるものも無いと、
僕が憧れたオレンジのガーベラのように輝く笑顔は消え、
不安と恐怖に怯えていました。
その時の彼女を見て、
「彼女の笑顔を取り戻す為に命をかけよう」
と決意した事を覚えています。
神戸を過ぎれば被害も少なく、
武庫川を越えれば普通に生活が出来ていました。
単車で武庫川を超え、必要な物を用意して届け続けました。
何回か往復して届けた時に、彼女が少し笑顔で僕に言ってくれました。
『本田くんの事、ちょっと好きかも』
彼女の心のシャッターがちょっとだけ開いた瞬間でした。
むちゃくちゃ嬉しくて、全身に力がみなぎりました。
その瞬間から、目に映るもの全てがチャンスに思えた事を今でも覚えています。
それまでの僕は何をしても満たされる事は無く、
嘘と見栄を塗りたくった時間を重ねて生きていました。
僕は24歳の時に事故で頭蓋骨陥没骨折をしてしまい、
2週間意識がない間にラグビー選手ではなくなりました。
その事をいつまでも女々しく、
『頭蓋骨陥没骨折さえしなかったら、本当の僕はもっと凄いんやで。』
と、そんな逃げ道をいつも頭の中で用意して生きていました。
代える事の出来ない過去を言い訳に生きていたので、前に光を持つ事が出来ませんでした。
当時の僕はその場しのぎの継ぎ接ぎだらけの生活をしており、ビジョンすらありませんでした。
そんな僕に彼女が言ってくれた
『本田くんの事、ちょっと好きかも』
という一言は、
僕が知らず知らずに深層心理で求め続けていた、
「自分が産まれた理由」
と出逢えた瞬間でした。
愛情いっぱいに育ててくれた家族を心から愛しており、
何よりも実家を大切に思っていた彼女が
著者の本田 康弘さんに人生相談を申込む
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