死なないよ、死ぬまでは。
純粋に、
死にたいだけなのに。
死ぬ事さえも、不自由なの?
その後、私はいつも通り家をでて学校へ行くことになった。
本当は行きたくなかったが、母に学校は行けと言われたからだ。
よくこんな面倒な子供を育てたと思う。
それでも捨てずに育ててくれる親はすごい。
それから再度自殺を試みるようなことはなく、エレベーターが出来るまで必至に耐えた。出来てからも、誰かに支えてもらわなければいけないところがあったので階段の恐怖はあったけれど、いつしか心は麻痺していった。当時あれだけ神経をすり減らしていたのに、少しずつ慣れていこうとしていた。怖いものだ。いろいろ重なっていたとはいえ、死のうとしていたのに。慣れてしまえるものなのか。
私は支えてくれた人たちにお礼を言って、すり減らしたはずの心がどこかへいこうとしているのを感じた。エレベーターのおかげで階段の上り下りの回数が減ったから、というのもある。
他人からしたら、くだらない。つまらない。しょうもない。
自殺の理由なんてそんなものだ。
それでも死のうと思ってしまう。
心が追いつめられて。
死を選択してしまう。
もうそこしか逃げ場がないだなんて被害妄想。
心が苦しくて苦しくて、身体を苦しめる方法を望む。
その心を解放するのはそれしかないのだと。
そこにある心は亡くなるのに、それでも。今よりは。少しは。
楽になるのではないかと、そこにすがる。死にすがって泣いている。
自分の生きる道が見あたらなくて泣いている。
あるのに。
たくさん。
私は私が死ぬ正当性を探していた。
私が死ぬ理由。そうか。これでいい、と。
では、死にましょう。
それで実行できたらどれだけいいか。
実行できないから、まだ生きている。
冷静になれない自分が、情熱で殺そうとしてくる。
死を渇望しているのは自分だろう?
どうなんだ?
死なないのか?
そんなの、答えようがない。
死ねないなら生きるしかないのだ。
私は死ななかった。
死ねなかった。
死にたかった。
生きたくなかった。
もうこれ以上、現実に浸りたくなかった。
それでも明日はやってくるし問題は押し寄せる。
どれだけ突き放そうとしても親は愛情を注いでくれる。
私にどうしろというのだろう。
いっそのこと、感情すら失ってしまえばいいのに。
そうすれば泣かなくてすむ。悩まなくてすむ。
誰かに頼っても心をすり減らさないですむ。
私の心は成長しているのか、退化していっているのか、それすらも危うい。
そういえば遺書が見当たらなくなっていた。
あの日、親が見つけて隠したのかな。
そもそも書いたっけ?そんなの。
どうでもいいよね。そんなこと。
だって、私はまだ生きている。
車を運転できる年齢になった。自動車学校を一発で合格し、車を買ってもらった。
田舎に住んでいるのでとにかく車がないと話にならない。携帯の電波も特定の場所にいかないとメールすらまともにできないままなのだ。一番近いコンビニまで車で15分もかかる。
運転できるようになって行動範囲が広がり、私の気持ちも幾分晴れていった。ひとりでどこへでも行けるなんてすごい。今までは親か祖父に車をだしてもらわないと、どこにも行けなかった。これからは自分で、好きに移動できるのだ。それだけで嬉しい。
小学校の頃とは違って友達はまったくいなかったけど、一人でいろいろと行動できるようになって少し大人の仲間入りができた気がなったようになっていた。
高校を卒業したあとは就職しようと思っていたが途中で変更し、デザイン系の専門学校に通うことになった。デザインなら作業はパソコンでできるし多少は興味があったので、親に無理を言って通わせてもらえた。一人で友達もおらずゲームや読書に没頭するようになった私は、CGでムービーを作ってみたかったのだ。ゲームに挿入される美麗なCGを私も作ってみたい、と。
専門学校一年目では、Web、3DCG、DTP、映像と様々な分野の基礎的な部分を習った。その中で私の興味を引いたのは3DCGではなくDTP、つまり紙媒体の広告デザインだった。
入学当初の想いはすぐさま捨て去り、私はその後もDTPの道を勉強することになった。多少は明るくなった私にも友達ができた。
トイレの不安は常に付きまとうけど、一人暮らししている友達のマンションに泊まっていっしょに課題をしたりもした。学校が早く終わった日は、友達とご飯を食べに行ったりもした。ゲーム大会を開いて盛り上がったりもした。デザインのコンペに共同で取り組んで作品を作り上げたりもした。ようやく私にも、人生が楽しく思えるような気がしていた。
死のうと思うことも些細な理由だったけど、楽しいと思うことも些細な理由だった。その日の気分によっては死んで、生き返れる。どれも簡単なことだ。
実家から博多の学校まで通うのに片道一時間半もかかったけど私は休みなく通い続けた。
三年間のコースに入学していたのだが、私は三年目の途中から講師の友人の会社にインターンに行くことになったのであまり学校へ出向かなくなった。他の生徒たちはグループ制作に取りかかっていたので、私も時間があるときは学校に顔をだしてバックアップしていた。
特に一番仲の良い友人である松村は、私たちの学年屈指のアイデアマンであり口達者だったので後輩からも尊敬を集めていた。いっしょにコンペの作品を制作する場合も私がデザイン担当で、松村がアイデアとキャッチコピーを担当するという役割分担に自然となった。
グループ制作は大きく二班に別れてWebとDTPと映像にさらに細かく分担される。DTP班の制作内容は自分たちが就職する時に使えるような販促ツールの作成だった。
DTP班は5人で1グループとなっていたが途中から私はインターンに行ってばかりだったので、あまりそこに加担することはない。するとアイデアマンである松村に負担が集中していった。
いくら制作の勉強をしていようがアイデアがでない人はまったくでてこない。これまでの経験上、デザイン性はともかくアイデアのある作品を作り続けていた松村にみんなの期待は注がれ、普段は温厚な彼でもそれがある日爆発してしまった。
口達者でもある松村はその怒りを存分に披露し、アイデアをだせないみんなを罵倒した。私はチームの一員なのに半分外れているような状態だったが、松村とはこまめに連絡を取り合いいろいろ状況を聞いたりしていた。
数日怒り狂った状態の松村は、皆の前でこんなことも言った。
「お前ら!伊藤以外文句言ったら許さんからな!」
いきなり私の名前が呼びあげられ「えっ!」となった。
やめてくれ。ホモ展開みたいなのは。とも思った。
でも嬉しくもあった。
松村は私にできた初めての親友となった。
結局、グループ制作はグダグダのまま終わり、皆途中で泣いたりもしていた。
これが青春なのか。
インターンに行っていた私は泣けなかった。
こんな時に涙が流れないとは皮肉なものだ。
私の涙は都合がいい。
それからそのままインターンしていた会社に就職し、晴れてDTPデザイナーとなった。
仕事が遅くなる日もあるので、そんな日まで家から往復三時間もかけて通勤するのは体力的にしんどいため一人暮らしをするようになった。会社から徒歩五分の場所に引っ越すと、逆に車には乗ることがなくなった。都市部には歩いていける範囲になんでもある。コンビニなんて徒歩一分だ。
相変わらず松村とだけはその後も付き合いが続き、お互いに会社の愚痴を言いあったりしながら飲んだりもしていた。
私が一人暮らしをするようになって嬉しかったのは、ようやく自由にネットができる環境に身を置けたことだ。家の中で携帯で電話できるだけでも私からしたらすごいことだった。デザイン作業ではMacを使用するため、学生の時に祖父にノートのMacを買ってもらっていた。あとはプロバイダ契約をしてネットライフを楽しむだけ。
仕事が終われば、好きな時にネットをしていいし、好きな時にお風呂に入ればいいし、好きな時に寝ればいい。一人暮らしとはこんなに気楽なものなのか。
解放感は凄かったが、その分面倒なことも多々ある。掃除、洗濯、食事。今まで親がやってきていたことを自分でやらなければならない。自由と引き換えに。
そんな一人暮らしをしている私のところに、親はしょっちゅう様子を見にきては身の回りの世話をした。いくらなんでも過保護すぎるのではないかと、あまりそういうことはしなくていいと突き放そうとすると逆切れされる。私がこんな状態だからというのもあるけれど、親の愛はいつだって一方的なのだ。ありがたい。
子供を卒業する日なんてあるのだろうか。
私はいつまでも子供のままだ。
人とあまり積極的に接してこようとしなかったためか話すことが苦手なため、私はチャットにはまっていた。
日記を書くことは苦手だったが当時流行っていたブログをやってみようと連日書き込むことにした。その運営サイトが新サービスとしてアバターを作成してチャットができるというものを開始しだした。飽き症の私はブログを一週間でほっぽり出してチャットに夢中になっていた。
常にいろんな知らない人と会話ができて飽きることはなかなかない。ネット限定だけれど仲のいい友達も数人できてヒマさえあれば朝方までずっとチャットをしていた。人と会話をするのは楽しい。
そしてついに、リアルで会うことになった。
チャットを開始した当初はそんなこと露程も考えておらず、ただ楽しくできればいいだけだったのにネットで知り合った人と会うことになるとは。
相手は東北から旅行ついでに福岡まで飛行機で来てくれるそうだ。
なので観光名所を案内してほしい、と。
さらに、どんな奇跡だろうか。その相手はとんでもなく美人の同級生だった。グラビアアイドルだったMEGUMIをさらに綺麗にしたような、スレンダーな美人。もうこれでドキドキしないはずがない。旅行ついでとは言っているが、自分のために会いに来てくれるようなものだ。正直、チャットやってて良かったと思った。ここまで期待なんて、さらさらしてなかったけど。
チャットだけでなく電話も数回、数時間やり取りしていた仲なのに、初めて福岡でリアルに遭遇した時はこれからの展望に胸も股間も膨らんだ。なぜこんな美人が私に会いに来てくれるのか謎だ。
だが、そんなことはどうでもいい。私の頭の中は性欲のモンスターと化す。
そして美人である藤井も、エッチ好きだと把握済みなのだ。というか自ら公言していらっしゃる。素晴らしい。
ありがとうございます神様。
そこにおっぱいがあれば障害のことなんて、どうでもいい。
私たちは合流したあと、その日はもう暗かったので適当な居酒屋に入った。美味しそうなメニューが並べども、そんなものは私の頭の中から通り過ぎていく。食べたのか食べていないのかわからない。
彼女はデザートを食べると、私にも食べる?と聞いてきた。自分が食べていたスプーンでシャーベットをすくい、私にあーんとしてくる。まるで恋人かのように。男慣れしてるなあ。
目の前には、もっと極上なデザートが鎮座している。経験豊富で美人な同級生と今夜童貞を捨てられるかもしれないのに、味なんてわかるはずもない。頭の中いやらしいことでいっぱいだ。
いっぱいすぎて挙動も変になる。普段は電話で下ネタなんかも話せていたのに。
これから、これからと思うと。ああ、もう、どうしよう。ついに、私にもやってきたのだ。こんな私でも女性を知ることだできるのだ。
そのまま私たちは一人暮らしのアパートに向かった。母親以外で初めて部屋に迎えいれた女性。ただ、どうやってエッチに持ち込めばいいのだろうか。テレビをつけてなんとなくボケーッと眺める。
思考回路はショート寸前。セーラームーンかよ。
手をだしたくて仕方ないのにやり方がわからない。どうすればエッチは始まるのか。二人ともお酒が入っていい感じに酔っぱらっているのに、目が覚める。
彼女は脱毛したばかりのスラリとした足を見せてくれた。触ってみなよ、という誘惑を投げかけてくる。言われるがまま彼女の足を触ると、確かにすべすべとしていて気持ちいい。初めて女性の足を触った。そんなことをさらりと提案できるのもすごい。
私はそこで調子にのった。
わけがわからなくなった思考回路はクロを思い出したのだ。なぜ、今。
クロはあごの下をなでると気持ち良さそうに目を細めた。
気づいたらここも気持ちいいよ、と彼女のあごの下をなでていた。クロ同様気持ち良さそうに目を細める彼女。猫みたいにごろんと横になって私に身をまかせてなでられる。私のすぐそこに、顔がある。
次の瞬間、ディープキスをしていた。ファーストキスでもあるのにいきなり舌を絡めた。彼女の舌と私の舌がむさぼりあって粘液の交換をする。意識がすべてそこに集中していき、何かが私の中を駆け巡る。キスとはこんなにいいものなのかと飽きるほど堪能しまくった。
それから胸に攻撃の矛先は向けられる。ブラジャーなんて外したことのない私は、四苦八苦しながらもホックを外し、彼女の胸をあらわにさせた。見とれてるヒマなんてない。すぐさま彼女の突起物に吸い付いた。初めて味わうおっぱい。
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