僕の職場は「戦場」でした。


毎日毎日、朝から晩まで、社内は燃えたぎっていた。


その熱は元々一人の事業家の「情熱」から始まったものですが、現場としてはそんなに美しいものではなく、「混乱」「焦燥」「窮地」から滲み出る「人熱の集合」みたいなものでした。


現場は常にギリギリの戦いを強いられ、疲労困憊し、


「おい、この件、どうなってる?担当の●●どこいった?」


「さすがに倒れてしまって病院いってるみたいです。携帯も繋がりません!!」


「ふむ、そうか」


みたいな会話が日常に行われていて、労働問題が叫ばれる昨今ではあり得ないセカイだった。


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2000年前後、当時ソフトバンクグループは既に日本を代表するインターネット企業に上り詰めようとしているころで、グループ社員数は数千人を越えていた。それでも本社ビルはまだ日本橋箱崎町の20階ぐらいの決してオシャレとは言えない中規模オフィスビルだった。


僕は当時26歳。ソフトバンクが筆頭株主で事業推進していた衛星放送事業の立上げに携わっていました。JSKYB株式会社というソフトバンクと世界のメディア王「ルパード・マードック」が作ったジョイントベンチャー企業で、その後、ソニー、フジテレビが出資し、さらに日本の商社連合が作ったパーフェクTVという会社と合併して、「スカイパーフェクTV」いわゆる「スカパー!」という名前で衛星放送事業を展開していた。


僕はその「スカパー」の経営企画部門で社会人2〜3年目のペーペー時代を過ごし、お台場から渋谷にオフィス移転したりしてて、比較的オシャレな場所でハードワークな若手時代を過ごしていたのですが、ソフトバンク派閥の上司から半ば拉致されるような形で、日本橋箱崎町への勤務変更を余儀なくされた。


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最寄り駅は当時の半蔵門線の終点駅である水天宮前というところで、ほぼ人生で降りたことがない駅だった。乗り降りする人は何となく冴えないサラリーマンばかりな印象だった。地下鉄から地上に登っても、真上に首都高速が通っているので日陰になっていて、とても「暗い」雰囲気だった。


その暗い駅の直ぐそばにあった、薄青色なビルがソフトバンク本社ビルだった。



「クッソ、ださいビルだなー。これまでの社会人史上最悪な場所かもなー」



新卒から西新宿の第一生命ビル、台場のフロンティアビル、渋谷のクロスタワーと当時の「イケてる風」ビルに勤務していた自分にとっては、何とも言えない雑居感を受けた。


その雑居ビルの5Fの一室が僕の新しい職場になった。ソフトバンクと光通信のジョイントベンチャー、という今考えると「ITバブル天然記念物」のようなソフトバンク子会社だった。スカパーのマーケティングを支援する会社だった。ソフトバンク、光通信ともに株式市場をブイブイ言わせている頃だった。


会社が立ち上がって半年そこらで、社員5名ぐらいだった。2つ年上の僕のスカパー時代の直属の上司が取締役COOとして会社を取り仕切っていた。


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スカパー時代、僕は20代前半で社内で最も下っ端であるため、エクセルやらパワポやら会議の議事録やらの作業が多く会社に泊まることも月イチぐらいあったのだが、この箱崎ビルになってからはそれ以上にもっとハードワークになった。


朝から晩までずっとPCの前に張り付き、しかめっ面をしながら、キーボードを叩いていた。月末月初は必ず会社に何泊かしなければならなかった。オフィスの床に寝るとダニに刺されるので、いつもダンボールを敷いて寝ていた。


あまりに忙しすぎて猫の手も借りたかったので、上司に承認を得て、前職の部下(その名を「堀内」という)を誘って入社させた。自分が抱えていた仕事の5%ぐらいを渡しただけだったが、彼は僕よりも仕事が遅かったのですぐに帰れなくなった。僕がダンボールで寝た後、となりの席で泣いていた夜もあったらしいし、多忙で血尿を出したりしていたらしい。


会社の業績は絶好調で年の経常利益が10億越えて20億に近づいていた。ドンドンくそ忙しくなるものの、社員数は30人足らずの少数精鋭だった。株式上場の準備も進めていて、自分は経営企画室のマネージャー職だったので、日常業務に加えてのまた更にハードなプロジェクトにアサインされていた。


そんな矢先だった。


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ソフトバンクグループの末端社員だったので、普段、孫社長に会うことはほとんどなかった。年1回ぐらいビルのエレベーターで見かけることが出来て、見かけたときは同僚らに「今日、エレベーターホールで生孫(ナマソン)見たわー」などと自慢していた。


創業当初はビルの5Fの一区画で10席足らずの場所で仕事をしていたが、社員数が増えると上の階の16階に移動してワンフロアを占めるほどになっていた。


一つ上の17階がソフトバンクの社長室であり、孫社長が君臨していた。一つ下の階に引っ越してから、僕の会社の上司が頻繁にその17階の社長詣でをするようになっていた。


日に日にこの「17階詣で」が多くなった。いつもは僕ら現場社員よりも早く帰っていた役員陣が疲れた表情で深夜に17階から降りてきた。最初は「会社の株式上場が迫っていたからかな?」と思っていたのだが、


「どうも濃厚な会議が行われてるっぽいな。何だろ?上場の話だけじゃないなこれ。何かグループ全体でのドデカイ新規事業っぽい」


というのを感じ取った。


「17階詣で」の社内極秘資料パワポを作る仕事も徐々に回ってきて、プロジェクトの概要が明らかになってきた。それは「ADSLという通信事業をはじめる」ということだった。


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当時のソフトバンクグループは、問屋事業、出版事業から始まって、インターネット事業(主にヤフー)、金融事業を手がけていた。僕の所属していた放送事業がその次の5番目の中核事業に位置していたが、他の主力4事業と比べて新しくて規模も小さく、グループ内ではマイノリティ事業だった。


なので当時のソフトバンクグループは通信事業については全くの素人であった。ラーメン屋さんが「冷やし中華はじめました」みたいな感覚で「ADSL通信事業はじめました」なんて出来るものではないのは明らかだ。


17階で毎晩のように会議が行われ、僕は本業の片手間でその資料作りをやっていただけだったが、いつの間にかその重要な会議に同席するハメになり、本格的にその極秘プロジェクトにアサインされてしまった。


日中は16階で本業に従事し、夜になったら17階にあがって通信事業の会議に参加する日々になった。


最初は「このADSLっていう通信規格での事業、ホントに初めて大丈夫?」みたいなのをひたすら検証するような会議だった。参加者は10人程度で、孫さん、社長室長三木さん、孫さんのブレーン2名、通信技術者の筒井さん、平宮さんと僕ら16階の放送事業幹部3名が主だった。