ヒッピーに憧れて日本を飛び出した僕が、冷却されて帰国するまでの話。

著者: えぬ (西村)

 世間知らずで打たれ弱い僕が、ヒッピーに情景を抱いて海外で260日を過ごす内に、冷却され、日本に帰るまでの話です。閉塞感を感じて勢いよく日本を飛び出してみたけれど、どこに行っても息苦しさは解消されない。探し続けても、底無しの自由なんてものはない。代わりに発見したのは、自分を大きく見せようとする虚栄心へのシラケと、安定を求める揺るぎようの無い人間の自分でした。

一、

 田舎の小学校からそのまま地元の公立中学校に入学したまでは幸せでした。昼休みのドッジボールと放課後のスマッシュブラザーズで溢れかえる毎日は、言わずもがな充実していたし、その延長戦上にある未来という言葉だって常に輝いて見えました。誰もが夢を謳い、それが大人に両手を挙げて歓迎される。本当に幸せな時期でした。

 しかし、高校に進学するにあたって現実に直面します。受験戦争です。偏差値を追いかけて、同年代の子達といかにお勉強を上手にこなせるかで自分の価値が規定づけられていきます。偏差値という単一視点による競争の中で、多くの友が傷つくのを見送り、自身もそこそこに痛む中で、徐々に社会というものが見えてきてしまいました。社会の規定する人生とは競争であり、努力して少しでも『上』に向かわなくてはならないのです。そして数年後には『良い』大学に入学する事が絶対的な価値になり、受験が終わった2年半後には就活です。リクルートスーツ、新卒らしい髪型、『自分の強みと志望動機』、TOEIC、リーダー経験。これらが自身のアイデンティティとして規定付けられるのです。

 こうして充分に考える時間もなく、流されるままに僕たちは社会へと駆り立てられていきます。よく分からないのに、就活をしなきゃいけない。そしてその奥にあるのは、よく分からないまま、日本人の人生を歩まなくてはならない。少しづつ自分と社会との間に違和感を覚え始めました。しかし、周りの友人達は特にこの違和を感じていないようでした。

「就活だから仕方ないじゃん。」

 この一言で自身を納得させ、髪を黒染めするのです。なんで働くの?また競争しなくちゃいけないのか?考えていく内に、答えはどんどん見えなくなっていき、自分は社会に削ぐわない人間なのではないかと考えるようになりました。その時に思いついたのは、日本人を辞めて海外へ向かうという道でした。

二、

 海外に目が向いた最初のキッカケは、東日本大震災。日本を揺るがした大地震は、神奈川で暮らしていた僕も大きく揺さぶりました。教育で『絶対』と教えられていた本土と政府が威信を無くし、崩れ落ちていく様を目の当たりしたからです。国土不信と政治不信が合間って、極度のストレスに苛まれた時、日本の高校を中退してオーストラリアに向かい、現地の高校を卒業した友人と出会い、金言を耳にしました。

「私が日本に生まれたのは偶然に過ぎない。都合が悪くなったら私は日本人を辞めるよ。」

 この頃から機が訪れたら日本を脱出しよう、幸せは国外にあるはずだ、と国外での暮らしを羨望するようになっていたのです。その中でも特に興味を持ったのは『ヒッピー』という暮らし。『フォレスト・ガンプ』という映画に登場し、刹那的に陽気に暮らす彼らの姿が、非常に輝かしく見えました。人生を謳歌する事、これこそが生まれてきた使命ではないか。就職活動から続く、日本人としての人生を周りの友達が歩んでいく横で、会社や国という所属を離れ、浮遊しながら底抜けの自由を満喫する暮らしに憧憬を抱いている僕。「切り替えるなら、今のタイミングだ」と判断し、日本を離れる決意を固めるのでした。

三、

 大学3年22歳の夏、大学を休学した長髪の僕はフィジーに向かいました。中退する勇気が無かった時点で、日本に戻れる保険をかけたエセヒッピーなのはご察しの通りなのですが、当時の僕はやたらと意気込んでいました。フィジーを選んだ理由は2点。日本人として『南の島』に対して憧れがあった事と、英語の語学学校が安かったからです。語学力を心配して学校に通う辺りも、何とも日本人らしいの一言です。現地ではインド系夫婦のもとでホームステイしながら、平日は勉強、週末は村や海への遠出を繰り返す日々を3ヶ月送りました。ヘナで顔にタトゥーを入れて生活してみたり、離島でギターを弾いて友達をつくってみたり、ヒッチハイクの中で仲良くなった現地人に村へ招かれ、鶏や魚を蒸し焼きにしたご馳走を頂いたりと、手探りのヒッピーライフを楽しみ始めました。しかし、南国の生活は決して楽しい事だけではありませんでした。

 一つ目は非法治国家の脆弱性を痛感した事です。旅行代理店で詐欺に遭った際、警察に行ったものの「You Japanese」の言葉で助けてもらえなかった僕は、法テラスに通って制度を学びながら手続きをこなし、日本人として初めて現地で裁判を起こしました。努力の甲斐あって結果は勝訴、全額の返還が決められました。しかし期日になっても金は「犯人が使い切ってしまった」という理由で返ってきません。差し押さえを要求するも「可哀想だろ」と裁判所職員に宥められる始末。仕方がないので犯人に直接詰め寄って要求するという、裁判を無視した超法規的かつ原始的な手法で1/5を取り返しただけでした。その後、今民事裁判での債務不履行を理由に犯人は刑事裁判で懲役2年半を課せられたので、一応は僕の裁判に意味はあったようですが、手元に残るものが少なく、実感としてはプラスに思えませんでした。当時フィジーは軍事政権で、法律の有効性は曖昧なままでした。人間は思考に一貫性を保てない不安定な生き物です。犯人が可哀想という私情で判断を緩めないためにも、直接詰め寄るという原始的解決に回帰しないためにも、人間の手元を離れた強固なルール、法律の重要性を認識しました。ルールを束縛と感じていたはずなのに、不幸を回避するための皆のセーフティーネットと考えるようになりました。

 二つ目は原始農耕社会にシラケた事です。電気水道ガスのない、山奥の村に訪れた僕は、人類の理想の暮らしがここにあると興奮していました。日本の「会社」であくせくワークホリックするよりも、野菜を育て、鶏を飼い、週末には魚を釣る。この暮らしにこそ自由と生の充実があると信じていました。しかし、現地の実態は仕事だらけ。紅茶を飲むにも火をつけるところから始まるし、洗濯も川に向かうだけで重労働。人々の暮らしは大量の仕事を基調に構成されていました。勿論手作業で推し進めていく事にも魅力はあるのですが、僕の反応は「ケトル使ってお湯沸かしたり、洗濯機使う方が楽だな。こんな作業に手間かけるなら、機械に任せた方が良い」と醒めたものでした。遊んでいたいのに、余計な仕事が多過ぎて、仕事まみれの一日なのです。勿論会社でのお仕事と違って競合相手や納期等のプレッシャーはないにしろ、村長からのプレッシャーや村のルールに、一部生活の自由は規制されているように見えました。つまるところ、村には思い描いていた自由は存在せず、不便で仕事だらけの日々が待ち受けているのでした。

 そんなこんなでルールの緩い、(日本と比べて)発展途上の社会では、そこまで幸せになれない事を学んだ僕は、視点を改めオーストラリアに移動するのでした。よりワクワクした人生を歩むために。

四、

 オーストラリアに移動した僕の掲げたテーマは「インターナショナルフリーター」フィジーでの生活の甲斐あって、TOEIC800くらいの英語力を得た僕は、各国をフラフラしながら働くという暮らしを夢想するようになりました。最初に選んだのはシドニーでのワーキングホリデー。ここでも都市圏を選んでしまっているヘタレ日本人の僕でしたが、新生活に胸を躍らせながら家と職を探し始めました。家探しは成功しました。1LDKの物件に、国籍の違う7人でシェア暮らしをするという、映画『スパニッシュアパートメント』のような生活が待っていたからです。毎晩汚いベランダに集合して、シドニーの空気を胸一杯に吸いこみながら母国の事、シドニーのイケてるパブ、ライフスタイルと色々語り明かしました。問題があったのは職でした。

 お金がなかった僕は、手っ取り早く職にありつこうと、オープンスタッフを募集していたSUSHIレストランで働き始めました。日本人という理由だけで未経験ながらカウンターに立ち、インドネシア人と韓国人の先輩にマヨネーズとアボカドをふんだんに使ったSUSHIロールを作る日々が始まったのです。一見楽しげに聞こえますが、シフトは8:00〜22:00の日が多く、週80時間近く働いており、何のために海外に出たのか分からない生活をしていました。しかし、そんなに働けども給料がいつ払われるのか、いくら貰えるのかが明かされません。同僚も同様の悩みを抱えていたため、マネージャーにこの旨を訊ねに行きました。すると見た事もない形相で睨まれ、ボスとの面談を言い渡されました。翌日、激昂したボスから言われた事は忘れられません。

「お前は何のスキルもないのに、こちらは働かせてやって、SUSHI職人としてのスキルを与えてやってる。それなのに金の事を言い出すのか。fuckin disgustingだ。お前の代わりなんて大量にいるんだ。今すぐ辞めるか!?」

 今思えばオープンしたての時期で、資金繰りに苦労していたかもしれない中に、「雇ってやってる」従業員の1人に金を要求されるのは不愉快であったのかもしれません。後々給料は2週間払いというルールが決まったので一応の前進はあったものの、給料は法定最低時給(当時14.75ドル)を下回る、時給12ドルで計算されたものでした。

 周りのワーキングホリデーをしている友人に聞いて回っても最低時給を貰ってる人は殆どいません。何となくワーキングホリデーの実態が見えてきました。英語が流暢でない我々をわざわざ雇うのは、現地人を雇うには勿体無い仕事(特別なスキルを必要としない単調作業、労力を要する肉体労働)に従事させるためです。雇う側からすれば、コストのかからないマンパワー、使い勝手の良いコマなのです。幸い「グローバル」とか「オーストラリアンドリーム」「自分探し」といった言葉で若者は自主的に集うため、人には困りません。その上、驚くことにワーキングホリデー従事者達は労働環境に文句言う事がないのです。「海外で暮らしているから仕方がない」「日本で暮らすよりはマシ。海外にいる俺は凄い」海外生活をプライドの縁にし、環境を肯定する人が多いように見受けられました。この状況から、ワーキングホリデー従事者を「雇ってやってる」という意識の誕生があったのでしょう。言葉を選ばずに言えば、ワーキングホリデーは搾取を正当化する構造にあったのです。1ヶ月ほどSUSHIに従事し金を貯めた僕は、金も労力も搾取されないよう、現地人の雇用枠で採用されよう。この想いを胸にケアンズへ向かいます。しかし待ち受けていたのは只々辛い日々でした。

 履歴書を60通近く配り歩いても、全く面接に進めない。連絡が返ってきた土産店でも、女性用水着の試着が手伝えないとの理由により3時間で解雇。職歴もスキルも無い自分の価値の無さを突きつけられました。お金が減っていく恐怖から、泣く泣く志を曲げてワーキングホリデー従事者用の仕事、時給9ドルほどのマッサージ店に勤めるも1ヶ月ほどで親指を壊す始末。指のために病院に通い、それ以内は部屋にこもってギターを弾く日々が続きました。自分が情けなくて、惨めで、壊れそうになった時に、海外暮らしの本質を理解しました。

 マジョリティー(現地民)達が幸せに暮らすために形成されたコミュニティ(国)に、マイノリティーとして参画するという事は、そのマジョリティーのルールに則って生きるという事です。マジョリティー基準で考えれば価値の無いマイノリティが、マジョリティと同じ扱いを無条件に受け入れられる訳がないのです。特別な何かが無ければ、存外に扱われて当然と考えるべきなのです。牛肉が安かったり、ヌーディストビーチがあったり、人種差別を受けたりと、日本と違った面白い点もあったけど、そこに幸せはありませんでした。海外で働くだけでは、暮らすだけでは別にカッコよくも何ともない。インターナショナルフリーターの像を追うよりも、尊厳を持って生きたい。志向が変わった瞬間でした。

五、

 インターナショナルフリーターを諦めた僕は、一度日本で就職し、蓄財した後に物価の安い東南アジアに移動しリタイアライフを楽しむということを考え始めました。人生は長い、壮年期からヒッピーライクに生きてもいいじゃないか。リタイア後の輝かしい生活の下見のために、何となく素敵なイメージのあったフィリピンのセブに行く事にしました。どのようにすればセブを満喫できるかを考えた結果、三食付き、宿付き、毎週スキューバダイビング付きの格安語学学校に2ヶ月通う事にします。英語はそんなに興味がありませんでした。毎週スキューバダイビングをしながら、社会身分が担保された状態で南国を楽しみたかったのです。しかしフィリピンに来て2日、リタイアライフ満喫志向が打ちのめされるような事件に遭遇します。睡眠薬強盗です。

 セブに行く前にマニラで寄り道をしていた僕は、観光地イントラムロスにて2人の現地女性と知り合いました。最初は胡散臭く思いつつも、言葉を交わし、観光地を歩く中で徐々に打ち解けていきます。そんな折に彼女達から「今日は週末、私たちはクリスチャンだから教会に行かなくてはいけない。よかったら見にこない?」と誘われました。面白がってついていくと、彼女達は全身全霊で祈りを捧げ始めたのです。2人の敬虔さにすっかり心を打たれた僕は、2人を完全に信用しきってしまいました。そして教会を出た後に食事に誘われ、ランチを楽しんだ後「これからマンゴスチンを食べにドライブ行くから一緒に来ない?」と誘われ、疑いなくついて行き、車内で睡眠薬入りの酒を飲まされたのでした。意識が復活したのは17時間後、幸い命に別状はなく、パスポートも盗られなかったものの、紙幣の抜き取りとカードのスキミングとで、合計10万円近くが盗まれました。ただ、ドライブ前に滞在中の宿を伝えていたおかげで、昏睡状態の僕を宿に搬送してくれたので、今思えば優しめの睡眠薬強盗だったのかもしれません。すっかりマニラに萎縮した僕は、逃げるようにセブへと移動しました。そして1週間くらいは、寮が併設された学校の敷地内にこもり続けました。待ち望んでいたスキューバも、参加しませんでした。出会い頭の人に襲われるというのは流石にショックだったのです。ただ、ずっと篭っているとケアンズの鬱屈とした日々を繰り返しかねない、と心機一転し、外出した時にフィリピンの現実を目撃したのでした。

 外貨誘致目的と思われるシティ中心の大型ショッピングモールに向かうと、中では白人達が気持ちよさそうにビールを飲んでいました。モール内は清潔で、先進国と何ら変わりない光景が広がっています。しかし、その外にはストリートチルドレンが徘徊しているのでした。門番が入り口を固めているため、モール内に子供たちは侵入できませんが、一度モール外に出れば、金をくれと群がってきます。モールの内外で、露骨なまでに格差が剥き出しになっていました。モールを見つめる子供たちを見ていると、モール外で育てば、モールの内側へとヘイトが溜まり行くのかもしれないと考えるようになりました。同じ人間で在るにも関わらず、埋められない差が目の前に存在するのです。怒りの矛先が向けられても何らおかしくはありません。僕が睡眠薬強盗に遭ったのも、モール外から格差を正当化する世界への反撃であったと考えると納得です。また、睡眠薬強盗もそうでしたが、フィリピンには敬虔なクリスチャンが多いと語学学校の先生から聞きました。この環境下でモール内に怒りが向かない人は、死後の世界に救いを求めるのかもしれません。

 フィリピンではマイノリティとして、マジョリティーから狙われる立場にある。そう理解した時に、決してリタイアライフを国外で過ごす事に幸せを感じ得なくなってきました。また、スーパーマーケットで買った豆乳で食中毒になり、入院する羽目になった際、点滴が下手くそで、血管から漏れまくった点滴液が針の刺さっていた前腕部を膨張させ、2日ほど指先が動かなくなるという恐怖を味わいました。この事から医療の質、ひいては生活の質を再考し、仮に狙われなかったとしても、日本より素晴らしいリタイアライフを、フィリピンで送れないだろうと考えるようになりました。フィリピンにシラけて来た頃から猛烈に和食が恋しくなり、1週間に1度はモール内の日本食レストランに向かうようになってしまいました。気がつけば、出国から8ヶ月弱が過ぎていました。

六、

 フィリピンを発った僕は、バンコクへ向かいました。タイからベトナムを陸路で移動するという、何とも大学生らしい事をしてやろうと考えたのです。バンコクでは、大好きなバンドの歌詞に擬えて行き先も決めずにバスに飛び乗ってみたり、マーケットでカエルの皮が剥かれていくのを眺めていたり、伸び切った髪をドレッドに仕立てたりと充実した日々を送りました。暮らす事と観光は全く別物だなと、ホクホクしながらオンボロのバンに乗り、バックパッカーたちとカンボジアへと向かいました。カンボジアでは只管バックパッカ―宿の旅人に話しかけ、アンコールワットやベンメリア遺跡を観光したり、田舎の村に土管を埋めるボランティアに興じたりしました。同じ感情を、感動を、共有できる人がいる。当たり前の事だけれども、それだけでコンテンツの楽しさは何倍にも膨れ上がる気がしました。宿には色々なバックグラウンドを持つ人たちがいました。彼らと語り合う際、ドレッドヘアーをしている以上「僕は永遠の旅人なんです」みたいな感じで少しカッコつけたかったのですが、「いやあ、色々暮らしを見て回ったけど日本に帰ることにしたんですよね。」と素直に話してみました。見た目とのギャップで自然と笑いが取れた上に、温かく肯定されました。心のつっかえがすっと溶けていくのを感じました。最後に向かったのはベトナム。そこで僕は、ドレッドヘアに学ラン、下駄姿で、大学の教壇に立っていました。

 首都ホーチミンからバスで約2時間、海沿いの町ブンタウ。当時ここの大学で日本語教師をしている知り合いがいた僕は、授業をアシスタントする代わりに寝床を提供いただける事になったのです。日本語の授業のアシスタントするにあたり、教師経験の無い僕が提供できる価値を考えました。自分が英語を勉強した時は、文法や語彙等暗記要素が多くて辛かった。同じように、ベトナムの学生も暗記が多い日本語学習が辛いに違いない。しかし日本を好きになって貰えたら、日本語が大変でも勉強を頑張ってもらえるのではないか。日本人を否定しながらも、ウケるだろうと思って出国時にスーツケースに詰め込んだ浴衣や学ラン、下駄を纏い、教室のドアをノックしたのでした。奇異の目で見られ続けましたが、facebookへの投稿素材を渇望していた学生達にとっては格好の的だったようで、凄く写真を撮られました。その内、放課後のファミレスやバイクの後部座席に招かれるようになったので、好かれてはいたはずです、多分。日本語を教えるという仕事は非常に難儀を極めました。相手がどれだけの語彙力や知識を有しているか分からず、どのような伝え方をすれば理解して貰えるかが分からないからです。日本文化を共有していない相手に、どのようにして鯉のぼりを説明すればよいのか。どうして魚の布を空に上げて幸せを祈るのか。何故魚は鯉であるのか。一つ一つの事象を細分化し伝えていこうとしますが、少しでも難しい言葉、聞き慣れない話し方をすると、興味をもってきいてくれなくなります。彼らに日本語、ひいては日本を伝え続ける中で、自分が今迄「日本」にどれだけ疎かったかを感じる事となりました。敬語ってこんなに複雑なんだ。味の素ってこんなに美味いんだ。日本って良くも悪くもムラ社会だけど、凄く相手を傷つけないようにしているんだな。もう帰国する決心が固まっていました。

七、

 成田空港で日本語のアナウンスを聞いた時、全身全霊で単語を拾おうとしなくても、自然と文章が耳に入ってくる事に驚きました。日本語をフルオートで拾い上げるよう、僕の耳は仕上がっていたみたいです。そして掲げられた「おかえりなさい」に涙が零れそうになりました。なんて温かくて、まあるくて、柔らかい言葉なんだろう。教えながらも思っていたけど日本語って素敵だな。ひらがな・カタカナ・漢字、3つのアルファベットを組み合わせて、1つのコトを色んな風に切り取れるのだもん。出国前は日本の環境が当たり前になっていて、良いところは見えず悪いところだけをピックアップして嫌な気分になっていました。でも、日本人として働くことにも良いところはあるかもしれない。偏差値だけで人を測るのは賛同できないけど、少なくともその下支えとなっている義務教育は良い事だ。これからは「日本」をフラットに評価し、素敵なところは好きと思おう。その好きを誰かに伝えてみよう。ほどけかけたドレッドヘアで、実家への帰路につくのでした。

 その後、東京での暮らしの面白さを訪日観光客に伝えるゲストハウスを友人と始めます。ゲストに東京を、日本を伝えようと意気込んでいたのですが、彼らと共にTOKYOを過ごす中で、新しい視点をどんどん教えられるのでした。毎日大量の乗客に利用されているのに、地下鉄の吊革ピカピカに磨き上げられている事。平和主義を唱えながらもモデルガンが売られている事。コンビニで平然とエロ本が置かれている事。無料で入れる高い建物がチラホラある事。ベイブレードはカナダでも人気で、日本の有名チームは名を知られている事。どこに飲み物を格納しているのか分からない薄い自動販売機の仕組みが不可解である事。今迄知らなかった日本に夢中になり、どんどん国を好きになっていくのでした。また、のめり込むうちに、ひっそりと留年も決めてしまうのでした。

 そして僕は、あれだけ嫌っていた「日本人」になる事を決め、髪を切り、就職活動をしました。小学校より長い足掛け7年も大学に通っていた僕は、今年で26歳になります。周りより少しだけ遅くなっちゃったけど、今春から社会人になるのでした。

著者のえぬ (西村)さんに人生相談を申込む