カルト教団の信者であった母親の思い出
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それに、当時の王国会館には、地下にムチの用意された畳敷きの「ムチスペース」があったので、集会中には、そこでひたすらムチをされることもあった。
当時、同じ年代だった子供たちは、みんなそこで同様にムチ打たれて懲らしめられていた。
そこでは、子供たちの母親たちは互いに、靴ベラなどのムチの道具の譲り合いをして、代わる代わる子供たちをムチ打っていた。それはエホバの証人社会では、とてもありふれた光景だった。
そのため、近所の人たちからは毎週、あの場所から、子供のたちの泣き叫ぶ声が聞こえてきて大変に迷惑である、とたびたび苦情を受けていたようだ。
夜間にひとが集まる「王国会館」という謎の宗教施設と、拷問を受ける子供たちの泣き叫ぶ声なんて、世間の人からみれば、極めて異様な光景だったに違いない。
「あれで、よく地元の反対運動が起きなかったな」と今では不思議にさえ思う。
踊場バス停の近くにあった横浜市戸塚中央会衆の王国会館でのあの日々の強烈な思い出は、今でも決して忘れることはない。
そんな幼少期を過ごしていた自分たちにやがて転機が訪れた。
戸塚駅近郊の住宅街に引っ越しをしたのだ。年齢は私が5歳になる前だった。その後、5歳を迎え近くの幼稚園に入園した。
エホバの証人の親たちの中には、子供たちに、なるべく世の影響を受けさせない為に、幼稚園に入園させないという親も少なくはなかった。
いわゆる、霊的な英才教育というものである。
そんな親の場合は、「組織の唱える高等教育を回避せよ」との教えに従って、義務教育である小中学校は通わせるものの、高校は通信教育を受けさせて、昼間は野外奉仕に従事させるのである。
本当にJW組織の教えを盲信する親は恐ろしい。
そういう意味では、私は幸いなことに幼稚園に入園し、一般の社会生活に馴染む機会を一足早く得ることができた。
だが、それでも信者たち以外の他の子供たちと遊ぶのは幼稚園内だけだった。
さらに、その幼稚園では尊敬する恩師と運命的な出会いをする。
当時は60歳くらいだっただろうか。女性の金子先生だ。
まるで子供たちを温かく見守るマザーテレサのようにワンパクな私達を大切に世話してくれた。
時には厳しく、時には優しく、その子が本来持っている可能性を引き出してくれたのだ。
だが、私はその幼稚園で初めて宗教上の問題に直面した。
それは、皆と一緒に幼稚園歌が歌えないこととか、誕生日祝いができないこと。亡くなった園長の位牌に合掌できないことなどだ。
母親は手帳に子供ができないその理由を記載して、先生にそれを見せるように私に指示した。
金子先生はそれを見て、何も言うことなく全てを理解した様子で、それらの行事があるたびに私を別室に呼び匿ってくれたのだ。
おかげで私は周りの園児からのイジメに遭わずに済んだ。今でもその事はとても感謝している。
いわゆる、のびのびとした幼稚園生活を私は送ることができたからだ。ありがたい限りである。
幼稚園に通うようになって、私にはじめて好きな子ができた。もちろんJWの親を持つ子ではない。なぜだか分からないが、そのある一人の子に無性に惹かれてしまったのだ。
しおりという名前の彼女は、色白で細身のとてもかわいい子だった。
でも、幼稚園でお昼に出される牛乳がのめなくて、ちょっと病弱で度々幼稚園をお休みするようなそんなか弱い子だった。
今頃、彼女はどうしているのだろうか。
こうして記事を書く間に、不意にそれが頭をよぎる。
彼女もおそらくは、自分を好いていてくれたのだろう、と思う。
そして、バレンタインデーの日には、御多分にもれず、自分も何人かの女の子たちからチョコレートをいただいた。そこに彼女からのチョコレートも含まれていたように思う。
それが、自分にとっては他人から初めて貰う貴重なプレゼントだった。
そのプレゼントがとても嬉しくて、思わず自分にチョコレートをプレゼントしてくれた女の子たちに手紙を書いた。
でもJWの母親からは、お返しのマシュマロやキャンデーを贈るのは、異教の習慣だからダメよ、と断固阻止されて、結局、お返しができず仕舞いで終わってしまった。
今ではそのことを大変に申し訳なく思う。
せっかくの女の子たちの自分に対する好意を全てフイにしてしまったのだから。
もし、謝れるのなら、当時の同園生たちに心から謝りたい、と思っている。
そんなエホバの証人の母にとっては、エホバ神に従順に従う子供が理想の子供であって、それ以外は全て悪だった。
なので、エホバや組織に反抗的な私のような子供は、母親にとっては、全く可愛いくはなかったのだろう。それゆえ私は、母親から日夜ひたすらにムチを受け続けた。
だが、自分も、甘んじてそれを受け入れ続けた。
なぜなら、万が一、自分がムチを拒否して反抗した場合には、さらに荒れ狂ってムチを振るう母親、キレて何をするか分からない母親がひたすらに恐ろしかったからだ。
また、まるで怒りのリミッターの切れた般若のような母親はあまり見たくもなかった。
それでも、実際のところ、怒る母親はいつも般若のようだった。
時には、単に母親の機嫌が悪いから、という理由だけで、ムチを受けたこともあった。
さらに、私の態度が悪かったから、という理由で御飯を抜きにされたり、玄関の外に追いやられ、寒空にさらされることもたびたびであった。
子供なりに、親のその言動は、極めて理不尽だとは思ったが、当時の非力な子供だった自分は、ただただ、その場の状況に合わせるしかなかった。
毎日のように強かムチを打たれながらも、私は母親に必死に食らいついていった。
何しろ、この世界において、母親に捨てられたら、自分は生きてはいけないのだ、という必死な思いがあった為である。もちろん実際にそうだったのであるが。
それにしても非力な子供は本当に哀れで健気だ。
自分がどんな目に遭ったって、唯一の肉親である母親についていくしかないのだから。
だが、一方で、ある意味、当時の私は、母親の堪忍袋を試したかったのかもしれない。
どこまで行けば、母親が自分を捨てるのか、という、母親に対する過酷な愛情テストをしていたのだ。
そんな状況も分からずに、母親はたびたび、私に「調子づいている、調子に乗るな」と言ってはムチを与えた。
妹と喧嘩をして騒いだ際も、ムチの処罰を受けるのは、ひたすら自分だけだった。母親にとって悪者は常に長男である私だけだったのだ。
そんな母親に対する反抗心からか、小学校に上がった私は、母親のように強権的な担任だった椎原先生に反抗した。
上から押さえつける、その担任の教育方針に私は常に異議を唱え続け反抗したのだ。
それで私は担任からも毎日のように叩かれ、バケツを持たされて廊下に立たされた。時には校庭を何周も走らされ殴られた。
だが、母親はそんな担任の教育方針に賛同していたので、「いつでも先生は正しいのよ!」と私に言い聞かせていた。まるで神エホバを崇めるかのようだった。
事あるごとに私を懲らしめる先生は、母親にとって非常に都合が良かったようだ。
母親は、先生のおかげで家庭で、しつけなくても済む、とさえ思ったのだろうか。とにかく担任の先生とは気が合うようだった。それで、先生と面談の際には「先生、うちのロゴスは、とても悪い子なんで、気になさらずにもっともっと徹底的に懲らしめてやってください」と言って、母親はほくそ笑んでいた。
そんな小学校時代を私は過ごしてきた。
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