(1)生まれてから〜幼稚園の頃/パニック障害の音楽家

前話: パニック障害の音楽家/Part-0(2010年頃の)まえがき
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私が生まれたのは1958年(昭和33年)11月16日。東京タワーが完成した年でもあり、ちょうど戦後、日本の復興が成果を見せ始めた頃だったようです。父親は横浜、母親は芦屋生れで私は生まれも育ちも横浜です。


私の住んでいた東横線の駅周辺には池があって桜の木が繁っており「桃源郷のような場所」と古い文書には記載され、多くの文化人が住みついたとのことです。昔は東京に住んでいる人の避暑地として利用されていたそうで、その名残か近所にはテニスコートやスケートリンク、馬場などがあったそうです。


祖父が建てた家は高台にあり、庭にはバラのアーチやテラスがあって、近くの人には「丘の上のグラバー邸」と呼ばれていたそうです。当時の横浜はまだまだ住む人も少ないド田舎で、1軒の敷地が200坪も300坪もあるような家ばかりで、ノンキなものでした。


祖母はお琴や三味線の先生、母はピアノを教え、父親はバイオリニスト。例えばウタダヒカルのアンプラグド・ライブで彼女の真後ろでバイオリンを弾いてる白髪の男性がうちの父親です。祖父は音楽とは全然関係なく銀行家でしたが、東京銀行(当時は正金銀行)のニューヨーク、ブラジル、シドニー、上海等で支店長を勤めていたため、外人っぽい振る舞いが特長だったように記憶しています。母親は学生時代、英語の宿題というと祖父のお世話になっていたとか...私が生まれた時、父親はコンサートツアーで名古屋にいたそうです。


生まれて始めての記憶はベビーベッドに寝かされ、上をオルゴール付きの飾りがクルクルと回っていた事...


父親が音楽家という事もあり、家族という生活単位に対する考え方が友だちとは全然違っていたため、話が合わずに、よく不思議に思ったものです。


例えば毎日定時に出かけて帰って来るとか、ボーナスとか、年末年始というのは私の家庭にはあまり関係なく、休みができると突然幼稚園を抜け出して箱根に遊びに行っちゃう、という結構ラフなノリでした。年末と言えば、父親はたいがいレコード大賞だの懐かしの歌声だの紅白歌合戦だのの特番の演奏(それもかけもち)に行っていたため、31日には親の姿をテレビで見て、0時を過ぎ新年になってからステージ弁当(これがその頃の私の楽しみのひとつ!)を持って帰って来てくれた父親をまじえて年末年始とする事が我が家の恒例の行事でした。


おばあちゃんっ子だった私は、しょっちゅう祖母と一緒に遊んでいました。家が広かったせいもあり、祖母の友人等が泊まりがけで遊びに来る事も多く、そういう時は年寄りメンバーに混じって花札を教えてもらったりしたものです。


そんな事が原因かどうかはわかりませんが、幼稚園でもおばあちゃん園長先生のお気に入りで、園が終わったあとも特別に遊んでもらったり、オモチャをもらったりと特待生でした。今そんな事やったら一発で父兄会あたりで攻撃されそうですが当時はノンキなものだったわけです。特に園長先生にもらった「とんとん組木」という玩具はお気に入りで、木の素材を組み合わせて色々な形を作って遊んでいました。これが私の現在の「何かを作り出す」という考えのルーツになっているのだろうと思っています。


その頃の横浜の幼稚園の様子(1960年代):父が撮影した8ミリ映像です


私はその頃から家の中で遊ぶ事の方が好きだったのですが、別に内向的という感じでもなかったと思います。ま、今の教育環境だったら「ナントカ性傾向」とか分類されるのかも知れませんが...「何かを作る」という事が好きだったわけで、家の中で上記のような組み木を作るのも好きだけど、林の中で基地作りゴッコみたいな事をするなら外で遊ぶ事も好きでした。ただガキ大将のごとく意味もなく外で暴れまくる、というのは生理的に受け付けられない性格・体質だったと思います。


小さい頃から色が白かった私はよく女の子に間違えられました。着ている服も横浜の元町あたりで買うと、ちょっとオシャレな物も多く、その当時はオシャレな服は女の子が着るもの、という一般の認識があったから女の子と思われたのでしょう。一度、赤いセーターを着て、父親がオケに入っているNHKの生番組を見に愛宕山のNHK(この頃はまだ渋谷の放送センターが建設中だった)のホールに行った時、司会の林家三平に「かわいい女の子も入って来たりなんかして...」と言われ、全国放送でドアップになってしまい、内心憤慨したものです。


下の写真は当時の私:



幼稚園時代は高度成長期の始まりのということもあり、新幹線ができ、新横浜まで列車を見に行ったりしたものです。この頃の新横浜は畑のど真ん中にあり、コヤシの匂い漂うただのド田舎駅で、駅周辺には本気で肥溜めとかがありました。


また習い事をする、というのもこの頃からの流行で、私も御多分にもれず、ピアノと絵を習い始めました。絵の方は人物や花の写生がメインというのが昔も今も定番かもしれませんが、私としては幾何学模様のような絵(イラスト?)や未来の機械のような物を描く方が好きだったため、中々入り込めませんでした。


もし絵を描くなら写生でも本物ソックリに描けるようになりたかったのですが、それを教えてくれる人はいませんでした。今で言うウルトラリアリズムが好きだったのですが、当時そんな風潮は全くないし、ましてや子供がそんな物を好むというのも変だったのでしょう。


しかし「人間の描いた絵なのに、まるで本物の写真のよう」とか、「見方によって色々に取れる幾何学模様」というのが私の好きな絵でした。そうでないならば全く現実とは違った幻想的な絵に興味を覚えていました。いずれにしろ私から見るとたいして面白くもない花の絵や人の顔を描いた友だちの絵に5重丸がもらえたりするのは子供心ながら納得できないものを感じたものです。


ただ、こう言った傾向って大人的に分析すると「いかにも腺病質」っぽくてパニック障害の予備軍に入れられそうだよなあ、と思ったりしますよね。


それに対してピアノの方は状況が違っていました。私の場合、親の遺伝のせいかどうかはわかりませんが、耳で聞いた曲をピアノで弾く、という事に長けていました。おかげで譜面を読むのが大の苦手になってしまったのですが...正式に習い始めたピアノも、まず母親がピアノで弾き、それをソックリに弾く、というのが私流のピアノ演奏法でした。だから結構難しい曲も弾けているように見えたらしいのですが、実際には譜面はほとんど読んでいませんでした。全部母親が弾いたピアノやレコードで聞いたものをコピーしていたのです。でも、これに気付いていた大人はいなかったようです。


そんな事もあり、私は小さい頃からテレビのテーマソングやヒット曲を耳で聞いてピアノで弾くのが得意でした。当時、そういうのは邪道とされていたのでしょうが、父親がプロの音楽家という事もあり、周囲もおいそれと文句を言う事ができなかったんだろうな、と思います。


おかげで私は段々とエスカレートして変てこなピアノを弾くようになって行きました。小学生の頃のお得意は精神分裂ソナチネで、1つは右手をCのキーで、左手をDbのキーで弾くというもの。もう1つはソナチネ1番の伴奏の「ドソミソ」というパターンを自分では「ソミソド」という風に考えるようにして弾く。すると聞いた人はメロディーと伴奏が半拍ズレたように聞こえるというもの。さすがにこれをやるとピアノの先生に怒られましたが...


こんな行動も、なんとなくパニック障害予備軍に分類する指標にされそうな気がしますが...


また、この頃からテレビの放送が盛んになりだし、色々な民放が放送をスタートしだしました。当時のお気に入りはNHKの「ちろりん村とクルミの木」や「宇宙人ピピ」、そしてそれ以外はほとんどが海外のアニメでした。その頃はまだまだ国産の番組だけで放送をする事が難しかったらしく、外国製番組をセリフだけ吹き替えて放送する事が多かったようです。子供向けでは Ferix the cat、キャスパー、原始家族(フリントストーン)、宇宙家族(Jetsons)、空飛ぶロッキー君(Rocky and Bullwinkle)などがお気に入りでした。それぞれ今になってリメークされたりしているので御存じの方も多いのではないでしょうか?


いずれにしても、小さな頃これらのアニメの音楽に影響された事は間違いありません。これらはクラシックかジャズの要素を取り入れたものが多く、今聞いても新しい感じがする所が凄いと思います。ちなみに私が BGM を書いたヒットアニメの「うる星やつら」などでは「空飛ぶロッキー君」の影響を受けた曲もあります(パクリという意味ではなくコード進行やリズムの感じを似せている)。


幼稚園も後半になるとデンマークからレゴが輸入され始めました。恐らく横浜という土地柄もあって、一番最初に輸入品が元町に入り、それを買っていたのだと思われます。とんとん組み木に続きレゴにもムチャクチャはまりました。レゴは組み立てるという事の他に、色々な部品を集める、というのも楽しみの一つなわけで、この辺りから私のコレクション癖が始まったような気がします。


ここまでに形成された性格を考えてみても、一つの事に偏執的に熱狂できる、他の人と違った見方をする(違った見方しかできない)、コレクション癖、と映画だったら「この主人公の将来は間違いなくアレですよね」というのを自分で文章にしていても思ってしまいます。


さてパニック障害というのは完全に解明されているわけではありませんが、遺伝的要素はありそうだ、と言われているようです。私の母親はどうやらその要素を持っていたようで、私の記憶する限りでは3回の派手な発作を起こしています。その第1回目が幼稚園の頃だったように思います。それは、確か元町にあったレストランのジャーマンベーカリーで、私がホットドッグを食べようと注文した時、母は急に不安症状が起こし、まだホットドッグを食べかけの私を引っぱるようにしてレストランから飛び出したそうなのです。はっきりとした覚えはないのですが、なんとなくそんな事が幼稚園時代にあったような記憶があります。




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(2):小学生の頃(最初の不安症状?)/パニック障害の音楽家

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