父からの贈り物
人は子供の頃に親や教師などの大人の影響を受けやすいものです。特に親は生まれてからすでにそこにいる存在です。もちろんそれがなんらかの理由でいなくなってしまったとしても、親という存在がなければ子は存在しません。
子は親の背中を見て育つとはよく言います。尊敬する存在であっても反面教師であっても、なんらかの影響を私たちは受けて成長し、また誰かに影響を与えていくという循環を生み出しているのだと思います。
影響を一番受けた大人、私の場合、それは父だと思います。
父の性質を多分に受け継いでいるのではないかと常々感じるのです。
父は2013年に病によって亡くなりましたが、私の中には父によって刷り込まれたと言って過言ではない教訓が生き続けています。
その教訓とは…
「辛いところでやめるな。楽しくなるまで続けろ」
というものでした。
言葉で言われ続けたと言うよりも、実体験により植えつけられたと言った方が正しいかもしれません。
私の家族は夏は登山、冬はスキーという長期休みの恒例行事がありました。
私が6歳くらい、スキーを一人で滑れるようになってきた頃のことです。
転倒して捻挫をしました。湿布をして、普通なら安静です。
しかし、ここで父はもう一回滑りに私を連れて行きました。
「転んで痛い、嫌だというところで終わらせない」
それが父の信念でした。
もちろん父に支えてもらいながら滑る状態です。
それでも転んで捻挫したことで怖くなっていた心は、滑り降りてこれたことにより「大丈夫だった」とホッとしたのです。
その後、痛みや腫れが引いた時点で父は問答無用でまたスキーをさせました。
「大丈夫」と確信できることから「スキーって楽しいんだ」に変わるまで。
おかげさまで今でもスキーが好きです。なかなか滑りに行く事ができないのですが、それでも好きだと言い切れます。
それは転んだ時点でやめさせてもらえなかったから。楽しいと思えるところまでしつこく続けさせられたからです。
スキーについてはもう一つエピソードがあります。
コブがたくさんの上級者コースがありました。
スキーのスクールに参加した時に連れて行かれたのですが、うまく滑れず苦い思いをしました。
ですから、自分で自由に滑れる時間はそのコースは避けていたんですね。
父は当然のように「行くよ」と私を連れて行きました。
もちろんコースの上に立つと恐怖が先立ちます。嫌で仕方なんです。
しかし、立ち尽くしていても時間が過ぎていくだけで何も解決しません。
しかも、父はゆっくり滑って行ってしまうんです。
苦手なコースに一人で立たされるわけです。父がそばにいれば泣き言ひとつ言えますが、その父は下にいます。
だから、意を決して滑りだすんです。最初はとても怖い。
でも、コースの半分くらいまで来た時に気がつくんです。
「ゆっくりコースを見極めながらならいけるかも」って。
そうすると、コースを滑りきった時には反省するんです。
「あそこはこう滑ればもっとスムーズかもしれない」って。
そう思えたら、やってみたくなるのが人情ってものです。
「もう一回行く」って自分から言いだしているんです。
父の思惑通りですよね。
「嫌だ。怖い」って言って尻込みしていたのに「もう一回行く」って言って本当に行くんですから。
そして、それを何度も繰り返すんですから。
その時には恐怖はなくなっています。「このコース楽しい!」に変わっているんです。
こんなエピソードが幾つもあります。
「辛い、やめたい」と思うことってありますよね。
でも、私はそこでやめさせてもらえなかったんです。
それが私は良かったと今になって思っています。
それはなぜか。
きっと「辛い、やめたい」で本当にやめてしまっていたら、やめグセがついてしまっていたと思うんです。「辛いならやめちゃえばいいや」って。
そしてそこでやめてしまっていたら、そのことの本質に触れないままで、ただ「つまらないもの」という認識で終わってしまっていたかもしれません。
楽しさがわからない「辛い」という感情が出てくるのは、大抵、最初です。
基礎の段階で躓きがあり、それがなかなか打開できず「辛い」状態になるんです。
基礎というのは土台です。それを本格的に始めるための準備です。
畑でいうなら耕している状態。種を植えるところや成長過程や収穫は楽しいですが、ただ土を掘り返している時は早く種を植えたいと思っていることも多いですよね。
種を植える前に辛くてやめてしまえば、その後の種植えも成長を見守ることも、収穫もできません。
基礎ができていない状態でなんて、自分の思い通りにパフォーマンスするなんてできるものではありません。基礎ができても思い通りになんてなかなかできないのですから。
だからそこでやめない。
辛くてもそこで踏ん張るんです。
どうやって踏ん張るか。
工夫するんですよね。どうやったら楽しくなるのか。どうやったらより成長できて楽しめるようになるのか。
辛い時ってそこしか見えていません。「辛いんです。ただただ辛いんです」という現状を嘆いている状態です。
そこからちょっと先を見て「これを乗り越えてどうなったらいいだろう?」とか「この作業をどうやったら楽しくなるんだろう?」とか「これで何が身につくんだろう?」ということを明らかにしていくんです。
そうすると、自分が何をやっているのか、なぜこれをやっているのかが見えてきます。
先が見えてくるとその辛さが和らぎます。意味のわからない辛さを背負っているから辛いだけになるんです。
スキーで転んだのは「たまたま」でそれが続くわけではないから、スキーは辛いものではないということが続けることでわかります。
コブのコースもただ滑り方がわかっていなかっただけで、ちゃんとコースを観察すれば滑り方が見えてきます。
なぜ「辛い」のかを理解すると、そこから「どう楽しめるようになるか」を考え出すことができるようになります。
楽しくなるまで続けるというのは「やりきる」ということにつながります。
楽しいから続けられる。楽しさがわかるから続くのです。
そして、そこで満足しきったら、ちゃんと「終わる」ことができるんですね。
「辛いところでやめるな。楽しくなるまで続けろ」
私はこの言葉を生涯の心の指針にして生きていくんだろうなぁと思います。
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