種ナシくん~俺の精子を返せ!~

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「ステキ! 自分で料理をつくっちゃうなんて、いい旦那さんになりますね!」


 効果てきめんだ。酒も入って調子に乗っているボクは、何とか彼女を籠絡しようと、一気にローギアへ切り替え、険しい恋のマウンテンロードを登り切る覚悟を決めた。


「これからは男女共同参画が大事でしょ? 女性の社会進出が目まぐるしくなる時代に、男も料理のひとつくらいできるようになって、サポートしなきゃいけないって思っちゃったりしちゃったりするワケ。だから料理教室にも通ったんだよネ。得意料理は肉じゃが!」


 いまになって振り返ると赤面するが、全く思ってもないことではなかったからよしとした。最初は乗り気ではないように見えた彼女も、最初の固い表情が消え、機嫌がよくなり、コケティッシュな雰囲気が漂ってきた( 目薬は使っていない)


「アボカドの話で盛り上がれるなんて楽しいな。私、アボカド料理をつくるときにいつも思うんですけど、あの大きな種は邪魔ですよね。“種ナシアボガド”って売っていないのかな?」


“種ナシ”という言葉に心拍数が上がったが、吊り橋効果というものか、さらに運命的なめぐり合わせを感じてしまった。もしかしたら、この“アボちゃん”と長い関係になるのではないか、と直感する。


 同席した友人ふたりも、ちょうどよくカップルになっていた。ひとりはビートたけしのモノマネで女の子を笑わせていたが、最後に「寝る前に、ちゃんと絞めよう、親のクビ」と、ツービート時代の古ギャグがジェネレーションギャップからか、まったくニュアンスが通じず、スベり倒していた。

 ボクも面白い一面を見せなければと、酒の勢いで渾身のギャグを披露する。


「ね、ね、知ってる?ミック・ジャガーは子だくさんで、アスリート並みの体力を維持できているのは、アボカド料理をたくさん食べているかららしいよ。知ってた? 55歳で7人目の子どもができたんだって」


「スゴい! ミック・ジャガーって、エアロスミスでしたっけ?」


「それはスティーヴン・タイラー。とにかくアボガドの種は厄介だけど、ミックの“種”はもっとすごいんだって! で、肉じゃがが得意なボクは〝ニック・ジャガー〟」


 下ネタ寄りのオヤジギャグだったが、彼女は大笑いしてくれた。


「おもしろーい! じゃあ、これから〝ニック〟って呼んでいいですか?」


「もちろんだよ、アボちゃん」


 暴れん坊将軍時代のボクなら、その日のうちに勝負……と考えてしまっていたところだが、その日はそのまま別れ、あらためてデートを重ね、清く正しい交際をスタートすることにした。


種ナシの告白


 彼女はごく普通のお嬢さんだった。裕福とまではいかないにしても、一般のサラリーマン家庭に育ち、東京六大学のひとつを出て、OLになったという。純粋無垢、という印象は付き合い始めてからも変わらず、「早く専業主婦になって、子どもをたくさん産みたい」ということも言っていた。“運命の人”というのはこういうものだろうか、特にプロポーズしたわけでもないのに、気がつけば結婚しよう、という雰囲気になっていた。


 問題はただひとつ、ボクの“種”だ。「子どもをたくさん産みたい」という彼女のこと、もしかしたらまた振られてしまうかもしれないが、正直に話すことにした。因果なもので、場所はまた池袋。彼女も北関東出身で、池袋は東京の玄関口として馴染みの街になっていたのだった。


 あのときと同じように、「キッチンABC」で食事をしたあと、西口公園を散策した。違うのは、雪ではなく桜の吹雪が舞う季節だということ。暖かな日差しに「あのときとは違う」と確かな勇気をもらい、意を決して切り出す。


「アボちゃん、実はね……言いにくいことなんだけれど、ボク、実は乏精子症っていう病気を抱えているんだ・・・」


「ボーセーシショー? 何それ?」


「精子の数が正常値じゃないんだ。精液1ミリリットルあたり、2000万個以上ないと正常値とは言えないんだけれど、2年前の検査では、150万しかなかった・・・」


150万もいるのに、ニックは子どもが作れない、ということ?」


「体外受精とか、顕微受精という技術を使えば可能性はあるんだけれど、費用もかかるし、成功率も100%じゃないんだ」


 ボクはこれまでの経緯を、日が落ちるまで何時間もかけて、できる限り正直に、丁寧に説明した。農薬の問題から、いま取り組んでいるオーガニックな生活で、精子を回復させると決意していることも、もちろん伝えた。


 彼女はその間、暗い表情ひとつ見せず、ときに笑顔を浮かべながら聞いてくれた。前の彼女と比較して、年齢的な余裕もあったのかもしれないが、いずれにしても、ありのままを受け止めてくれる寛容さが、ボクにはうれしかった。


「いいと思うよ。私も応援するし、何年かがんばってダメだったら、そのときに体外受精に挑戦すればいいじゃない?」


「でも、絶対はないよ。傷つけてしまうかもしれないけれど、覚悟はできる?」


「子どもは授かりものだもん。それに、私の方にだって問題があるかもしれないし、一緒にがんばろうよ?」


 ボクが切り出せなかった、「一緒に一度、検査にいこう」という言葉も、彼女から投げかけてくれた。そしてふたり、祈るような気持ちで病院に足を運んだのだった。 


衝撃の結果――

いつものクリニックが休業に入っていたため、別の病院で検査を受けた。その結果、彼女の方はまったく問題ないどころか、卵子の数も質も、非常に優れているという判定が出た。そしてなんと、ボクの精子にも劇的な改善が見られたのだった。 


【検査結果】

精子数(1ミリリットルあたり):520万個(前回は150万個)

精子運動率:33%(前回は20%)


 2年でここまで改善するとは、正直驚いた。正常値にはまだ遠いが、食生活を劇的に変えたことの賜物と確信でき、ご無沙汰している先生の笑顔が頭に浮かんだ。彼女も喜んでくれる。 


「よかったじゃない! たった2年でここまで回復したのだから、このまま継続すれば、数年後には治るかも。それまでは、ふたりだけの生活を楽しめばいいじゃん」 


 明るい彼女の言葉に勇気づけられる。ボクたちはその後、結納を済ませ、新しい生活をスタートさせた。


結婚を機に、ボクは大手化学品メーカーに転職し、仙台に赴任することになった。東京を離れる前に、どうしても挨拶したい人がいる。もちろん、ボクをここまで導いてくれた、クリニックの先生だ。休業が続き心配している旨を、久しぶりのメールで伝えると、すでにリタイアされて、隠居生活をしているとのこと。年齢を考えれば当然のことだが、バイタリティあふれる姿から、にわかに想像できないことだった。自宅の場所を聞き、ご挨拶に伺うことにする。季節は秋になっていた。 


 先生の自宅は、目白にあった。閑静な住宅街で、80坪ほどの瀟洒な邸宅だ。奥さんに先立たれて、一人娘は商社マンの夫の海外赴任で、いまはカナダに住んでいるため、ひとり暮らしだという。庭先の木々は美しく紅葉しているが、同時に冬の訪れが迫っていることを感じさせる。 


 チャイムを押し、笑顔で迎えてくれた先生の姿を見て、ボクは驚いた。2年も経たない間に、先生は年相応に、弱々しい印象になっていた。きっと、仕事や啓蒙活動が活力につながっていたんだと思う。 


 居間に通されると、先生が大学病院に勤務していたころに受けた、数々の賞状が飾られていた。まずは深く頭を下げ、検査結果を伝える。


「先生、お蔭様で濃度は520万、運動率は33%まで改善しました!」


「よかったなぁ……。本当によかった……」 


 先生は我がことのようによろこび、ボクのこれまでの努力に耳を傾けてくれた。 


「私の医師としての人生はもう終わったし、残された時間もそんなに長くはないと思うが、君のような患者に出会えたことに感謝するよ。いつか子どもをつくって、私が研究し、伝えてきたことが間違っていなかったと証明してくれるね?」


「先生、約束します。絶対に子どもを作って、その暁には、先生に教わったことを、ボクの力の及ぶ範囲で、なるべく広く伝える努力をします」


「ああ、ありがとう。無理はしないようにね」 


 先生の恩に報いるためにも、絶対に子どもをつくるんだ。決意を新たにしたボクは、妊活にのめり込んでいくのだった。


“社会毒”を受け入れる寛容さ


 「無理はしないように」というのが、先生の最後のアドバイスだった――というとすでに先生が亡くなってしまったようだが、まだご存命なのであしからず。その言葉の意味を噛みしめる時期が、ボクにも来ていた。


 オーガニックな生活に傾倒すると、会社での付き合いに不都合が生じることは既述したが、ボクは精子を取り戻すためにどんな努力も厭わない、という決心から、食以外の面でも病的にストイックになっていった。 


 簡単な例を挙げると、精子は熱に弱いため、熱がこもるブリーフをやめてトランクスに切り替えたり、電磁波も精巣に悪影響を与えると聞いて、携帯電話をズボンのポケットに入れて持ち歩くのをやめたり。食事に至ってはさらに厳しくなり、友人とファミレスに行くこともなくなり、親戚の家で振る舞われたごちそうにすら手を付けられなくなった。 


 そんななかで思い出されたのが、「無理はしないように」という先生の言葉だ。そして、独身時代のように、現実的に無理ができなくなった、という状況の変化も大きかった。まだ20代前半の妻に、ボクの修行僧のような生活を強要することはできない。


 もっと言うと、妻は大の食べ歩き好きだ。彼女の楽しみに付き合うことも、夫婦生活のために大切なことだと悟り、週に12回は、妻に合わせてスイーツも嗜むようになった。このように、ある程度の“社会毒”を受け入れる寛容さが生まれたのも、先生と妻のおかげであり、何より定期検査で目覚ましい結果が出ていたからだ。つまり、たまのスイーツやジャンクフードは、自分へのご褒美という意味合いもあった。 


【検査結果】(3年目)

精子濃度(1ミリリットルあたり):1910万個

精子運動率:41

 

【検査結果】(4年目)

精子濃度(1ミリリットルあたり):2130万個

精子運動率:52


 なんと、4年目にしてついに、「正常値」のボーダーラインを超えることができた。あくまで机上の数値が改善しただけで、この時点でまだ、子どもはできていない。しかし、このまま努力を続ければ必ず、子どもを授かるだろうという確信を深めていった。 


震災に遭遇し、妊活中断……


 そんななかで迎えたのが、忘れもしない、2011311日だった。ボクは出張で青森にいて、あの巨大地震に見舞われた直後は携帯電話が通じず、妻の安否も確認できない状況だった。インターネットで信じられない映像を目の当たりにし、半ばパニック状態で妻がいる仙台に駆けつけようと、四方八方、手を尽くしたが、電車は動かず、道路も閉鎖され、ガソリンを買うこともできず、どうしようもなかった。 


 散歩好きの妻が、外出中に津波に襲われなかっただろうか。家にいたとしても、倒壊した建物の下敷きになっていないか――と、悪い想像ばかりが頭をめぐる。気が気でなかったが、夜になってようやく、電話がつながった。倒れてきた家具にぶつかり怪我を負ったものの、無事だということが確認できて安堵した。ただ、電話口の妻は珍しく動揺しており、 


「こんな大変なときにどうして帰ってこられないの!? 私のことなんてどうでもいいと思っているんでしょ!」 


 とまくし立ててくる。帰りたくても帰れない、この状況を説明しても通じないほど、錯乱状態に陥っていた。普段は人のことを第一に考える、優しい女性だ。その彼女が取り乱している様子に、震災の恐ろしさを改めて感じていた。 


 それからは悪夢の日々を強いられることになった。青森市内のホテルは滞在不可能な状態になり、五所川原まで退避。停電し、水も止まり、食料も不足しているなかで安宿に泊まり、ただただ暗い部屋で布団にくるまって、仙台に帰れる日を待つしかなかった。妻も仙台の避難所で、なんとか日々を乗り越えているようだった。ボクは祈るしかない。 


 そして一週間後、ようやく青森から盛岡、盛岡から仙台への臨時バスが運行されることになった。戦後の日本人引き揚げ列車のように、大きな荷物を持った人々が行列を作る。そうしてなんとか仙台に戻り、避難所にいる妻と対面することができた。 


 命が助かったのは何よりだったが、包帯姿が痛々しい。波乱万丈の人生を生きてきたボクと違い、箱入り娘だった彼女は、1週間の避難所生活に相当、まいっているようだった。病院で診察を受けさせたところ、貧血、胃潰瘍、帯状疱疹と診断され、しばらく入院することに。自宅は行政から「大規模半壊」と認定され、ボクらは家財もほとんど失った。 


自分と一緒になっていなければ、こんな目には遭わなかったのに……と、考えても仕方がない後悔に、胸が押しつぶされそうになる。そうして、震災から数ヶ月は、とても妊活に迎えるような状況ではなくなってしまった。 


-母の死、翌月に長女誕生- 


 妊活より、まずは生活基盤と妻のメンタリティを回復することが優先だ。会社からの配慮もあり、ボクたちは転勤も兼ねて北海道札幌市に避難移住し、そこでようやく、気分を一新して妊活を再開することができるようになった。 


 住むことになったのは、ススキノの中心にあるタワーマンションだ。家探しの時間が十分になかったとは言え、歓楽街にほど近く、いま思えば、これから子どもをつくろうというのに、それに適した立地とは思えない(笑)


 しかし、近く評判のいい産婦人科があり、その点は恵まれていた。訪れる患者の半数は、風俗関係者だという。昔の彼女が言っていた、「そういうお医者さんの方が腕はいいから」という言葉が脳裏に浮かぶ。ススキノの名医にボクらの状況を話したところ、「あとはタイミング法で試すのみ」ということだった。 


 しかし、何ヶ月経ってもうまくいかない。震災のショックで自分の精子力、妻の妊娠力が弱まってしまったのではないか……と取り乱したボクは、プロレスのジャイアントスイングの真似事をしてみたり、組体操の逆立ちをしてみたりと、精子がどうにか卵子に届かないかと、迷信めいたことにも頼るほど迷走していた。夫婦の愛を確かめる行為が、「ノルマ」や「作業」に近い感覚になっていく。 


 そうなると、妊活自体が苦痛を伴ってくる。妻は妊娠検査器を見つめながら嗚咽してしまうような状況で、ボクは少しのことでも癇癪を起こし、妻に八つ当たりしてしまうことまであった。妻は子どもができないことより、ボクが焦り、イライラしていることにプレッシャーを感じていたようだ。本当に情けない。 


そんなある日、会社の先輩とススキノに繰り出し、飲んだくれて、クダを巻いてしまった。人生わからないもので、これがひとつの転機になる。 


「先輩、ボク、種ナシなんですよぉ。いっくらがんばっても子どもができなくてぇ、これって世界の裏の支配者がしかけた人口削減計画かなにかですかあ? ボクみたいなデキの悪い人間には悪いモノをいっぱい食べさせて、優秀なやつだけ残そうって、そういう話でしょ?」 


 ベロンベロンのボクに、先輩は諭すように言葉をかけてくれた。実は先輩も、奥さんの方に問題があり、20代で結婚して、40まで子どもができなかったのだという。


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