「グローバル人材」育成についての話

次話: グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか?
著者: Matsui Takahiro

先日、日本の高校の教育関係者の方と話す機会があったけど、日本語教育でもおなじみの「グローバル人材」なる言葉が日本の教育界でももてはやされているらしい。

その人曰く「わざわざ『グローバル人材』なんて言葉を持ち出す前に、日本人であろうとなかろうと、人ときちんとかかわっていける教育環境を整えるべき。そういう意味で考えると、この環境さえ整えれることができれば『グローバル人材』などと言う言葉を持ち出す必要もなく、その要求をも満たすことができる人間は育てられる。」とのこと。

その通り。まさに炯眼。

この人、高校生の夏休み短期英語留学の調査ためにセブに来たらしいんだけど、留学の最大の効用は「子どもを親元から離すこと」にあると言い切った。とにかく、最近は何かと親が世話を焼きすぎて、子どもがスポイルされることが多く、親元にいると子どもがダメになるんだって。

個人的には、これは家族のあり方もそうだけど、地域、そして社会のあり方の問題でもあるんだろうと思う。かといってどうしたらいいかとかはすぐに思いつかないけどさ。ものすごい過保護にされる子どもがいる一方で、虐待で命を落とす子どももいる。

でも、その人は言ってた。「過保護は一種の虐待です。」

過保護と虐待。両極端に見えて実はその根は同じなのかもしれない。では、その根の正体とは一体何なのかと思う。そして、これもまた問題を個人に還元することでは見落とすものがあるような気がしていて、もっと大きな、人との関わりあい方自体の変容みたいなものが根源に横たわっているような気がする。

ただ、それは単に悪い方に進んでいる悲観的な現象ということじゃなくて、もっと大きなうねりの中の負の一面として捉えるべきかとも思う。

個人をより自由に、より開放的にと求めるうねりの中で、僕たちは僕たち自身のよりどころのようなものも解体していってしまったのかもしれない。僕たちは今、図らずとも自らの手でそれを壊してしまったことに気付いたとき、問題に対する処方箋を持たずに呆然と立ち尽くしているとっても差し支えないか。

このごろの社会の「拠る辺なさ」ゆえに自分の子どもさえも拒絶する。あるいは、過剰なつながりを迫りペット化する。こう考えれば問題の根は同じかも。

そしてそれは親子関係に限ったことではなくて、最も安易に考える人たちは、失った拠りどころをナショナリズムに求め奇妙キテレツな行動に走る。この奇怪な人たちの暴走を決して許してはいけない。しかし、では、そこで僕たちはどのような拠りどころを提示していけるのだろうか。

ほどほどでも楽しく暮らしていける生活をみんなで作っていくことはできないものか。ちなみに、その方が言うには、僕って「いわゆる日本で言うところの『グローバル人材』」なんだって。

おお、こんにちは、グローバル人材!もしかして前世はフィリピン人かもとは思っていたけどさ、「グローバル人材」については本人全く自覚ありません。これって、もしかしたら誰かが誰かを見てるつけるラベルの一種かも。

英語がペラペラ「グローバル人材」。何でもできるスーパーマン「グローバル人材」。日本経済再生の秘密兵器「グローバル人材」、名づけて、Mr.Rising Sun!

恥ずかしながら全部当てはまりません。。。

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グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか?