アメリカのアパレル会社時代

前話: 死相が出るまで追いつめられた商社マン時代の話
著者: Doddy

前回の続きです。

実は渡米してから職探しをしたのではなく、商社を退職前に決めていました。

もちろんコネもなければ、ビザのことなど、どうやったら長期滞在できるか全くわかりませんでした。

ググってたら、渡米・転職・ビザ申請をセットでヘルプしてくれるエージェントがあることを知りました。

その手のエージェントはたくさんあったので、5つくらい相見積取って、一番安いとこにしました。それでも込み込みで70万円くらい。

っていうかかかっても20〜30万くらいかと思った。。。

エージェントに高すぎるってブーブー文句言ってたら、分割払いもできるってすぐに勧めてきましたんで、じゃあ最初に現金一括で払うからまけろって言ってなんとか10万はまけてもらいました。

無事ビザも取得できすぐに渡米。住まいはとりあえず会社のアルバイトくんの実家の屋根裏部屋に居候することに。

コロンビア系アメリカ人の家族なんですが、半年後に大げんかして出ていくことになりますw

小さなアパレル販売会社

そのエージェントを通して出会ったのが、破天荒社長率いるアパレル卸会社でした。

ニューヨークから車で30分くらいのニュージャージー州にオフィスを構えるメンバーが10人くらいの小さな会社。

ニューヨークやLAを中心としたアメリカのブランド品を日本の小売店やデパートに卸販売しており、そこでバイヤー兼営業として入社しました。

もちろんアパレル経験なんてゼロ、どころかファッションと対極にいる人間です。

日系とはいえアメリカの会社だからか、めっちゃ自由で、とにかく数字さえ出せば好きなことやっていい、っていう社風でした。

もちろん定時になったらすぐ帰れるし、脇毛を燃やされることもない。

誰にどう営業してもいいし、何をどう売ってもいいw

今思えば、取引によって利益率まで決めていいのがすごいと思いました。前の会社ならありえん・・・。

ちなみに前の会社ではビシっとしたタイトなストライプスーツにネクタイ、先の細い革靴を履いて出勤していました。

アメリカではTシャツ&短パンにビーサン出勤。そのままビーチに直行できる格好でした。

商材も何十億、何百億もする戦闘機から、10ドルのTシャツへ。

戦闘機を扱うガチガチの古臭い日本の商社→洋服を扱うアメリカの自由で小さな会社というあらゆるギャップに戸惑いながら、がむしゃらに爆走してました。

まだ日本に出回っておらず、売れそうなブランドを発掘して、オーナーやデザイナーと交渉して、日本の小売店に「実はこんな売れそうなブランドありますよぉ〜!」つって営業しまくる。

営業スタイルにも明らかな違いがありました。

商社時代は長期スパンでチームで動く。1〜10年単位くらいのプロジェクトで、長く、深く既存の取引先と交渉して注文を取るスタイル。

スケールの大きさにやりがいがありますが、やってることはセオリー通りの範囲内で、会社の方針に基づいて大量の仕事をキチっとやりこなすこと。

アパレル会社では自分がどんだけ売り上げたか。それだけ。既存だろうと、新規だろうとか関係ない。頑張っても、頑張らなくても関係ない。

自分のやり方で、自分を売って、商品を売る。それだけ。

日本ではアメリカから輸入販売、アメリカでは日本へ輸出販売だったので、貿易に関わっているというのが唯一の共通点。

ターニングポイント

アメリカ移住&転職というあらゆる環境の変化は、目まぐるしいものでした。家族も友達も当然いませんし、人種、コトバ、文化、商習慣、生活ルール、仕事観が何もかも違うんだから当然ですよね。

でもその時は「とにかくやったるぞ〜!」と覚醒モードに入っていて、幸いホームシックになったりすることは一度もありませんでした。

そんなアメリカ生活の中で大きな転機がありました。

渡米後に仕事で関わった人達はこんなラインナップ。

アメリカ側:

①ブランドオーナー

②デザイナー

③小売店オーナー

④アパレル卸会社社長

日本:

①アパレルショップオーナー

②バイイング担当者

③アパレル卸会社社長

④インテリア雑貨・飲食店オーナー

そう、関わる人達、経営者ばっかりなんです。

小さな会社は取引相手も小さな会社が多く、創業社長と直接やり取りすることが多かった。

それまで起業や経営するという発想自体1ミリも持ったことはありませんでした。

地元ではもちろんのこと、商社時代でも僕が関わった関係者は全員サラリーマンでした。経営者なんて一人もいません。大企業は社長でさえほとんどがサラリーマンです。

経営者の生の話を聞けたり、ビジネスの厳しさ、考え方に触れる機会があることは大きな刺激でした。

また、アメリカではチャレンジや起業バンザイ文化があります。アルバイトの地元の大学生ですら、すでに会社を起こしていたり、趣味でサービスを作っていたり、とにかく”自分でビジネスをする”ということが身近にありました。

そんな環境が何年も続くと、今まで想像もしなかった気持ちがじわじわと湧いてきました。

入社6年目にさしかかった頃です。

ついに退職し、独立する決意をしました。

でも一つ大きな問題があり、伝えるのが重苦しい気持ちになっていました。

そうビザの問題。僕は就業ビザで滞在していました。

就業ビザの取得はスポンサー(ビザサポートをしてくれる会社)が必要です。逆にいえば、就業ビザはそのスポンサー会社でのみ有効。

つまり会社を辞めてしまったら就業ビザは失効し、転職、独立どころか日本に帰らないといけません。

ビザは本当に移民にとっては滞在の命綱で、何をするにしても呪いのようにまとわりついてきます。

最善の方法はグリーンカード(永住権)の取得。でも難易度は高く何年もかかる(2〜5年くらい)上、これも会社にスポンサーになってもらわなければいけません。

ここでポイントは会社にとって、就業ビザは転職も退職もできないため、従業員を縛る都合のいいビザであること。一方グリーンカードを取られてしまうと自由になってしまうので都合が悪い。つまり会社にとって従業員のグリーンカード申請をサポートするメリットって1ミリもないんです。だからサポートしてくれない会社はたくさんあります。

にもかかわらず、ありがたいことに僕は退職の1年程前からグリーンカードの申請をさせてもらってました。

つまり、僕はそんな会社に対し、「グリーンカード取得できたら、すぐに退職、独立したいです」と会社にとったらぶっ殺したくなるようなことを言う決意をしたってことです。


ある金曜日の夕方、ドキドキしながら社長を呼び出し、ぶっちゃけました。


オレ「自分でやってみたいです。試してみたいです。」


社長「・・・・・・・あぁ?」


オレ「・・・・・・」


社長「・・・・・・・・・・」


オレ「・・・・・・・・・・」


社長「だよな。」


オレ「????」


社長「いやおまえはいつかそう言うだろうなーと思ってた。」


オレ「マジっすか。」


社長「みてりゃわかるだろ。そういうタイプだ。」


オレ「(で、でもビザは・・・・)」


社長「とにかくビザのこと、会社のこと整理してからだぞ。」


オレ「あざっす〜!」


ってな感じで案外あっさりと終わりました。


拍子抜けの展開ですいません。


社長とはかなり仲良くさせてもらっていて、従業員としてではなく、人として僕の目標とか将来のこと、家族のことまで親身になって考えてくれてました。

頑固でめんどくさいところもありますが、上司を超えて師匠であり、恩人のようなひとです。

ほんと感謝してもしきれない存在です。

実はその社長は、僕が退職する2ヶ月前に亡くなってしまいました。

56歳でした。

何年も前から大病を患っており、奥さん以外内緒にしていたようです。

にもかかわらず極度の病院嫌い。

時々健康の話になると「人間生まれたときから、いつ死ぬかはすでに決まってる。病院に行こうが行くまいが関係ない。」の一点張り。

結局ぶっ倒れるまで断固として病院に行くことはなく、本当に最期まで頑固なひとでした。

僕はグリーンカード取得と同時に自分の会社を立ち上げ、今に至ります。

そういえば前回の記事で退職と渡米を決意するきっかけになったこれ。

入社4年目の夏休み、当時付き合っていた彼女とアメリカ旅行に行きました。毎日対アメリカの仕事をしていたのに、実ははじめての旅行。

この「当時付き合っていた彼女」というのが今の奥さん。

こんなわけわからん人生に付いてきてくれる妻にも感謝です。

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