陸の孤島の小さなクレープ屋さんの物語
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><第1章>
『絶対にすぐ潰れる』
友人や親戚にそう言われ、心配されながら開業したクレープ屋が17年目に入った。
今だから言えるが、僕自身も「もって2年だろうな」と思いながら開業したのである。
■「もって2年だろうな」と思った理由は2つある。
① 自分の納得のいくクレープが完成していないのにオープンせざるを得なかった。
② そもそもクレープ屋なんて都会もしくは大型ショッピングセンターでしか成立しないと思っていた。
<では何故クレープ屋を開業したのか?>
当時、うちには銀行から借りた数千万円の借金があった。
その借金は様々な事情で膨らんだものなのだが、数千万円もあると返済するのにはかなり長い期間と苦労を要するのである。
元々、地元では大手の会社に勤めていた親父だったが、早期退職をしてサラリーマン人生に終止符を打ち、今度は自分で事業をすると言い始めた。
借金もあるし、そんなリスクの高い事はやめて欲しいと、家族は全員大反対していたのだが、
結局、なんだかんだで「餃子屋」を開業することになったのである。
結局、修行もそこそこに開業したこの餃子屋は案の定全然繁盛ぜず、赤字続きで、借金はどんどん膨らんでいった。
当然銀行への支払いも滞り、生活は貧しく、借金は膨らむ一方で、その当時、僕は東京で働いていたのだが、実家がそんな状態なので毎月10万円を仕送りしていたのだが焼け石に水だった。
朝から晩まで一生懸命働いてもちっとも金は貯まらず、借金は減るどころか膨らむ一方という最悪のスパイラルに陥ってしまったのだ。
このままではどうしようもないので、約5年間続いた餃子屋は閉店することになった。
ただ、閉店したからと言って、毎月の借金の返済は待ってくれないのである。
夫婦共々働きに出るか、また何かしら商売をしてお金を稼がないと借金の返済どころか、日々の生活ですらままならない状況だったのだ。
そうは言っても親父とお袋の年齢は50後半で、アルバイトすら見つけるのに苦労する年齢で、就職なんて逆立ちしてもできる訳ないのである。
親父とお袋の間には僕を含め5人の子供がいるのだが、当時僕らはまだまだ若く経済力も無かったので、そんな二人を支えられる力を持っていなかった。。。。
だから親父もお袋も何かしらの商売をしてお金を稼がないと、借金が返せなかったのだ。
当然の事、うちにはお金は無く、借金まみれでもう銀行もお金を貸してくれないので、新しく商売を始めると言っても初期投資にかける金がないのだ。
しかも、親父とお袋が特別な技術や高度な知識をもっているはずもなく。。。。
そうなるとやはり参入障壁の低い飲食業に。
しかも初期投資があまりかからない、いわゆる粉モノ商売に。
という所に行き着くのである。
そこでお袋が昔から好きだったクレープ屋をやってみよう!という結論に至ったらしい。
その当時僕は、ブラック企業として有名だった居酒屋チェーンの某ワ○ミという企業で働いていたのだが(現在は労働環境も改善されて良い会社になっていると聞きました。)、仕事に嫌気がさして、次はIT企業に就職しようとワ○ミを辞め就職活動をしていたのである。
運よく最初に受けた1社目の某IT企業に内定をもらい来月から入社という段階だった。
【そんな時にお袋から僕の人生を変える1本の電話が掛かってくるのである】
電話の内容をざっとまとめるとこんな感じだ↓↓↓
クレープ屋を開業したいが、美味しいクレープの作り方も店舗のオペレーションもわからない、何もわからないから、ちょうど都合よく東京に住んでいる僕に東京で人気のクレープ店にアルバイトとして潜り込み全てのノウハウ盗んできて欲しいという事だった。
とにかく実家の借金を返さないといけないので、しょうがなく僕はもらっていた内定を一身上の都合で辞退し、日本では一番大手の「マリ〇ンクレープ」というクレープ店でアルバイトとして働き始めたのである。
もう時効だと思うので告白するが、お店の開店前に早く行ったり、閉店後意味もなくずっと残ったりして、店舗マニュアルや使用材料や原価表などクレープ屋開業に必要な情報をメモしたりデジカメで撮ったりしながらノウハウを拝借した。
そうして約半年が過ぎた頃、技術もマスターしたし色々なノウハウも蓄積したので「アメリカに留学することにしました」と言う今考えると何でそんな理由にしたかわからない理由で退職を告げ、宮崎に帰郷しクレープ屋を開業することになるのである。
1つだけ問題があったのは「クレープ生地のレシピ」という最も重要な部分はさすがに秘密だったので成分がわからず盗むことができなかったのだ。
とにかく「クレープ生地のレシピ」が完成しないと始まらないので、帰郷してからの約2ヶ月間、お袋と一緒に連日連夜試行錯誤を繰り返し「クレープ生地開発」に勤しんだのだった。
マリ○ンクレープの味に近づけようと、開発はオープン当日の朝まで続いたが、マリ○ンのクレープ生地の味は再現できなかった。
本来であれば、レシピが完成し準備が整ってから開業するのが常識だと思うが、家には「お金が無い」ゆえに一日でも早くお店をオープンしてお金を稼がないと明日の食費もままならない状況だったのだ。
■そして、2007年4月10日オープンの日を迎えた。
「もうダメかもしれない。。。。。」そう思った。
納得のいく生地も完成できなかったし、お金が無いからお店の内装や外装をいじる事もできないので、初期投資も最低限のお金しかかけれない。日々発生するであろう「日銭」で営業して行くしかない。お客が来なくて売上がなければその日から家族全員が路頭に迷い、最悪の場合自己破産とか生活保護になるかもしれない。。。。
『まさに背水の陣でのスタートだったのだ。』
とりあえず何を売っているお店なのかくらいは伝えないとお客は来ないので、それまでやっていた餃子屋の看板を外し、クレープ屋の看板を付け替えただけの、とてもクレープ屋さんとは思えない外観の「クレープティファニー」という「店名と外観が激しくミスマッチしたクレープ屋さん」が開業したのである。
そして、そのオープンの日に僕は信じられない光景を目の当たりにする事になるのである。
<第1章 ここまで>
■経営ワンポイントアドバイス(=^・^=)
ここで少し、僕が失敗から学んだ事を参考になればと思い書きます。↓↓
■売れなくなったら「広告」や「販促」は間違い!?
多分、多くの経営者が僕と同じような間違いをしているかもしれないので、
僕の失敗の経験が役に立つように一つアドバイスしておきます。
多くの経営者が陥る間違った構図として、営業、接客、販促と称して小手先で売上高をあげようとする行為だ。これは多少の効果で一時的に売上高は上がる場合もあるが、忙しくなるばかりで利益は出ない。なぜならば多少の売上高を取るために販促経費、営業経費、接客経費をかけすぎてしまうからだ。
売上高を上げることは、粗利益高を確保し利益を上げるための手段ではあるが、そのために経費をかけすぎて利益が出なければ本末転倒なのだ。
本来、売上高とは販促や営業や接客等で上げるのではなく、経営戦略と商品戦略で上げるものなのだ。
『まさに親父とお袋の餃子屋もその典型的な間違った構図になってしまっていたのである。』
売上が下がってくると「ここは一発逆転!広告を出して。」とか「販促チラシを作ってキャンペーンしよう!」とか考えると思う。
これは大きな間違いです。
著者の山本 顕太郎さんに人生相談を申込む