「置口空助の発達障害克服論」10年で概ね克服した話⑨発達障害の克服 (平成26年2月以降)
対「悪徳裁判官」① 説明1
このときの相手は
「過食」
「0か100思考」
「我の強さ」
これらは私の古い友人ですね。今思えば物心ついたときからこういう事はありました。現在でも同じようにありますね。そして、彼と私を苦しめる。
「ブロック」の技術を持って悪徳裁判官と闘うのでした。結論から言うと勝負決まっていましたね。技術を習得した時点で、私の勝ちでした。だいたい四日間ほどですね。上に挙げた者たちを分析し浄化する。その作業を4日間ほどで行いました。それほど苦労しなかったですね。悪徳裁判官の行動を見抜くこと。そして「浄化」をします。
「私の罪は償ったし、もっと言わしてもらうと、最初の罪は私の罪じゃございません
やめてください、もうあなたとは縁を切ります」そして「ついてる。うれしい。楽しい。感謝しています。幸せ。ありがとう。許します」必ずこれは忘れないでね。繰り返し繰り返し。この言霊の力を信じてみて下さい。少なくとも私は救われたよ。
対「悪徳裁判官」① 説明2
自分自身をせめるここからは劣等感が生まれてくる。人からの虐待や侮蔑と発達障害からくる不全感があり、それらからの根本的に自分自身にたいする不信感が原因ですね。「発達障害」という概念がない時代ですからね。ある種の開き直りなんてできないですよ。自分自身をただ責めるのです。
平成16年に「発達障害」と診断をされてから、私の苦手としていることを補う仕組みを作ってきている。あとそれを使いこなすだけでいい。ここまで来ている。
仕組みは大方完成している。できないと言っても、仕組みはもう完成しているのです。
できることは広げつつある。自分を信じてもいいのです。
重要なことなので言いますね。一般的な尺度からみてどうなのかということではないよ。あくまで自分だよ。かつての自分より向上しているということです。人を比較すると辛くなるだけだよ。もっと言うと、人は向上したいという気持ちを持っている。
でも私は努力自体が出来ない。定型発達者と同じ仕組みでは努力をできない。私が作ったのは発達障害者が向上するための仕組みです。まだこの時点では仕組みを使って結果は出ていないですよ。ただ仕組みを作ったので間違いなくいい方向へ進んでいる、ということです。このことが悪徳裁判官を浄化したあとで、ふたたび戻ってこないようにするための武器にはなると思います。
対「悪徳裁判官」①「過食」戦
私はストレスがかかると「過食」に走ります。まず過食依存症といった方がいい。食べてはいけないことはわかっているのに食べてしまう。罪の意識がてる。どんど ストレスがたまるね。エンドレスです。さて何がストレスかというと、罪の意識ですね、いろんなことができない自分に対して、そして自分を責めるのでした。繰り返しですよ。悪徳裁判官そのものですね。
普通の人に比べていろんなことが出来ないです。当時は何故なのか理解していなかった。
発達障害という概念はなかったからね。もし理解できていたら多少は楽になったかもわからないですね。いろんなことが出来ないと、自分の能力が無いこと責めます。であるなら努力をしようとするのです。人は向上心というものを本能で持っていますからね
でも当事者の実体験としていましてもらうと、努力すらできないのでした。こうしたらいいのではないかと思うわけですよ。私としては「思考が飛ぶ」「異常に疲れやすい」これが大きかったかな。努力すらできない。正確に言うと努力を継続することが出来ないですね。こうなると自分の性格を責め、そして自分の存在を責めるのです。
最終的に努力をしようとすることすらなくなるのです。継続できないのであれば意味がないですからね。だんだん感覚を麻痺してきますよ。何も人と比べ、他人より優りたいと思っているわけではないですよ。自分を向上させたいという素朴な気持ちがあって、それが出来ないのです。人間性が少しずつ剥がれていく。
人と言うのは幸せでなければより弱い人間を探していじめるという性質があります。
私は幸運なことに人をいじめるということをしてこなかった。少なくとも意識的には。
ただ憂さを晴らされる立場だったね。いじめる方としては私のような人間は美味しいですね。好んで罰を受けたがるように見えたと思いますね。だって自分を責めて自分で罰を受けているのですから。
いじめる人間は必ずこういいます
「お前が悪いからだ」
「俺が好期待しているのに応えないお前が悪い」
「お前のためなのだ」
私のせいにするわけですよ。憂さを晴らすために苛めていますとは絶対言わないですね。
そしてやられた方は
「私が悪いんだ」
「だからしょうがない」と。
こういうことが続くと人間を信じることが出来なくなる。
そしてそのストレスを緩和するために「過食」に走るのです。ひどい話だね。ふと気が付く。これは俺の要求では無い。彼の欲求なのだった。わたしの行動というのは彼の影響が大きい。
「見抜く」とはこういうことです。そして悪徳裁判官を浄化すればいいのです。そうすれば食べることの衝動は治まる。
対「悪徳裁判官」①「0か100思考」戦
私は非常に前向きな人間です。困難があるとむしろ燃える傾向がある。一面、いろんなことに精神的なダメージを受ける人です。他の人からみるとものすごく2面性を覚えるようです。「突然、人格が変わる」とかそれに類することは何度も言われています。
が、精神的なダメージをうけるポイントがあります。少しでも自分の思うとおりに行かなかったり予測が外れたりすると、失敗したと思い落ち込むのです。全然修正は可能でし、失敗したと決まったわけではないのですよ。人からみると「完璧主義」に見られると思います。そして、「0か100思考」といわれるものだと思っています。
これも常に自分を責めているから、起きることからなのかと思います。おれにはできないのではないか。これが私を物凄く苦しめます。少しでもうまくいかないと自分を責めるのです。それだけで世の中が終わった世に絶望してしまう。一方で俺もできるって気持ちも当然あるのですが。もうわけがわからいですよ(笑)。周囲の人はもっとそう思うだろうね。発達障害によく見られるらしいです。子供の頃からそうだったね。小学校中学年にはそうだったね。できないことがショックだね。そこから自己否定のエンドレスです。
この障害の克服の10年、諦めることなく、いろんなことをしてきました。
ただ、私の中に自分のやってきたこと認めない部分があるのです。
何か今までやってきたことは間違いではないか、繰り返し文句をつけて、常に私を貶めようとするのです。
何か成し遂げようと思うときは、できると思うわないとできないです。やっぱりできないじゃないかと思ってやったら、基本的に継続することができない。「やはり無理なのではないか?しても無駄なのではないか?完成しないではないか?」。こういうことは心を腐らせるね。
「0か100思考」。これが酷くなると、できないことの理由を探し始める。何々だから出来ないことにしてしまうのです。
「手相の運命線が短いから目標を達成できなよ」とかね。なんでもいいのです。
「太っている事は意思の弱さの現れだから目標を達成できないよ」とか。
「今日予定立てたことができなかった。もうだめだ。目標を達成できない」とかね。
うるせーよ(笑)。
今までできること少なかった。でもこの10年出来ることの仕組みを作ってきた。実際できることたくさんあるのです。介護の資格をとったこともあります。ケチをつけるのです。一度失敗をして2回目で合格したのですが、合格はしているのですが難癖を付けるのです。
「予定通りに勉強しなかったからだ」
「実行することに問題があるのではないか」とか
出来なかったことしか見ないのです。障害についても諦めず様々なことをして、少なくとも私は逃げていない。それでも評価しないのです。これが悪徳裁判官なのです。でも私は見抜いたぜ。
対「悪徳裁判官」①「我の強さ」戦
相当アグレッシブに動くタイプです。動くことでその場コントロールすることを意識していました。そして仕事はこうするのだと思っていました。こういう部分を評価してくれる方もいました。であれば悪いことではないように感じますね。
こういうタイプも会社には必要かもしれません。でも、周囲のひとは必ずしも幸せではないと思います。人によるのかな。私の場合はコンプレックスが根本にありました。発達障害がありつつも、少しずつ自分の出来ることを広げていきました。でも振り返ると、どこかで、見返したいと気持ちがあったね。その当時は意識していなかったけどもね。
そのため、どうも勝ち負けの勝負をしてしまうことになるのです。戦争なのです。これでは自分を高めることはならない。人と比べ合うことになるのです。会社というのは戦場ではなく、チームプレイを要求されところです。社員間の勝負をするところではない。結果として優劣がつくことがありますけどね。
そして自分が負ける場合もありますよ。どうすると思います?もっと努力をするのです。
今度こそは勝つぞと奮い立つのですね。もっともっと評価を欲しがるのです。スポーツ選手ならいいかもしれないですけどもね。
この気持ちの奥に「認められたい」という気持ちがあることを見抜いたのでした。かつての虐待されて、ないがしろに扱われてことがまだ心の傷になって今の行動に現れているのでした。必要以上に人に認められたいと思う駄目だね。自分の価値を人に委ねることになる。自分が自分でなくなっちゃうよ。
対「悪徳裁判官」① 思うこと1
私は自分なりの「仕組み」を構築することが自信の源になっています。今の私なら、どこでも食っていけるじゃないかと思っているよ。どこかで成功すると言う意味ではないですよ。日本語の通じるところなら、普通に働いて職場とか地域とかに溶け込んで、ごく普通の人として生活は出来ると思う。こう書くと、ささやかな希望だなと思うけど、今まで出来なかったことだからね。
この「ストーリー」を読んで下さる当事者のなかには、「置口だからできたのだろう」
なんて言う人も多分いるだろうね。いろんなことが出来ずにそれを責められて、そして自分を責めた。「そこから脱出できたのは、自分なり努力をして仕組みを作ったからでしょう。私にはできないよ。自分だけでやっていればいいだろう!」、なんていう人もいるだろうね。
だけど違うぜ、できないことをできるような仕組みを作ったから・軽減・克服出来たのではないぜ。私よりも過酷な状況にいる人は多分いると思う。努力すらできない状況の人もいるだろう。そんな人は、自分のしてきたことを元にした自信の構築の仕方というのは多分難しいと思うね。それは私も理解できます。
ただ、なんで諦めなかったと思う?私の目標「発達障害者を幸せにする」、この目標が私を動かしている。それは間違いないですが、でも目標というのは道標なのです。そこに何かをエンジンがあるわけではないです、エンジンに相当するものは別にあるのです
私は今まで自分運の良い人間だと思っていました。本当にそれを疑ったことはないです。ホームレスみたいなこともしていても、そのときもそうでしたね。人格破壊のようないじめを受けたことがあります。その時はやはり落ち込むことも当然ありました。でも基本的に私は自分が運の良い人間だということを信じていました。
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