若者はこう生きろ。ど田舎にできた高校アメフト部がたった2年で全国大会に出た話
さらに、トライ・フォー・ポイントといって、ゴール前3ヤードから1回だけ攻撃権が与えられ、この攻撃で選手が持ったボールがゴールラインを越えると2点、ボールを蹴ってゴールポストに入れると1点の得点になる。通常は、確率の高いキックを選ぶので合計7点の得点になる。
また、タッチダウンができないと判断したときにフィールドの途中から地面に置いたボールを蹴って、ゴールポストに入れれば3点の得点になる。
そして攻撃側が、守備側に自陣ゴールまでおしもどされれば、セーフティといって守備側に2点の得点となる。
その後試合は続けられたが、よく訓練された関学高等部の選手は、一寸の狂いも無く体型を組んで三木の僕らを完璧にブロックした。三木にはまるで精密なロボットを相手にしているようだった。
逆に三木がブロックしようとしても、そのときにはもう関学高等部の選手は目の前にいない。ボールがスナップされると同時にプレーを読んで、先にその方向に動き出してしまう。三木は相手に触れることすら許してもらえなかった。
こんな状態だから、三木高校は攻撃でファーストダウンなど取れるはずがない。4回目の攻撃は必ずパントになる。
そして、パントをすれば、一発でリターンタッチダウンされることを繰り返し、ついにU先生が、がまんできずにサイドラインから大声で叫んだ。
「うし、パントは外へ蹴り出せ」
しかし、時既に遅く、結局120点を取られた。
もちろん、三木高校は0点。
フットボールは選手の交代が自由で、関学高等部の選手は、攻撃、守備、キックと全てメンバーが異なり、常に選手が入れ替わっている。
それに比べ三木高校は、選手を交代する余裕はなく、一旦フィールドに入ったら、試合が終わるまで帰ってくることができない。
体力面でもハンディはあるが、それにしても120点とはよく取られたものだ。
フットボールの世界ではよく、勝敗が見えてくると、控え選手を出して練習をさせるので、こんなに点差が開くことはまずない。
しかし関学高等部は手をぬくことをせず、しっかりとレベルの違いを三木高校に教えた。
さすがに日本一の高校だと、僕らは変に感心した。
U先生は、フットボールを始めたばかりの三木に、最初にしっかりと日本一のレベルを体験させておきたかったのかも知れない。
その年の秋に再度関学高等部と対戦しているが、試合結果は60対0だった。後にこのことを、僕は、新入生オリエンテーリングの席上で、新入生300人を前にして壇上から誇らしげに語った。
「日本一の関学高等部と初めて対戦したときには120対0でコテンパンにやられました。でも、次に対戦したときには、60対0でした。何と60点も点差を縮めたのです。この調子だと、3回目の勝負は0対0で引き分けか、もしかすると勝てるかもしれません」
「あの日本一の関学高等部に勝てるのです。ですから、みなさん、将来有望なアメリカンフットボール部にぜひ来てください」
僕が憧れていたキャロルの永チャン(矢沢永吉)のこんなセリフがある。
「最初ぼろまけ。2回目ちょぼちょぼ。3回目余裕」
これをまねていったのだ。
⒒孤独でもやりきるのがリーダー
初めての練習試合も経験し、夏休みを迎えた。僕らは夏休み中にU先生からいろんなことを教えてもらい、どんどんとフットボールを吸収していった。
皆、日々の変化に練習が面白くて、面白くてたまらないという顔をしていた。そしてグランドから遠く離れたところからでも、叫び声が聞こえるくらい練習は活気に溢れていた。
ところが、夏休みが終わってしばらくした頃、その状況が変りだした。夏休み明けから練習の内容が変ったからだ。ある程度新しいことを覚えてしまったので、U先生は、完成度を上げるために同じことを繰り返す練習を指示していた。
どんなスポーツでも同じだが、繰り返し、繰り返し同じことを練習することによって、ほんの少しずつ完成度を上げていく。雨水が石に穴をあけるのと同じ理屈だ。
このストイックな練習に絶えられるか、絶えられないかで、一流と二流の差が出る。強くなるためにはどうしても乗り越えなければならない壁だ。僕らの気持ちに変化が出てきたのはこの頃だ。僕らの中から、始めた頃の楽しさが全くなくなった今の練習に意味を見い出せない者が出てきたのだ。
2年の秋、夏休みが終わって1ヶ月くらい経ったころから、一人、また一人と練習に顔を出すメンバーが減っていった。
あるとき
「今日はなんで関取がおらへんのや」
僕が不機嫌に尋ねると
「知らんわ。学校にはきとったけどな」
Dがその大きな口で迷惑そうに返事をした。
「連絡くらいしたらええのに」
Dの返事すら気に入らない僕は、感情的に答える。
こんなやり取りが毎日続いた。
やがて、練習を休んだメンバーは廊下で僕に出会うと、目を逸らすようになった。
僕は、いやな予感がしていた。
最初のころは練習を休むメンバーは入れ替わり立ち代りだったが、10月の終わりにはついに、練習に来るのは、僕以外には、MとYとSだけになってしまった。
「なんでみんなこうへんのや」
僕は三人に向かって怒鳴ったが、来ているやつに怒鳴ったところで、どうしようもなかった。
四人では、練習にならなかった。
僕は、みんなのいい加減さに腹がたって、ひとりで黙々と10ヤードダッシュを繰り返していた。それをMとYとSは、ただ横でじっと見ていた。
「うしは怒っとるで」
YがMに小声でいった。
このままでは、つぶれる。一人でダッシュを繰り返しながら、僕は考えていた。そして同時に、キャプテンとして何かをしなければならないとも思ったが、具体的に何をどうしたらよいのか分からなかった。いつの間にかダッシュの苦しさは意識の中から消えていた。代わりに孤独感と責任感が僕を押しつぶそうとしていた。
いかりと、あせりと、責任感の入り交じった複雑な気持ちが僕の頭の中をぐるぐると廻っていた。
その日は家に帰ってからも、そのことが頭から離れなかった。僕はずっと机に座っていた。どうしたらいいのか、あせるばかりで、時間だけが流れた。
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